忘れじの詩(うた)・あとがき
2012年6月のあとがき 去年の9月頃(平成23年)から書き始めた作品がようやっと終わりを迎えたので、少々、この作品に取り組むことになった経歴などを書きたいと思います。 きっかけはpixivで拝見した数々のファンアートでした。 それまで悪…
忘れじの詩(うた)・31
幾たびもの季節を繰り返し、今年も新雪の積もる冬が訪れた。 道も足も雪に埋まる安寧の時期に外出するものは、風によって凍る前に、やわらかい新雪を目的地まで踏み抜いてゆかねばならない。 体力をつけるのに丁度いいと、孫を連れだし、シモンは自分のそ…
忘れじの詩(うた)・30
教会のベッドで彼は目覚めた。 ふらふらとさまよい歩いていたところを教会関係者に保護されたのだ。 三日間、こんこんと眠り続け、ようやく話ができるまでに回復した彼を待ち受けていたのは、裁判の誤りを告げる通知と、今後彼の血筋であるベルモンド一族…
忘れじの詩(うた)・29
天地の境もなく星がまたたいている。 炎の喧噪もここまでは届かない。 水草のほとり、白鳥が眠りについている。真新しい墓、乾燥した大地、土に埋もれた花は白く、ときおり風が吹いては褪せた色の草原に波を描く。 伯爵が転移の術を行使したのだろう、気…
忘れじの詩(うた)・28
長い長い行進が終わりを迎えた。 町を抜けて城門にたどり着いたシモンのそばから、金色の魂が離れていく。安寧の地にふたたび帰るように、狩人にすべての信頼を寄せて、勝利を願う表情で、天へとのぼっていく。 ひとつのひとつの魂に感謝し、シモンは狩人…
忘れじの詩(うた)・27
英雄であるはずの狩人が魔王と通じているという噂は、トマス自身がふれまわらずとも、本人不在の裁判で立証されたことだった。トマスは裁判の結果をひとりふたりに話しただけだ。話はそのまま人々のあいだを波濤(はとう)となってうねり、さざめき、端まで…
忘れじの詩(うた)・26
すべてを燃やし尽くそうとした炎が鎮火し、要塞内は煤と白い煙がたちこめていた。突風が吹いて、その名残を空に飛ばした。女吸血鬼は室内に侵入した煙も同じように払ったのだ。青年はまだ眠っている。夢を見ているのだろうか、その表情はとても静かだ。 突…
忘れじの詩(うた)・25
雨に濡れる町。 時おり雷鳴が轟き、人々を、家々を震わせる。 ここは以前、狩人と竜公が訪れた小さな民家だ。いまとおなじ夜中に、彼らが尋ねてくるのをわかっていたように、その家の窓からは暖炉の明かりがもれていた。 伯爵は音もなく、細かな影を密集…
忘れじの詩(うた)・24
時のとまった若木が煙に燻されその葉を暴力的な死にわななかせている。火の粉が幕壁(まくかべ)をこえて空を飛びかっている。中庭は半分以上が火の海だ。井戸の屋根は焼けおちて、煤とともに大小の破片が水の底へと沈んでいった。熱気にあおられた鐘楼から…
忘れじの詩(うた)・23
今宵は三日月。 魔法の明かりであたりを照らしながら山道を進む一群があった。提灯持ちもいるにはいたが、細い薄明かりの月夜では、ランタンよりもやはり魔法の明かりのほうが便利だった。 道は要塞教会に続いていた。 先頭をイデュリ主教が歩いていた。…
忘れじの詩(うた)・22
シモンの祈りは星が落ちるように地の底へ下っていった。 底の底へ――世界が変わるほどの下層へ、力も光も失わぬ祈りが行き着く先には、墓所と同じような白霧が漂っていた。 もやのかかった、なにもない空間に、黒い影が立っていた。気品と威厳に満ちた確…
忘れじの詩(うた)・21
ロザリオを携え、玄義を唱えると、巨石によって封じられていた大橋が開いた。道は城門へと続いている。人の愚かな儀式の末、この世に現れたかりそめの城だ。シモンは疲労を感じさせぬ足取りで城内へ歩んでいく。 この城に天守はない。階段を下る道も石によ…
忘れじの詩(うた)・20
大地に狩人の血と汗の滲みる時は、あれから五日が経っていた。 町をゆけば通りの角に身をひそめることが増えた。後をつける不審な影が多くなったのだ。懐にはおそらく刃物を忍ばせている、憎悪の足並み。暗闇に同化し、気配を断つシモンは、時おり天を見上…
忘れじの詩(うた)・19
要塞は朝もやが立ちこめていた。 目覚めると体がひどく冷たかった。すぐに起きあがれるほど身が軽く、痛みはなにも残っていない。胸の軽さが気になった。手首で脈拍を計ると、どうもずいぶんと弱っている。無意識のうちに首筋を触った。穴は開いていなかっ…
忘れじの詩(うた)・18
雨が降っていた。 風花はその結晶を保てず、夕暮れには山脈一帯へ激しい水音を散らす晩秋の雨に変わった。 閉ざされた要塞の、ある一室で、雨音にまぎれるように熱っぽい息を交じり合わせるふたつの影があった。 青年の体は甘みと匂いがあった。 鍛え上…
忘れじの詩(うた)・17
事の顛末を別の場所で、別の悪魔が見ていた。最上の力を象徴する大角はくるぶしまでさかしまに事を回(めぐ)らし、金色の目は邪悪にものを見晴るかす。豪腕傲気と黒い脅威を膚に鎧としてまとわせたような厚い身体をもつ悪魔が、今はひとりの人間のために動…
忘れじの詩(うた)・16
無数のしゃれこうべの眼窩にろうそくの炎が燃えている。 炎の清らかさと人の尊厳を汚す燭台の明かりが、地の底の牢獄を照らしていた。それとは別に、大きさはたいまつの明かりを思わせる炎が、胴輪のような鉄枷に繋がれていた。自身の所有者である悪鬼ども…
忘れじの詩(うた)・15
今朝はよく晴れ渡り、陽の光は要塞教会の狂った大気をいつも以上に初夏の輝きに満たしていた。 庭の中井戸で水浴びを済ませ、整髪し、髭をあたると、青年はそのまま洗濯に取りかかった。 青年に救われた霊魂たちは、この日、雑事を手伝おうとしなかった。…
忘れじの詩(うた)・14
蝋燭に火が灯った。シモンは芯の太いそれらに順々に火をうつし、聖堂を厳かな明かりに満たしていく。祈りを捧げるに充分な夜燭(やしょく)で主祭壇や聖杯のかたちが橙色に照らされた。青年は跪き、頭の高さを聖櫃に合わせる。ここで命を失ったものたちの代…
忘れじの詩(うた)・13
食堂にて。 食後の穏やかさと気のゆるみが伯爵にこんな話をさせた。「君は雑事が似合わんな」 水差しからコップに水を注いでいるシモンに向かい、伯爵は呆れたように肘をついた。「ひとりの生活が長かったのだろうし、刃先や竈を扱う手際も段取りもいいが…
忘れじの詩(うた)・12
20本目のナイフが白地の壁に突き刺さった。刃自体で的を描くように密接した円となって、それらは間断なく壁に与えられる小刀の衝撃に震えている。標的に当たるまで威力の衰えぬそれは、投射位置からナイフの到達距離までおよそ400メートルは離れていた…
忘れじの詩(うた)・11
疲れのまま眠り、翌朝、陽光を額に感じていつもどおりに眼を開いてしまった。しかし痛みはまったくなく、少し眩しさを強く感じられる程度で、傷を負ったことなど、血涙の跡がのこる乾燥した頬の引きつりと枕辺の染みでしか実感できなかった。首から肩にかけ…
忘れじの詩(うた)・10
月だ。 海辺の洞窟に月明かりが差し込めば、きっとこのような氷碧の光があたりを照らし、絶え間ない波影の動きをゆらゆらと岩肌に映し出すのだろう。 夜の草地にくっきりと浮かび上がる自分の短い影を見て、シモンは空を見上げた。丸みを帯びた月の光が周…
忘れじの詩(うた)・9
異質な空間に死神の力が加わったからか、亡魂による給仕の気配はなく、食卓にはなんの準備もされていなかった。かえってそれで安心したように、シモンは厨房へ向かった。真っ白なテーブルクロスを見た伯爵はひら、と手を振り、あたたかいクリームスープやや…
忘れじの詩(うた)・8
彼は深い昏夜の眠りについていた。 息もなく身を横たえて瞳をとじている彼の耳に、100年ごとに覚えのあるどうにも嫌な鞭の音が聞こえてきた。眉をねじませ、耳障りな破裂音にいらいらとする。ここはどこだ。六角形のスペースも紅く囲む天鵞絨の肌触りも…
忘れじの詩(うた)・7
秋の夕照が瞳を穿つような厳しい時間に、当然のことながらふたり一緒に山を下りた。要塞の外は空気が冷たく、乾燥していた。町へ着くころには夜になるだろう。用事を済ませ、ふたたび帰り着くころには山間から朝蔭(あさかげ)が覗くのではないか。急とはい…
忘れじの詩(うた)・6
寝室にて、シモンが昼寝から目覚めると、午後の陽気に照らされた机の上に、食堂にあった一輪挿しが置かれていた。摘んだばかりのような真新しいエーデルワイスがその白い花弁の影を木目の上にまぶしく落としていた。寝台から起き上がり、シモンは花を手に取…
忘れじの詩(うた)・5
シモンが食堂の脇を通り過ぎ、厨房に入った。その姿と食堂を交互に見て、伯爵が声をかけた。「用意されているが」驚いたシモンがテーブルの上を見ると、確かに湯気の立ったスープや保存食のタラの燻製を調理したあたたかい練り込みパイがつつましく並べられ…
忘れじの詩(うた)・4
雲を通した薄い日差し。髪を梳かす乾いた風。太陽も雲の返しも秋の様相であるのに、中庭に渡るそれは未だ強く緑を残す初夏の景色に不似合いだった。 この場所こそが異質であるのに、白い壁に囲まれた要塞の存在感は、舞い下りた秋の性質こそが邪魔であると…
忘れじの詩(うた)・3
その夜に見た夢もいつもと代わり映えのしない内容だった。 上半身を裸にされ、鞭打ち台に手足を縛られている。 気づいたときには喉から意思の流出を塞ぐようにきつく顎を噛みしめていた。ひとことも声を漏らさぬように、どんな責めにも屈しないように。 …
忘れじの詩(うた)・2
幻滅したような、あるいは退屈でしょうがないような表情を、伯爵は真向かいに座る彼に向けていた。魔王と吸血鬼狩人が同じ食卓についていた。不安定な存在を維持するために伯爵は彼のそばを離れられず、青年もまた彼につきまとわれて迷惑そうだが、直接害の…
忘れじの詩(うた)・1
7年は耐えた。 朝靄に似た薄い光がまぶた一枚をへだてた浅い意識を覆い、彼に夢を見させず、また別の朝を迎えさせたが、望みもせず見慣れることとなった寝室の光景は、ベルモンド家の血を引く青年シモンに日次気の触れたことを自覚させた。 この日常に平…