忘れじの詩(うた)・4

 雲を通した薄い日差し。髪を梳かす乾いた風。太陽も雲の返しも秋の様相であるのに、中庭に渡るそれは未だ強く緑を残す初夏の景色に不似合いだった。
 この場所こそが異質であるのに、白い壁に囲まれた要塞の存在感は、舞い下りた秋の性質こそが邪魔であるとばかりにいびつな根を張らしていた。
 特徴ともいえる醜い流れが風に乗って伯爵の頬に吹いた。混じり合うことのない季節のなかで、公は白い壁の一角を見上げた。眉をひそめて、睥睨へいげいによって力を飛ばすと、壁が砕けて、中からひとつの塊が落ちてきた。それは呪詛をかたちにしたような禍々しい物体だった。壺いっぱいにうねる何十もの蛇の、とぐろの中に潜む毒を具現化し、吐き気を催す色で塗り込めたような――普通の人間ならば夢に見ただけで悪魔の来訪を信じ、絶望する、この要塞内を現実の空間と切り離している呪わしい形象。邪神を崇めまつる祭具だろう。伯爵が地に落ちたものを不快そうに見つめていると、背後から声がかけられた。シモンだった。

 振り向かなくともその声とともに躊躇する手が想像できる頼りない呼びかけだったが、公の見つめているものに気が留まると、彼はひと言「あぁ」と言った。見慣れているような声だった。隣に立ち、シモンは懐から小瓶に入った聖水を取り出した。青年は手にした聖水を瓶ごと無造作に地面へ投げつけ、見るも不快な祭具を聖なる炎で焼き払った。伯爵は彼の行動をじっと見つめていた。その眉をしかめた表情は理解しがたいものを見るようだった。

「よく平静を保てるな」

 どうということもなく彼は言った。「人間の作ったものだ。正気でなければとてもお前の城には乗り込めん」

 それを受けて伯爵は気を悪くしたように反論した。「こんな趣味の悪いものを誰が城に据えるか」

 意外そうな顔をする青年を無視して、彼はふたたび背を向けた。高貴なグーズグレイの外套が秋風にはためくその後ろ姿に、シモンははっきりとした口調で呼びかけた。

「ヴラド、ほかにこのような祭具を見なかったか?」

 聞き慣れない呼び名に伯爵は肩越しに彼を睨んだ。「ヴラド?」
 青年は物怖じしなかった。

「いつまでも“お前”呼ばわりというのも剣呑な響きだ。かといって今の不安定な状態のお前を竜公の名で呼ぶつもりもない。“お前”以外に呼び名が欲しい」

 昨夜のこともあるのにずいぶんと勝手な言いぐさだった。シモンはその雰囲気を感じ取り、最初からこう言いたかったという申し訳ない表情で謝罪した。

「昨日はすまなかった。悪夢や過去はどうあれ、目を覚まさせてくれたのは事実だ。あまりに体験したことのない状況につい感情的になってしまった。暴言を吐いたことを許してほしい」

 素直さもここまでくるとしらけてしまう。伯爵は馬鹿にしたように顔を背けた。歩き出す前に青年が再び呼び止めた。「ヴラド」伯爵は足を止めた。

「どうでも、敬うつもりがないらしいな」

「敬うつもりはある。しかし、私に敬称で呼ばれたいか?」

 伯爵はフンと鼻で不承不承返事をした。

「勝手にしろ。しかしお前に協力するつもりはない」言葉を投げ捨て、草を踏んだ。シモンは動かなかった。

「怒っているのか?」
「怒っていないし、お前のことなどどうでもいい」
「どうでもいいわけがないだろう。私にかけた呪いを忘れたか」
「覚えがないと言っている!」

 距離が生まれるにつれて次第にお互いの声量が張っていく。立ち止まればいいものを、追いかければいいものを、滑稽な状況をわかっていながら、どちらも意地を張るのをやめなかった。

「協力してくれたら助かるのだが」
「義理がない」
「禍々しい力を放つ祭具を壊すことでいくらか私の身体も楽になる。私が死んで困るのはお前ではないのか?」

 最後には叫ぶような問いかけが伯爵を立ち止まらせた。非常に強く眉をしかめて、伯爵は横顔を向け、鐘撞き塔を見上げた。何事かを呟く彼の言葉を聞き取ろうと、シモンは草を駆けた。近くに寄り、息を整え、もう一度尋ねる。

「なんだ?」
「……鐘の裏に呪印が彫られている」伯爵は顔を戻し、あたりの壁一帯を手のひらで示した。「中庭の草花の生えていない一角も土自体が邪教徒の血で汚れている。7年のあいだにどう清浄化に努めたのか知らんが、ずいぶんとお粗末な仕事だ」

 皮肉な言葉だった。青年は意に介さず、誠実さをこめたやわらかい声でこう答えた。

「ありがとう、ヴラド」

 遊び終えた子供のような微笑を返されて、伯爵は目を逸らした。腹立たしさと無下にできぬ快さとで、内からくすぐられるようだった。

「お前にはいいように振り回されている」

 どちらも今ではなりを鎮めているが、魔王と狩人による聖水で払い清める探索の途中で、伯爵は目も合わさず渡り廊下の中程でそう言った。

「昨日の修道院にしても。わたしを外で立たせたまま待たせた奴などお前が初めてだ」

 伯爵は苛立ちを思い出したように愚痴と文句を青年に告げた。青年は少し申し訳なさそうに眉を下げて、うつむきながら落ち着きない視線をさまよわせた。
 動揺した様子に伯爵の心――おもに小突きたいという軽い苛め心が刺激された。

「教団の者に臭われた以上のことをされたのか?」
「そうじゃない。時間がかかったのは本の閲覧をしていたからだ」
「修道院の図書とは来るたびそんなに新しい大量の本が収められるのか? 7年のあいだに大体の本を読み尽くしたのではなかったか? それとも単に読むのが遅いだけか」
「いちどに聞くな。知りたいことでもないくせに」シモンはうつむきから立ち直り、しかし視線は交わさずに、ずけずけとした伯爵の口調に顔をしかめた。「新しく棚に収められた本で興味の惹かれたものはほんの数冊で、それも読み流す程度の内容だった。それと、読むのが遅いというのではなく――」中庭から吹く風を見つめるように、シモンは渡り廊下の蔭の下で、木々を梳く音に目を向けた。「何度も読み返したい本というのは、ある」

 言葉を濁した青年の口調に伯爵は小さく鼻で笑った。

「趣味の多いことだ。やっかみを受けてまで読むような本なのか」
「……たぶん、そうだ」
「白兵指南でも書いてあるのか」
「違う。というか、その本は見つからないんだ。ずっと探しているんだが」
 変わった返事に伯爵は片眉を持ち上げた。「どういうことだ?」
 中庭の風景から心を戻した彼は、伝えるのをためらうように、ある出来事を口にした。
「探しているのは、お前の城の書庫で見つけた本だ。見つけたというか、はじめにその本に飛びかかられて、本までおかしな力に惑わされているのを知った。とっさのことに手で払い落としたが、床に開いた本を見たその時に――」話すうちに視線は過去の情景を思い出して俯くかたちに変わっていった。まるでその本が足下にあるように、青年の言葉はこう続いた。「思わず拾い上げずにはいられないほどの……」その目は感動に揺れていた。文面を思い出したのだろう。言葉に詰まる様子を受け、伯爵は責める心を脇に置き、彼の追憶を静かに見つめた。

「なんという本だ?」

 神秘的な横顔が夏と秋のいとまの光る風を受けて、息を飲むほどに美しかった。
 金色の髪が気吹いぶきを流すように舞澄まし、肩に落ち着くまでのあいだ、青年は口を開けたが、声を発しなかった。そして彼は廊下の先を見据え、教えるのをやめた。

「もう、いいだろう。これ以上、立ち入るな」

 過去から現在へと、無理に秩序立てた狩人の横顔を見て、伯爵は不愉快な様子で気を背けた。この男には本当にいいように振りまわされている。

「もとより、こちらも早くお前との呑気な散歩を終わらせたい」