忘れじの詩(うた)・1

 7年は耐えた。
 朝靄に似た薄い光がまぶた一枚をへだてた浅い意識を覆い、彼に夢を見させず、また別の朝を迎えさせたが、望みもせず見慣れることとなった寝室の光景は、ベルモンド家の血を引く青年シモンに日次気の触れたことを自覚させた。
 この日常に平静でいられることこそ狂気のあらわれであり、呪いなのだ。仮にこころが平生と相違ないとしても、数日前から続くこの状況のなかにいて、必要最低限の食事や、浅いながらも睡眠を摂れる自分は、ベルモンド一族の特異性の、強靱な精神力とよぶには度合の違う、あまりに逸脱したなにかを有しているのではないか、そう彼に思わせるほど事態は異常であり、変化のないものだった。

 寝台に横たわるシモンを眺めるように、壁際にすえた粗末な椅子に、かつて滅びを迎えた悪魔城の城主が座っていた。額を隠すことなく後ろへ撫でつけた短い黒髪、光沢のない深い闇色の長衣。190㎝を超える長身には苦しいだろう小さな椅子の、きしむ背もたれに身をゆだねた彼は、脚を組み、両指は段違いに重ね合わせて、時おり遊ぶように関節を撫でている。
 無表情ながら穏やかに見えるその黒瞳が時おり意思を示すように深紅の光を流すのを、シモン・ベルモンドは知っている。知っていながら、彼の表情は眉間に少し皺を寄せただけの静謐なものだった。朝日が射す質素な作りの部屋のなかで、玉座以外の椅子に腰掛ける魔王など彼の理解を超えている。

 もちろん、かつての彼らしくはじめてこの光景を目の当たりにしたときは、寝起きとは思えぬ鋭い鞭の一閃を城主の首に見舞ったものだった。魔王の軍勢をことごとく討ち果たした聖鞭、そして夜の眷属を滅ぼすことができる唯一の武器ヴァンパイアキラーは、城を無くした主の首を突き抜け、壁を穿った。
 岩をも砕く重い鞭のしなりを平然と眺めた魔王はひとこと「健在だな」と呟き、ゆっくりと首をまわした。
「危害を加えるつもりはない」と口にしたのは、いくつもの短剣が投げ槍の勢いをもって椅子へ突き立てられてからのことだった。粉みじんになったそれから立ち上がり、公はシモンに近づいた。なおも戦意のたゆまない顎をつかむと、嫌悪感をあらわにした彼の瞳をのぞき込んだ。「傷が痛むか?」
 深く鋭いまなざしは苦渋のにじむ瞳を越えて、彼の背中を灼き尽くすような赤い戦慄を走らせた。

 どういうことなのかは今もわからない。
 青年の武器はあのヴァンパイアキラーでも相手に傷を付けることがかなわないのに、公はやすやすとシモンの顎に触れた。ベルモンド一族の血を引く青年は、とうとう伯爵の呪いが成就したのだと、己が死を覚悟した。しかし、彼は先刻告げた言葉どおりに、シモンになんの危害も加えなかった。暗黒の力や魔術のたぐいで精神を乱すこともしなかった。顔を見据えて、そして消えた。
 その日だけならば幻を見たと思っただろう。だが伯爵は次の日の朝も現れた。腰掛けるものがなにもなく大変不満だというように、そして条件反射で振るわれた鞭の一撃を霧のように透かして、優雅かつ尊大に、黒の長衣をめていた。
 新たに増えた石壁の裂け目を見ようともせず、公はあきれたように忠告した。

「いい加減にせねば、お前もいずれこの矮屋わいおくとともに埋まってしまうぞ」
「矮屋だと?」
「規模は大きいようだがお前以外に誰もいないではないか。遺棄された要塞教会になぜ住みついた。自分が陥落させた城の跡地を眺めて傑物の気に耽っていたのか?」
 伯爵の嘲りにシモンは声も荒く下から睨みあげた。
「ちがう。そもそもここで惨劇が起こらなければお前も復活を果たさなかった。私がここにいるのは……」

 12世紀ごろ、商業を興すためトランシルヴァニアに『サシ』というドイツ系ルーマニア人が移住した。当時、サシ人の集落は周辺の遊牧民族からの度重なる襲撃を受けた。彼らは教会の防衛を強化し、増築した施設を修営することでこれに備えた。かくして教会の要塞化が進み、外敵からの攻撃が激しくなるにつれて、教会の防衛施設はこれに耐えうるようより堅牢なものとなり、その技術は村民を守るための厚い城壁を張り巡らせるまでに高められた。水や食料を備蓄した防衛拠点として、1394~1690年の3世紀にわたり、オスマン帝国からの侵略を阻むために各地に建設された要塞教会は600を数えた。

 そのうちのひとつ、かつて悪魔城が現出した公国の遺領を監視・哨務しょうむする任処として東方正教会が定めた要塞教会がある。城主を討ち、その居城の崩壊を見届けた英雄、シモン・ベルモンドが立った岡岬にほど近い山陰に建つ教会がそれである。全体に白を基調として、教会をアーチ状に囲んだ城壁が尾根の一角に現存する。元々は豊かな森が並び、清冽な川が流れる風土のよい土地に建設された一般的な要塞教会だったが、ここにあるひとつの怪異が起こった。

 トランシルヴァニアは内にも恐るべき敵を抱えていた。
 名をヴラド・ツェペシュ公。伯爵の爵位を持つ魔王。禁忌とされていた暗黒邪神崇拝によって魔界と通じる術を得た伝説の竜公だ。力の象徴であるこの世ならぬ混沌の主として玉座に着く彼の城を人はいつしか悪魔城と呼んだ。

 魔物の軍勢を従えた彼は嗜虐者として君臨し、ワラキア全土を暗黒と殺戮の焦土に変えた。その暴虐がヨーロッパ全土へ及ぼうとしたとき、総主教の命により魔王討伐の任を受けたラルフ・C・ベルモンドとその仲間達の手で、竜公の生命は絶たれ、人の理解の及ばぬ迅雷のごとき侵攻は食い止められた。

 しかし竜公は蘇った。伝説のはじまりである。
 最初の死から100年後の1577年、魔王はふたたびこの世に舞い戻った。崩落したはずの悪魔城をも復活させて、前にも増した凶暴な力をもって、トランシルヴァニアを憎悪と脅威の牙にかけた。このとき、英雄の血を引くクリストファー・ベルモンドが二度に渡り魔王の悪虐を阻止したが、ここで判明したことが後の世にも広く伝えられ、さらなる数の要塞教会の建設に拍車をかけた。

 竜公の魂は決して滅びぬこと、奸凶の者どもが捧げる祈りによってかつての君主が蘇ること、そして古びた竜鱗が剥がれ落ち、新たに気格ある煌めきがその身に宿るように、彼の振るう悪業の猛火は、自身の萌蘇ほうそを歓び、天地の果てまで歌い上げるように、とめどなく勢いを増していくこと。
 口伝にはこうある。

『魔王は百年に一度、この世の力が弱まる頃、邪悪な心を持つ人間の祈りによって復活する。そして、その復活の度に彼の魔力は強くなる』

 かつてワラキア全土を嗜虐の血に染めた魔王の復活にトランシルヴァニアの人々が厳戒を怠らなかったのは当然のことであり、もしも伝説どおりに魔物の軍勢を従えたヴラド公が悪魔城と共に蘇ったとしたら、その居城を早急に探知し、しかるべき筋へ伝達しなくてはならなかった。混沌の産物である悪魔城がどこに現れるのかを事前に察知することは不可能であり、その事実を示す記録には、公の復活に要する百年の周期にも満たない1591年に『轟音とともに魔力の影を落とす4つの城が現れた』とある。先の英雄クリストファー・ベルモンドの活躍によって事なきを得た戦いの記録であるが、要塞教会の必要性もまた確認された。各地に建設された要塞教会は悪魔城出現の際の近隣住民の避難、防衛の場であり、伯爵の百年に一度の復活に備えるためのものでもあった。

 そしてその人類の垣楯かいだては内部の人間の裏切りによって断ち割られた。
 伝承にささやかれる復活の年に、要塞教会に勤めていた人々全員が一夜にして忽然と姿を消してしまった。人間だけが煙となって消えてしまったように、部屋や廊下には直前まで着用していたであろうひとそろいの衣服が散乱していた。
 悪魔城は時を移さず出現した。
 のちの教会の調べでは、東方正教会に所属しながら悪魔と通じた暗黒邪神崇拝の信者が、ひとところに集まった全員の命を魔王復活のための儀式、つまり、いけにえとして用いたという。裏切り者はほどなく処刑されたが、それらは悪魔城崩壊後も公表されることはなく、数日後、英雄シモン・ベルモンドは要塞教会内の調査と辺り一帯の清浄化の任に赴くこととなった。

「なぜお前が」

 長話を立ったまま聞くことにいらだちを隠せない伯爵は尊大にシモンを見下した。ベッドに腰掛けたまま淡々と話すシモンはとくに気にも留めていないようだった。

「調査隊を組んだ教会から形ばかりの力添えを頼まれたが、皆、ここの城壁から中へ入った途端に、一分とたたずに発狂した」

 伯爵の眉根が興味深げに持ち上げられた。

「凄烈なありさまだった。頭を抱えて悶え苦しむ者、血混じりの泡を吹いて倒れる者、首を吊られたように目玉や舌が飛び出す者……まだ外にいた連中はこちらの異変に気づくと彼らを見捨てて我先に逃げ出し……その者たちも全員が下山を果たせず、脚を踏み外して崖下に落下したり、岩雪崩に遭遇したり……50人の編成隊は半分も残らなかった。遺体を回収して教会に報告した際に、正式にここの調査を頼まれた」

「そこまでの異変が起こっている場所なら捨て置けばよかろうに」

「それはできない」シモンの返答は純一無雑なものだった。「この場所にいたすべての者がその身を悪魔に奪われた。なにもわからぬまま、裸で。忌まわしい空間をそのままにはしておけないし、形見が衣服なり十字架なり残っていればそれらを私たちの墓地で弔いたい」

「そのような理由で」伯爵には理解しがたい言動だった。「ずっとひとりでここにいるのか。あきれたものだ、形見の回収にどれだけの時間がかかった」

「およそ200人の衣類の分別に2年。部屋に残っていたものならまだ見当のつく場合があったが、廊下や中庭にあるものは名前の縫い取りがない場合はどうしようもなく、身元不明のものが半分以上を占めた。内部の異質さは入ってすぐにわかったが、事件の起こった夜からずっと、この教会は変わることがない」

 意味のわかりかねた伯爵にシモンは視線を動かし、窓から射す光を示した。台形に広がる太陽光は伯爵の足下を照らしていたが、彼は滅びることなくそこに居る。こちらも大層な異変だと思いながらシモンは言葉を続けた。

「空気中に埃がきらめいていない。私以外に誰も住んでいないのに建物の老朽化は進まず、備蓄していた水や食料も腐敗しない。中庭の花々や木々も一年を通して初夏の彩りを留めていて、生き物といえば自分のほかには虫一匹動くものがなく、時おり人間の住まいに羽を休めにくる山鳥も、まるで教会を恐れているように翼を切り、尾を見せて飛び立っていく。
 元々の要塞教会から変わり、表向きは“公国の遺領を監視・哨務する任処”となったが、ここはもう、現世とはかけ離れた混沌の中にある」

 お前のように、とシモンは静かだが厳しい目を伯爵に向けた。

「お前は私が討ち果たしたはずだ。なぜ今になってその姿を見せる」

「さて。不思議なことだな」

 厳しさを茶化すような返答に伯爵は付け加えた。

「お前に滅ぼされたことは覚えている。憎きベルモンドの血は決して忘れん。今ここにいるわたしが一体いつから、そしてどこからきたのか。なにもわからないし、思い出せないのだ」

「わからないなら去るがいい。誰も止めはしない」

 まぁそう言われるのは当然だというふうに、伯爵は鼻で笑った。

「理由がわからない。なぜここにいるのか。しかし朝日のなかだろうと教会のなかであろうとここがわたしの存在できる場所であることを精神で知っている」

「どういうことだ」

 伯爵は長い爪を彼の額に突きつけた。

「危害を加えないといったのはお前の体に関係があるからだ。背中から強い呪力を感じる。不安定な存在である今のわたしを存在たらしめるほどの、強力なエネルギーだ。いくら憎かろうとお前を殺せばその呪力はなくなる。だからわたしはお前をそのままにする」

 瞳をのぞき込まれたとき、赤い戦慄が走ったのはこのためか。
 青年の背中の傷はじくりと痛んだ。

「呪力か。当然だな。お前から受けた傷であり、呪いなのだから、お前がここに存在し続けられるのは道理だ。しかし理由もわからず、殺したいほど憎い相手のそばを離れられないまま、なぜ存在し続けることを望む」

「わたしの本質は混沌と邪悪であって虚無ではない。望む望まないとにかかわらず今ここにいる身を放棄するつもりはないのだ」

「つまり、私のそばを離れないということか」

「自ら命を絶つことなど頭にないだろう。お前がいま死ねばベルモンドの血筋は絶える。それでは100年後、誰がその鞭を使ってわたしを滅ぼそうというのか――考えなくてもわかるな?」

 ここまで静かに聞いていたシモンが寝台から立ち上がった。そびえ立つような伯爵の傲岸不遜な目を見据えて、鞭打つように厳とした言葉を口にする。

「ひとつ、約束しろ。私だけでなく他の人々にも危害を加えないと」

 返ってきたのは嘲笑だった。

「武器も効かぬわたしを見て大層な言いようだ」

 シモンは伯爵の喉頸を掴んだ。驚愕の顔を見てもその勇力の勢いは変わらず、荒々しい血に張り詰めた腕はそのまま伯爵の首を容赦なく締め上げた。

「顎に触れられたときに気づくべきだった。私もこうしてお前に接触することができる。武器が効かないのはどういう理屈かわからんがな」

 瞳の色が赤く変わりつつあった。伯爵は歪む口元から牙を覗かせ、思念で答えた。

『簡単なことだ。わたしがお前に対して気を許すかどうか。しかし、お前に触れることは叶わずとも、他の者を殺すことはできる』

 骨を折る力が加えられた。このまま殺すつもりだ。人の子とは信じられぬ渾身の力に、竜公の喉から苦鳴が上がった。

『わかった、約束する。人に危害は加えない』

「証は」

 証? 証だと? 持つものなど、示せるものなど――目の前が白くなる直前に伯爵は答えを絞り出した。

『この名だ。ヴラド・ツェペシュの名にかけて、誓う』

 思念で答えるのだから嘘はつけない。シモンは手を放した。竜公の枯れきった喉から瘴気のような息が吐き出された。首を押さえてこちらをにらむ伯爵に背を向け、シモンは服を着替えた。
 しかし振り向いたところで腹に一撃を食らった。伯爵の細腕に見える拳が重いうなりを持ってねじこまれたのだ。

「危害を加えないと言ったが訂正しよう。生命に別状がないかぎりは何をするかわからんぞ」

 だから態度には充分気をつけろ――そう続けたかったが、シモンは床に倒れ、気を失った。
「おい」伯爵の声は予想外の色を帯びていた。「ベルモンド」……

 そして冒頭の朝を迎えたというわけだ。
 どこから持ってきたのか新しい椅子に座った伯爵がおもしろくもない顔でこちらを見ている。

「一発でのびるとは」

 伯爵の目が軽蔑のまなざしを送っている。理由はシモンにもわかる。
 かつて悪魔城に単身乗り込み、この世ならぬ怪物や悪魔を討ち果たしてきた男が、腹部にたった一発の拳を受けただけで気を失ったのだ。そんな青年に城ごと滅ぼされた彼の気持ちは如何ばかりか――目の前の狩人は軽蔑のまなざしをもってしても責め足りない。なにもいいわけをする気が起こらないシモンはベッドから身を起こした。そこではじめて自分が床ではなくベッドで寝ていることに気がついたのだ。

「しばらくは放っておいた」
 シモンの表情を見て伯爵が答えた。
「近場の部屋から新しい椅子を持ってきて、ここに置いて、部屋を出た。あまり遠くまで行けないことに苛つきながらおもしろみのない中庭をめぐった。一時間ほど経ってから戻ってみるとお前はまだ床に寝たままだ。おまけに額に汗までかいてうなされているときた。これしきのことで体調が悪化するとは思わんが、なにしろわたしの存在にも関わるはかない命だ。
 ――しかしなぜ、よりにもよってベルモンドなんぞをベッドに運ばねばならんのか」

 ぶつぶつとなおも愚痴と文句をたれる伯爵に対し、シモンは素直にこう伝えた。

「ベッドに運んでくれたのか。ありがとう」

 伯爵の呟きは空気がなくなったかのようにしんと止まった。その表情は理解しがたい感情と、気持ちの悪い感覚をもてあまして強ばっている。

「お前の状況を考えると、私にしてくれたことは礼を伝えても足りないほどの屈辱的な行為だったと思う。しかし私も人間の立場でものを考えなければならない。無理に誓いを立てさせたことを許してくれとは言わないが、理解してほしい」

 窓からの光を浴びて明朗に話すその姿に人は目を瞠らずにいられまい。
 背中に流す金の髪はくせがなく、朝日と同じ色をして彼の輪郭を輝かせている。人となりを表すその顔立ちは誠実と英知が宿り、語る声は淀みがない。
 伯爵の顔は深く彼を見つめるものに変わり、青年の次の言葉を聞きもらさんと、そのとがった耳をそばだて、顎を引いた。

「それと、これが初めてのことになるだろうが、私も名乗っておく。
 シモン・ベルモンド。これが私の名だ」

「覚えておく」伯爵は顎に拳をあてながら答えた。「名を呼ぶかどうかはわからんが」

 シモンはそれでいいと言うように小さく首肯した。