忘れじの詩(うた)・25

 雨に濡れる町。
 時おり雷鳴が轟き、人々を、家々を震わせる。
 ここは以前、狩人と竜公が訪れた小さな民家だ。いまとおなじ夜中に、彼らが尋ねてくるのをわかっていたように、その家の窓からは暖炉の明かりがもれていた。
 伯爵は音もなく、細かな影を密集させて、その場に姿を現した。影が伯爵のかたちをとると、その存在を受け入れるように、家の扉が開いた。
 垢のにおいは漂ってこなかった。
 公は中へ入った。
 棺桶職人のトマスがいた。顔や身体は垢を落としたのだろう、その肌は黒ずんでおらず、年相応に赤かった。身なりもきちんとしていて、彼は真新しい布の服を着ていた。あらかじめ、尋ねてくる存在への礼儀をわきまえているかのようだった。

「このようなみすぼらしい拙宅へいらしてくださるなんて」

 口調は丁寧で、余裕があるが、どこか目の前の相手を小馬鹿にしている。それはそうだろう、竜公ともあろうものが、民家に招き入れられて、一般人の挨拶を受けているのだ。笑わぬほうが不自然だった。
 公はかまわず――まるでその態度に向き合うのも厭わしいというふうに――彼に言葉を投げた。

「いつまで人の姿でいるつもりだ」

「元から人です。悪魔崇拝がゆきすぎて、自分が悪魔になるなんて思いもしませんでしたが」

 暖炉の火に照らされたトマスの影からは、長い長い、さかしまの角が二本、木目の床に伸びていた。
 悪魔がひそんでいるのではない。よこしまな祈りを捧げた末に、彼自身が人から悪魔に変じたのだった。

「この時代に生まれたことを幸運に思うのです。貴方様が真の復活を果たされる年に、どうして皆、清廉潔白でいようとするのか、私には理解しかねるのです。他者の命や財産を奪い、思うさまに喰らうことができる、豊穣の年だというのに」

 ねぇ、と男はまなざしを下げた。
 誰かを思って、哀れんでいる表情だった。

「不当な行為には怒ればいいものを、憎めばいいものを、つまらない思いやりなど抱くものだから、ろくでもない人間の執着を受けるんですよ、あいつは」

 狩人のことを指していた。
 彼は語った。あの帰還の日からしばらくして、狩人と教団関係者は、ひとつの墓を公地に建てた。弔いの儀だ。危険なものと偽った赤い指輪ごと埋葬するため、狩人はトマスに一櫃の棺を用意してくれるよう頼んだのだ。そうして、彼もまた、竜公の葬儀に加わった。
 とどこおりなく準備をすませ、竜公の棺に手向けの花や、復活を許さぬための聖なる神具、もろもろの清めの品の最後に、あの指輪も、そっと入れられた。ふたをしめようとしたその時、ぽつりと雨が降った。時間が経つにつれ、その雨は、復活の前日に降った雨の勢いとおなじになった。狩人は空を仰いだ。なにか、悲しいことを思い出しているような、そんな表情だった。誰も棺のほうには注意を払っていなかった。
 トマスは指輪を盗んだ。
 ふたをしめる直前に、ある人物と目が合った。イデュリ主教だった。咎められるかと舌打ちをしそうになったが、彼は目を見開いたままなにも言わず、まるでついさっきの光景を見なかったようにして、目を伏せた。
 それから、かたちばかりの埋葬と、弔いの儀がとどこおりなく終わった。
 各々自分の家へ戻ろうとする際に、トマスは主教に声をかけられた。

「やはり、あれから妙な力を感じるか」

 最初はなんのことかと思ったが、対象が指輪のことだと知って、トマスは話を合わせるためにうなずいた。
 主教は彼に指輪を渡すように言った。盗みを見た際に咎めなかったのは、この赤い石を自分のものにするためだった。トマスは素直に指輪を渡した。石自体にはなんの力も感じられなかったが、主教のことは利用できそうだと判断したためである。彼の影からはとうに長い角が伸びはじめていた。
 そしてトマスはさかしまの角をもつ悪魔として、ふたたびイデュリ主教の前に現れた。自分より下位の悪魔や、弱い人の心を操る力を身につけて。

「貴方様が復活なさった際に、ずいぶんと甘い汁を吸わせてもらいました。伯爵様の城はシモンによって討ち滅ぼされてしまいましたが、私はどうしても、あの豊穣の年をもう一度迎えたいと思ったのですよ。いけにえを集める場所は異変をきたしてしまったし、もう誰も要塞に入ることはできない。しかし狩人なら……。要塞の管理を任せ、呪いを深めるのに好都合の契約を血判に交わせれば……。狩人の命によって貴方様が復活を果たせば、もう誰も永遠の闇を払えない。私らは終生、悦楽の甘みを味わうことができるのです。こんな宝を目の前にして、狩人に呪いをかけずにいられましょうか」

 伯爵が尋ねたのはこれだけだった。

「呪いなどかけずに、ひとおもいに命を狙わなかったのは何故だ」

「一度は狙いましたよ。貴方様とともにここへ訪ねてきたさいに、狩人の口からあまりにもっともな私の悪口を聞いたものですから、死者を蘇らせて、それらをけしかけました。人々のあいだに不穏な噂が立てばそれこそ狩人の命を縮めるのに好都合だったのですが、貴方様の忠臣に邪魔をされまして……」

 ですから、ゆっくりと。
 トマスはくちびるを湿して、公の質問に改めて答えた。

「正攻法でかなう相手ではないということがひとつの理由ですが」呪いをかけている最中に夢見た光景を思い出して、トマスは糸を引く笑みを浮かべた。「抵抗できない相手を嬲るのは、7年の月日を経ても飽きのこない快感でしてね」

 雷光がトマスを打った。それは消えることなく痛みを与え続け、その背を、出っ張った腹を、黒く、激しく、焦がしていった。
 部屋は紫の閃光に包まれた。反射する電光の色を受ける伯爵の表情は、冷厳そのものの、生きとし生けるものが決して触れてはならぬ、恐ろしい鋭さをたたえていた。
 いかづちに打たれ続けた男は、人のかたちのまま、ヤモリのような大きさになった。人とは気づかれぬまま、塵芥とともに街路に掃き出されるだろう、小さな小さな存在に。

 雷は止んだ。
 煙の音が静かになるころ、どこかから声がした。

『痛みもわずかな死をありがとうございます、伯爵様』

 トマスだった。
 いやらしい笑みが想像できるその声はこんなことを言った。

『イデュリ主教にしたように、私は人の影に入り込んで、快楽を享受できる存在になりました。肉体の有無など、どうだってよいのです。よこしまな人間がいるかぎり、私は決して滅びはしませんよ。そう、貴方様と同じようにね』

 伯爵はふ、ふと鼻で笑った。
 心の底から愉快なときに漏れる笑い声だった。
 彼はその美しい指先をひらりと返した。青白い炎が伯爵の手の中に現れた。トマスの魂だった。
 それは明らかに動揺し、恐怖を感じていた。話すだけ話して逃げ去るつもりでいたのに、最初から相手の手の内で踊っていたにすぎなかったことを、今になって教えられたのだ。

 魂をも汚す、闇の王。
 手にしたそれは永久拷問室に囚えてかまわぬほどの、醜い魂だったが――。

 伯爵は青い炎を握りつぶした。
 ガラスの砕ける音のするその魂を、ゆっくりと手でこねあげて、新たな炎のなかから、赤い玉を生み出した。
 闇の眷族の力が結晶化した、生命の塊。魔力の玉だ。
 伯爵はひとたび念じて、魔力の玉を、ある人物のもとへと送り届けた。

 これでよし。

 ひとつ、気が晴れたように顔を上げると、これこそ呪いのような、無念きわまりない怨嗟の声が部屋に響いた。

『貴方様が人に利用されるのは、これからも変わらないのですよ。なにせ、どんなに邪悪な人間がいたとしても、それらがどんなに邪悪な行いを為したとしても、人に狩られるのは、結局、貴方ひとりなのですから』

 そうして、汚された男を助けて、貴方様にいったいなにが残るというのでしょうね。つまらない、くだらないことで、誇りも感情も歪められた狩人を助けたとして、貴方様にいったいなにが――

 絶叫をあとに残して、トマスは消えた。伯爵の強烈な憎悪を残留思念に受けたのだ。その精神はむごたらしい混沌の塵芥と変じたことだろう。

 伯爵は瞳をとじて、自らを細かな影に変えた。戸口をふたたびくぐるのは我慢ならなかった。影は雨の止んだ郊外に現れた。影から人のかたちをとった伯爵は、町を見下ろせる小高い丘へ、夜気に吹かれて立っていた。

 トマスの言葉がしんとした胸に残っていた。

『狩られるのは貴方ひとりなのですから』

 それはいい。
 いままでにもそれを理解して自分は復活を繰り返してきた。人の性質や行動を変えるつもりは毛頭ない。
 しかし。

『つまらない、くだらないことで、誇りも感情も歪められた狩人を助けたとして――』

 最後に抱き合ったことを覚えている。
 なにかの感情に触れたように、彼は泣きながら笑い、祈りにすべてを託したのだ。

 伯爵は胸を押さえたくなった。脈も鼓動もない胸が、そうしてほしいと、彼の手にささやきかけていた。
 その表情は、ただひとりを思っていた。

「シモン」

 濃青のローブが闇夜の中空に現れた。死神だ。彼は町並みを見下ろしながらこう告げた。

『配下を含め、支配から解かれた魔物たちが、付近一帯で混乱をきたしております』

 闇の一族のざわめきや狂騒は公のもとにも届いていた。血のはやりのままさまよう魔物たちは、伯爵の存在をたしかに感じながら、公のあまりに静かな気配にうろたえ、怯えていた。

『そして人間どもも、混乱をきたしたまま、山道に集まってきております』死神は町と要塞をつなぐひとつの道を見下ろしていた。『あの男、教団関係者が行軍を開始したさいにはもう、狩人の背信の疑いを町民たちに吹聴していたようですな。今頃にはこの異変が起こるのを予測して、どこに狩人が現れようと、人の手で始末をつけられるように行動していたのでしょう』

 魔物が騒ぎだしたのも、金品が遺失したのも、すべては狩人が魔王と通じていたからだと、そう。

 絞り出すような、あえぐような、苦しい息づかいが、笑い声とともに伯爵の喉からもれた。片手で額をおさえ、目を見開き、口は笑みのかたちに歪んで開き――もう片方の手は腹腔をおさえ、ゆらぐ身体を正気の淵に必死に保たせていた。

「憎しみが、止まらぬ」

 ふ、はは、と、竜公は気が狂いそうになる憎悪に身を焼かれながら、かれがれの笑みをもらした。

 なぜ、なぜ、あの青年がこうまでされねばならぬのか。たったひとりの悪意のために、狩人はいったいどこまで誇りを汚されねばならぬのか。

 魔王の脅威から人間たちを解放したのは他ならぬあの狩人だ。それを忘れてなんの確証もない噂だけを信じこみ、英雄に対して意味のない怒りを向ける。それらは本当に自分たちの身の侵害への恐怖からきているものなのか。狩人を殺害したら、この暗黒が払われるとでも思っているのか。

 安らぎのまま眠りに落ちることも許されず、鞭をその背に受けて、彼は――!

 町の終わりに山のような巨影が降りていた。それは伯爵の狂気の笑みが深くなるにつれて、影を一層暗くして、その威容を丘に現すのだった。

 死神はその光景と主の様子を心におさめながら、夜風を身に受けていた。主の背後では、混沌と力の象徴が今、この世に聳えたとうとしている。それはたしかに望んだ瞬間であるのに、夜気の静けさも闇の心地よさもこの身にはなにひとつ訪れず、ただただ焦燥と哀しみの色が、自身の研鎌に照り映えていた。