忘れじの詩(うた)・19

 要塞は朝もやが立ちこめていた。
 目覚めると体がひどく冷たかった。すぐに起きあがれるほど身が軽く、痛みはなにも残っていない。胸の軽さが気になった。手首で脈拍を計ると、どうもずいぶんと弱っている。無意識のうちに首筋を触った。穴は開いていなかった。

 衣服をまとい、外へ出て、彼の気配を探った。あたりにこもる霧のなかを歩きながら、シモンは妙に冴えた意識で、ここに伯爵と、その腹心とがいないことを知った。

 井戸端で体を清めた彼は、部屋に戻り、身支度を始めた。
 簡易な鎧を着込み、腰に鞭を絡げ、マントを身につけた。そしてその場で膝をつき、祈りを捧げた。シモンはこれまでに得たなにもかもに祈っていた。

 門前に赴くと、禁固の術はやはり解かれていた。死神の気配はかけらも残っていなかった。一度、鐘楼や中庭のほうを振り返り、思い出を見つめるような顔をして、深く息を吸い込み――彼は門を出た。

 道はぬかるんでいた。霧のせいで道行きは見通しが立たず、いつも以上に慎重に歩を進めなくてはならなかった。しばらく歩み、青年は警告の意のクラッキングをしなかったのを不思議に思った。濃霧にまぎれて魔物が襲いかかる気配がない。まるで目に見えぬなにものかの意思に従って、青年に道をゆずっているように――彼はややうつむいて、その思いを振り払い、道を下りた。

 崖崩れが起きていた。
 一本しかない細い山道は完全にふさがり、彼を途方に暮れさせた。青年は崖の断面を見下ろした。とっかかりになりそうな木の枝がある。鞭を絡ませてあの断崖の岩場に着地すれば、いずれは森の梢に至るかもしれない――なにか、重々しい音が聞こえた。見ると、巨石によってふさがれていた道が開けている。あぶなっかしい考えをたしなめるような控えめな音のむこうへ、シモンは確信をもって「ありがとう」と呟いた。礼を告げると涙が出そうになったが、深呼吸をしてそれに耐えた。彼は歩んだ。町向こうへ、先祖が眠る丘へ向かって。

 天使の丘と父は言った。
 聖鞭の継承者である若者がその使命を終えて眠りにつく場所だ。天の恵みを誰より先に受ける高い丘の上に墓碑があった。雲間から光が差し込めば、天使の降臨を疑うべくもない荘厳な空気に満たされる場所。
 シモンは墓前に佇んでいた。石に刻まれた名前を長いあいだ見つめてから、彼は静かに膝をついた。腰から鞭を解き、輪にして手に携えようとしたその時、彼は背後を振り返った。
 丘の中程に若い女性が佇んでいた。
 髪の色と似た、赤いブリオーを身にまとった妙齢の美女だ。神秘的と言うには当たるが、天使と呼ぶには艶やかすぎる、そんな空気を全身にまとわせていた。
 シモンは立ち上がった。鞭を元通り腰に絡げ、注意深く女性を見つめる。青年の警戒を和らげるかのように、女はゆっくりと微笑みを浮かべた。

「ほんとうに、よくここまで耐えましたね」

 なんのことかとシモンの目が問いただした。女は言った。「あなたにかけられた呪いのことを話しているのです」

 雰囲気といい性別といい、青年の頭を鷲掴み、汚辱の沼へ押しつけていたこれまでの相手とはあきらかに違う。シモンは尋ねた。

「名前は?」

「カミーラ」

 名を告げたとき、女の目から涙が溢れた。その瞳は青年をここまで導いた存在に対して向けられていた。シモンの眉が寄った。一般には透明に見えるだろう女の涙が、彼には血の色に見えていた。

「赤く見えるのね、私の涙が」 カミーラは唇を閉じて桜桃の茎のような笑みを浮かべた。「貴方から、伯爵様の御力を感じる」

「……私をここまで生き延びさせてくれた。昨夜に別れてから、今はどうなっているのかわからない。知っていたら、教えてほしい」

 素直な言いようにカミーラはまばたきを返した。涙が血の色に見えるのに、青年が鞭に手をかけないのを不思議に思ったのだ。その疑問を感じ取り、シモンはこう答えた。

「私自身、敵意を抱かないのを不思議に思っている。内心を顧みても、血は騒がず、いたって静かなものだ。できれば、このまま話を続けたい」

 それに、とシモンはやや下げた目線で、女の印象を振り返った。

「お前のまなざしは竜公への忠誠が感じられる」

 欲望からではなく、もっと純然な思いで竜公の身を案じているような、と彼は告げた。「以前にどこかで、逢ったことが?」

 最初に伯爵とともに町へ降りたとき、修道院の前で、竜公と女は対面していた。なにも言葉を交わさずに、竜公は今の青年と同じように従容として、女は今のように血の涙を流して。
 カミーラはうなずいた。

「貴方と伯爵様が共にあるのを目にしたとき、耐えきれずに涙を落としたわ。7年も前から不完全な儀式が執り行われていたのに、それを止めることができなかった。私も、他の忠臣たちも、伯爵様と同じ、一週間前に目覚めたばかりだったから」

「不完全な儀式とは」聞いたところでと思ったが、シモンはどうしても、誰かに尋ねたかったことを口にした。「私にかけられた呪いが関係しているのか?」

「えぇ」

「呪いの主はわかるか」

「聞いても、貴方にはどうすることもできないわ。呪いは証明できる事象ではないし、たとえ裁判を起こしたとしてもよこしまな応報を受けるだけよ。公の場では必ず負ける相手。――そして貴方は一族の名にかけて殺人を犯さない。立場を知り尽くしたうえで、相手はあなたに呪いをかけている」

 シモンの表情に陰が降りた。その瞳は呪いの主の見当がついているのか、暗く、光がない。
 カミーラは話を続けた。

「貴方は欲望にまみれた人間たちによって呪いをかけられている。搾取され続けた生命力はすべて伯爵様に捧げられた。けれどそれは、伯爵様にとっても、私達配下にとっても、誰も望まない、不純な供物なのよ」

 邪悪な祈りだろうと、数多の魂を捧げられようと、100年の眠りに勝る力はないと女は告げた。

「長き眠りだけが伯爵様の存在を完全なものとする。けれど、貴方がもたらした滅びからわずか7年――午睡にも満たない、半端な時間。捧げられたものはといえば、貴方という特別な存在ではあれ、たったひとりの生命力だけ。それでも人間たちの執念深い祈りが届いたのか、確かに伯爵様は現世に降臨された。――さまよう魂として」

「魂」シモンはこれまでに交わした伯爵とのあらゆる感触を思い返した。やわらかな手も、静かな胸も、声も炎もすべて魂の為した感覚だったというのか。「まだわからぬ。不完全ながらも復活を果たしたというのなら、魂だけの存在であるはずがない。――確かに竜公は、他の者には見えぬし、呪力が断たれれば消失してしまう不安定さがあったが……」

「魂とは本来、なにに宿るもの?」

 カミーラの言葉の切り方に、シモンはこれまで感じたことのない怖気に見舞われた。潮が引くように肌が嫌な予感を伝えている。彼は答えた。

「肉体だ」

「そう。聖鞭でこの位相での存在を停止させられた伯爵様は、本来ならば100年の眠りによって御身と御霊をひとつの個としてなじませる。宿るべき肉体が人間たちの不完全な儀式によって汚されていなければ、伯爵様の魂が貴方の側に引き寄せられることもなかったのに――邪悪な祈りは偉大なる真祖を欠片でもいいと求めたのだわ」

 シモンは静かに目を閉じた。かたく、絞るように、苦悩の力をこめて。

「骨も肉も、むごい状態にあるというのか」

 カミーラは目線を下げた。
 つつましく両手を絞るその立ち姿が辛さを物語っている。
 しかしそれもほんのしばらくのことだった。
 いままでに自分が見た光景をあまさず伝えようと、彼女は顔を上げ、声の調子をより明朗にした。

「私が目覚めたとき、そばに伯爵様の指輪があった。力の象徴ともいえる遺骸が、ひとつだけ。水晶の中にある指輪を見つめていたら、突然、遠い地の景色が映った。同じように水晶に閉じこめられた伯爵様の遺骸が、指輪と合わせて五つ。目、爪、肋、心臓――涙がこぼれたわ。御身を刻された痛みはもちろんのこと、頭にかざされた、伯爵様の高貴な御手を感じたから。状況をお教えくださったのね。そして貴方にこのことを伝えるようにと、私をこの地へ導いてくださった」

 おそらく、指輪に宿る魔力が残りの遺骸の存在を教えたのだろう。
 肉片にも満たない遺骸は魂とは別に活動を続け、カミーラや死神といった忠臣たちをそれぞれに動かした。
 しかし、状況は悪くなる一方だった。
 伯爵の魂は記憶と力をなくし、なりゆきではあったが、青年のそばを離れることができなかった。そのなりゆきはふたりを要塞内に閉じこめて、今はもう、片方は力も姿も霧散と果てて、もう片方は呪いによって命尽きようとしている。

 そんな状況において、青年は一体、なにをするというのか。

「よく、伝えてくれた」

 シモンは礼と、次の言葉を告げた。

「竜公の遺骸をすべて弔いたく思う。詳細な場所はわかるだろうか」

 荘厳な賛歌が聞こえてくるようだった。人の気高さがそこにあった。
 カミーラは瞳を閉じた。光の強さに倒れぬように、彼の苦悩を思うように。

 竜公をふたたび100年の眠りにつかせれば、シモンは竜公の加護を失う。呪いにもいずれ負けてしまう。すでに天命は尽きているのに、この青年は、それでも戦いに赴こうというのだ。
 ――なぜ、そこまで?

 なにも問うことはできなかった。
 主と狩人の領域は、決して自分が踏み込んでいいものとは思えなかった。
 カミーラは腰に下げた絹袋から、布にくるまれたロザリオを差し出した。

「祈りを捧げる場へ赴くときに、必要になるわ。隠された城への道を開く鍵。伯爵様を、どうか」

 青年はそのロザリオを受け取るとき、心の中で、決意とも呼べる祈りを捧げた。

『竜公に永遠の安らぎを』

 雲間から光が射した。
 朝もやは晴れ、天使の丘に、狩人と闇の卷属が向かい合っている。
 ともに心に思う相手はかつての城主だ。呪われた状況を払おうと、封印の地へ赴こうと、ふたりは情報を交わしている。

 やがて青年は確固たる一歩を踏み出した。
 崇高な出で立ちは星を目的に歩む旅人であり、その星を射落す力を宿した狩人そのものだった。