忘れじの詩(うた)・3

 その夜に見た夢もいつもと代わり映えのしない内容だった。
 上半身を裸にされ、鞭打ち台に手足を縛られている。
 気づいたときには喉から意思の流出を塞ぐようにきつく顎を噛みしめていた。ひとことも声を漏らさぬように、どんな責めにも屈しないように。
 闇の中、拘束された手をかたく握りしめて拳を作ると、風を切る音が背後から聞こえた。ひしと瞑った目に火が散った。骨を砕く苦痛はない。鞭はおよそこの世のものではない。皮も剥がず、肉も削がぬ、羞恥を煽るだけの痛みが10、20と背中に加えられる。責めを重ねるうちに相手の力と興奮の度合が増したのか、50を数える頃、ようやく鮮血が噴き出した。その血が衣服に染みることも許さぬとばかりに下半身を覆う衣類もはぎ取られた。尻や腿を伝い、床に赤い波紋を作って血液がしたたり落ちていく。現実にはここまで流血しては命が持つまい。呪いをかけた相手の欲望が妄想を介して夢を犯している。
 肺に到達するような切れ目のない乱打が背中を削いでいった。
 足の裏が血に浸っていく。湖面に映る月のような広がりを見せる血溜まりが、誰ともわからぬ鞭打つ相手を映し出す。かつて悪魔城で見たような骸骨が、手に骨の鞭を持ってくぼんだ眼窩を真黒く笑わせていた。
 鞭打ちはきっちり100で止まる。
 まるで前戯が終わるのをいまかいまかと待っていたように、骨ではない、人間の腕が背後から絡まる。胸や腰をかき抱き、生臭い息を首筋に吐いて……。

 指をはじく音で目が覚めた。覚醒したシモンの目に伯爵の輪郭が映った。夜目に慣れるとその(実年齢とは大きく異なる)4、50代の整った相貌が彼を興味深げにのぞき込んでいるのに気がついた。

「大丈夫か?」

 意外な言葉にますます目を見開いてしまったが、シモンは額の汗が流れ落ちるのを感じて「あぁ」と答えた。体調の悪化は彼の存在を危うくさせる。精神面からの影響も考えて、指を鳴らすことで、青年を悪夢から目覚めさせたのだ。
 シモンは大きな手のひらで汗を拭い、身を起こした。ベッドの端に腰掛ける伯爵に礼を言うと、深く大きく息をついた。

「息をしていなかったな。寝汗もひどい。毎夜こうだから沐浴をかかさないのか?」
「……習慣だ。祈りの前には必ず身を清める」
「祈りか。その祈りを捧げた相手は君を救わんようだが」
「だまれ」

 シモンは伯爵の言い様を見据えながらも、彼の言葉の中の柔和さを感じ取り――“君”という呼び方に気づき――あまり強くものが言えなかった。

「どういう夢を見たらそんなふうに苦しむ?」
「……途中で目覚めたからまだいいほうだったが」シモンは眉間を指で押さえて目を閉じた。「ひらたく言えば身を汚される夢だ。傷つけられ、犯される」
「そんな夢を7年も? よく毎晩眠りにつけるものだ」
「誰しも自分が殺される夢や、恐ろしい目に遭う夢を見ることはあるはずだ。別に取り乱しはしない」
「度を超している。背中の傷とはそんなにひどいのか」
「お前がつけておいて、よくもそんなふうにものが聞けるな」シモンは先ほどからの聞いて当然という伯爵の態度に声を荒げて彼をにらんだ。「忘れたとでもいうのか、対峙した本人が」
「忘れたのかもしれん」伯爵は意に介さぬように薄く笑った。「なにせ不安定な存在だ。傷を見れば思いだすかもな」

 彼は最初からいまの伯爵を伯爵たらしめる背中の傷を見たかったのだ。まどろっこしい会話のやりとりに苛立ったシモンは膝を立て、彼に背を向けた。蝋燭の明かりもない場所で、伯爵は青年の背中の傷に見入った。指を立て、傷に沿って滑らせる。シモンの肌がびくついた。

「これは斧だな。後方から返ってくる斧に気づかず背中に受けたか」

 伯爵の言うとおり、甲冑の放った手投げ斧をよけきれずにシモンの軽鎧を深く削いでいった傷だ。初見の敵の攻撃とはいえ、手元に返ってくる武器とは予想がつかなかった。最初から鞭で叩き落としていればと、階段を落下しながら斧の痛みに歯を食いしばった苦い思い出が蘇る。

 次に伯爵は肩や二の腕に至るあざやかな切り傷――おそらくぱっくりと裂けたがゆえに縫合も容易だったであろう薄く変色した部分をなぞった。肌が粟立った。

「これは鎌か」伯爵は感心したように小さく笑った。「たいしたものだ、奴の鎌を見たものが肉を切られただけで済むとは」

 伯爵の腹心の死神が操る凶悪な武器だ。無限に出現し空を切り裂く研鎌を払いきれず、その半円の刃をいくつか身に受けた。馬よりも疾く迫る巨大な首狩り鎌を目にしたときは戦慄が走った。鎌を回転させることにより生まれる暗黒の虚無に命まで吸い込まれそうになり、シモンは生きるために死神に背を向け、力のかぎりの摺り足で場の隅に歩んだ。あれは結局、どうやって戦いを終わらせたのか――気づけば天守への階段が降り、その先の燭台の明かりに導かれていた。

「たしかに呪力は感じる」伯爵は白い爪を青年の首にあてた。「しかしわたしの爪痕がどこにもない。このまま横に掻けばいとも簡単に君のたくましい首を落とすことができるというのに」

 爪のひやりとした感触に盆の窪から髪の毛が逆立ったが、シモンは「そんなはずはないだろう」と反論した。「振り上げた両腕の巨大な爪痕も、足で踏みつけた鈎爪の痕も、なにも見当たらないというのか」

 伯爵はしばしのあいだ沈黙した。かつての夜を懐かしむように瞳を細めて、青年の首の後ろから過去の光景を眺めている。

「君とわたしとの思い出に記憶違いがあるようだ」伯爵は首から爪を離し、汗に濡れた青年の金髪を軽く梳いた。「髪の毛の色にしても。鳶色――いや、艶のあるブロンズと言うのかな。記憶の中の君はブロンズの髪を後ろに流していたのだが、実際に会ってみればなめらかな金色の髪だった。当時の君はこんな色の髪をしていたか?」

「……お前を討ったあと、次第に色が抜けていった。呪いのせいか夜が明けるたびに色が薄くなっていって……7年でこの有様だ」

「有様という言い方は適当ではないな。より神秘性が増して美しくなった」

 その賛美にシモンは弾かれたように身をひねり、伯爵から躰ひとつの隔たりを置いた。梳かれていた髪の毛もなぞられていた背も腕も、なにもかもが総毛立っていた。
 おぞましいものを見るように口を引き結んだまま全身で荒く息をつき、かつての魔王をにらみ据える。その反応を見ても彼は優雅な座姿勢を崩さなかった。

「お前はやはり呪いをかけた。値を定めるように身体に指を這わせて、厭わしい囁きを恥ずかしげもなく交わして……夢で見せた欲望と相違ない」

「どうも美意識にも違いがあるようだな」いまにもため息をつきそうに伯爵は冷めた目を送った。「血にまみれてはいたが、君のことは当時から美しいと思っていた。人には珍しい完成された頑健な肉体は言うに及ばず、使命感と強靱な精神力に裏打ちされた表情に宿るあの神秘性はなんだろうと。君と一日を過ごしただけだが、面に――いや全身にたたえるあの光がなんなのかがよくわかった気がする」

「もう、やめろ」

「聞け」静かだが迫力のある声が直接青年の胸に響いた。彼は心臓を捉えるような確かさで、過去への追憶をともに見させようとした。雷光のようなまなざしがシモンの目を通してひたと心へ入り込む。「シモン、あのときの君の心音を蘇らせたい。血流が戦いの鼓動を刻み、君自身の生命の拍子をわたしに聞かせた――そう、あれは」

 優雅な姿勢から一転し、伯爵は身を乗り出してその凶暴な爪をシモンの眉間に突きつけた。黒瞳がうっすらと明滅するように紅く染まり、冷徹と興奮をたたえた表情から牙が覗く。ふたたび噴き出した汗がシモンの鼻筋を伝い、流れ落ちていく。動くことができない。しかし、伯爵の口から出たのは詩を詠うように優美な、鮮やかな思い出だった。

「君に対して、過去に相対したベルモンド一族とは明らかに違うなにかを、あの戦いのなかで感じていた。
覚えているかね、君が幾たびも鞭を振るい、わたしの首を凄烈なものに変えた瞬間を。大振な腕も、踏みつけるほどのいかいな足も、その身にない。あくまで人の姿のまま、君と対峙したかったのだ。そう思えるほどの至高の姿が、先に常闇の国へ逝った金の網膜に焼きついていた。
 声を忘れるほどの美しさ。流れ出る朱の究極の芳香。夜明けを連れた狩人だ。勝利と共に栄光の朝日が玉座を照らす。そう一瞬で理解できた、紅波こうはの命を宿すもの。
 次元を超えてふたたび現れたわたしの、血にまみれた新しい眼が、君の光を見た。
 荘厳な音楽が聞こえたよ。まるで天上からの御使いに思えた。紫紺の稲妻の裂け目から見た君の立ち姿は、聖鞭を両手いっぱいに張らせた、堂々たるものだった。揺らぎのない目でわたしを見据えていた。羽のないのが不思議なほどに、その姿は神々しく、血の匂いがした。神に仕える伶人れいじんが偉大なる戦士に礼讃の楽らいさんのがくを鳴らしているのだと、疑うこともなく――」

 伯爵の紅玉のような瞳は木陰の静けさを映したように光度を下げ、夜闇に一点の光を残す落ち着いた色に変わっていった。濡れた牙を品位ある唇の奥に閉じて、言葉を切り、青年の理解が及ぶように、彼の呼吸が整うのを待つ。彼の顎からひとしずくの汗が落ちてシーツに染みこむと、伯爵は突きつけた指をやわらかく折り、シモンの頬をそっと包んだ。

「そう、そこまで考えてあらたな疑問はひとつ残る。シモン、君は討ち果たすべき魔王に対して背中を見せただろうか? わたしには思い出せない。君の背中にいつ傷をつけたのか」

 頬に爪が食い込む寸前、シモンはその手を乱暴に払い「出て行け」と叫んだ。

「二度と部屋に入るな。吸血鬼が夜に寝室を訪れるなど、やはり忌まわしいことでしかない!」

 勃如として冷たく色の変わった伯爵は黒の長衣を翻し、窓辺に立った。身を消す間際に青年のほうへ振り向き、彼は心に刺す声でこう言った。

「忘れるなよ、シモン。貴様は悪夢から目覚めたときに、わたしに礼を言ったのだぞ」

 伯爵の姿が闇に溶け込み、完全にその気配がなくなったあと、シモンは両手で顔を覆い、趺坐ふざのかたちで苦悩した。
 一日をともに過ごしただけで、青年は無意識のうちに、呪いの主に疑念を抱くようになったのだ。記憶の違いはいったいどういうことなのだろう。彼は青白い巨大な体躯の化け物に身を変えたのではなかったか? 伯爵の先ほどの追憶は、人の姿のまま鞭の最後の一撃を受けたということか?
 しかし、たしかに、シモンにも覚えがあった。彼は圧倒的な存在感を人の身にやつしたまま、その威厳ある姿を最後まで吸血鬼狩人の自分に誇示し続けたことを。