忘れじの詩(うた)・14

 蝋燭に火が灯った。シモンは芯の太いそれらに順々に火をうつし、聖堂を厳かな明かりに満たしていく。祈りを捧げるに充分な夜燭やしょくで主祭壇や聖杯のかたちが橙色に照らされた。青年は跪き、頭の高さを聖櫃に合わせる。ここで命を失ったものたちの代わりに玄義を唱えたあと、毎朝毎晩かかさぬ狩人独自の祈りを捧げ――

「なにを祈っているのかね」

 まただ。シモンは薄く目を開いて信徒席から聞こえる声に耳を澄ました。
 思い込みの激しい性格はそのまま他を顧みない執着に繋がるのか、公は怒りをぶつけた相手の動向を探るのを恥とも思わぬ。決してこちらの平生を許そうとはせずに、それこそ呪いをかけるように何度も何度も心を乱すのだ。シモンは聖域に侵入した相手が声の調子から自分を嘲っているのがわかり、そちらへは振り向かずにこう答えた。

「お前は邪悪な心を持つ人間の祈りによって力を得るのだろう?」
「そうだ」
「その邪悪な心を持つ人間の祈りによって魔王がふたたび蘇ることがないよう祈り続けている」

 冷眼と軽蔑の視線が一層強まった気配がした。喉の奥で転がるあの声は嘲笑であり、未開人の野卑さを指さし、その相手を共に誰かと蔑みたいとする嫌らしさがあった。それでも青年は跪くのをやめず、祭壇の十字架を見つめ続けた。
 蝋燭の炎が揺らめいた。風がやんだように、水を打ったように、空気がある静謐な光に包まれた。伯爵は笑うのをやめた。口を閉ざさずにはいられなかった。この尊さを認めずにいるのは自らを知性のかけらもない辺土の民に貶めるようなものだった。純粋でなりたちは単純、しかしよけいな色もくすみもない青年の眼差しは強く気高い。

「幼い頃からずっと不思議だった。穏やかで平和な、豊穣な暮らしをしたい人々の祈りのほうがずっと多いはずなのに、聞き届けられるのは邪な者どもの願いばかりだ。善き祈りは邪悪な祈りに勝らないのだろうか――父とともにお前の墓前で祈ったときに、その話を父にしたら、『願いを聞き届けられるためには、お前はもっと強くなり、もっと深く学ばなければならない』と」

 その日を機に、シモンの英知は鋭さを増した。肉体の鍛錬は以前にもまして身が入り、様々な武具の取り扱いも飲み込みよく覚え、文字の読み書きもほどなく習得した。迷信と合理を過たず判断し、入浴の習慣も身につけた。信仰は理想を抱いた迷わぬものであり、いずれそのときがきたら討ち果たすべき魔物や夜の眷属に対して十字を刻むに足る荘厳さを心に育て、そしてそれらに対合して、けして終わらぬ長い問いを祈りにこめた。

 彼らはどこからきて、どこへゆくのか?
 邪悪な祈りが力となるのなら、そもそも神の助けも得られぬ人の祈りとはなんなのか?

「――死後、気をつけることだ」

 青年が振り返ると、伯爵は肘掛けに寄りかかりながら頬を撫でていた。人の純粋さを愛おしむあの細めた眼差しでシモンを見つめている。瞳はこれまで見たこともないほどに紅く煌めいていた。

「聖人の魂は神に限らず、悪魔にとっても貴重な財産でな。天使と悪魔による魂の奪い合いが目に見えるようだ。力持つものは正邪を問わず、お前をめぐって殺し合うだろう」

 立ち上がったシモンの表情は公に対して嫌なものを見るように口をつぐんでいた。脚を組む伯爵の横を通るとき、彼の背中に声がかけられた。

「わたしが飽きずにここにいる理由がわかった気がする。邪悪は闇を好むが、同時に光や善きものに強く惹かれるのだよ。時に、昏夜こんや以上に」

 祈りは彼を救わない。
 掻巻が引きちぎれるほどに青年は悪夢に乱れ、上掛けも毛布も床に落とした。
 夢の中で彼は四肢を切断されていた。
 これは現実ではないという意識だけが彼を正気に留めていた。
 あぁしかし、魔王の命脈を分けたこの眼球が潰れてしまえば、そのまま意識も失ってしまえるのではないか、青年は自由を失った身を汚されながらそんなことを考え、ただひたすらに目が覚めるのを待った。
 ふと、寝台のそばに誰かがいるのがわかった。こちらを見下ろしている。苦しんでいる自分を起こそうともせずに、ただ黙って身もだえる様を見ている。
 混濁した意識の中で、青年はただひとつ無事な、神秘を垣間見る両眼で、ベッドの脇に立つ人物へ目を澄ました。伯爵だった。

 彼はシモンの頬やこめかみを指でなぞった。泣いているのをわからせるように涙を拭い、その指をおもしろいように舐めとる。彼は悪夢から目覚めさせる手伝いをしなかった。いまだに身体の自由のきかない青年を見下ろし、「ふ、ふ」と聞くもおぞましい笑い声を小さく鼻から漏らした。その光景にシモンはなにもかもを投げ出して気を失いたくなった。芯から脱力してしまいたい。いままでに交わした言葉や思いはなんだったのか、この男の紅い目は穢れた夢に弱らされた自分を餌食にしようと濡れ光っていた。

 首筋をなぞろうとして、立派な長い爪を青年の顎へと伸ばした伯爵は、その枯れた唇が動くのを見た。

「やめろ、ヴラド」

 まだ言うか、という呆れた気分になった。眼力で自由を奪うまでもなく弱まった彼に対し、伯爵は「その名で呼ぶのか」と、なんの飾りもなく尋ねてみた。
 返ってきたのは小さな首肯と、無限の哀れみをこめた静かな声だった。

「何度でも」

 大火のように天から見据えていた圧倒的な優位が、青年のただひとことで、そのまなざしで覆った。彼の英霊の祖であるラルフは相手の心を掴むような握手をしたというが、今目の前に横たわる青年は、まさしく、彼がその血筋を引くものであることを示していた。
 息を呑むようなその目は、まるで身命を尽くしても惜しくはない相手に向けるもので――伯爵はその考えを振り払うように、魂に残る鞭の痛みを思い返した。音も、形状も、なにもかもが厭わしい、汚らわしい、下賤な武器。彼はそれを振るう一族の末裔なのだ。
 嗚呼、けれども、なぜ。鞭から響く憎しみは、埋め合わせを求める魂の叫びは、いまはなぜ耳に届かぬのだ。夕時に聞いたあの狂騒は、いったいどこへ。

「貴様ごときに、ベルモンドの末裔に、軽々しく名を呼ばれたくは」
「ヴラド」
「やめろ」これ以上その名を呼べば喉を裂く、そう突きつけるように彼の首筋へ爪を当てたが、シモンの声は淀まず、翳りもせず、伯爵の存在をもって初めて完成する抗いようもない神秘を胎んで、公の心思に託された。

「いままでにたくさんの咎人を見てきたのだろうな。憎んでも憎みきれない、存在そのものが厭わしい気分になる相手もいたはずだ。我が一族もそれにかかるものであったろう。殺し合い、憎み合い、侮蔑と傲慢を互いに見て、どちらの魂も天に召されることはない。安らぎがなくて当然だが、しかし、それでも私はお前の血を鎮めたく思うのだ」

 神秘と捉えた心が、互いの間にあるそれが本来なにを意味するものなのか、伯爵にもわかりかけていた。同時に、互いに理解してはならない立場にあることや、それが鞭で引き裂くべき域に達していることは明らかに思えた。しかし、この身に流れるなにかが、とうにないと思っていた自身の感情の高ぶりが、青年への期待と恐れに逸り、彼にこんな言葉を叫ばせた。

「わたしがなんと呼ばれてきたか、お前も知っているはずだ。呼ぶがいい、真祖の名を。怒りと憎しみをこめて、一族の誇りをかけて!」

 シモンはわずかに首を振った。彼は公の声を絞っての願意を、否とした。

「この世に生きるのであれば、人は多かれ少なかれ他者に害を為すだろう。安寧の地に眠るまで、それは続くのだ。しかし、命を終えて常闇の国で眠る魂を呼び起こされ、新たに罪を重ねることを目的とした祈りで蘇らせられるお前を、私は決して、竜公の名では呼べない」

「わたしは」

 シモンは伯爵の言を許さなかった。打ち据えるように、鞭よりも激しく真意を明らかにする。

「真に邪悪なのはお前ではない。お前の復活を望む人間たちだ」

 伯爵は彼から身を離した。青年に触れようとしていた長い指を外套に隠し、自身をかばうように胸上を押さえる。城主とはかつての幻か、公は信じがたいものを前に後じさったのだ。

「ベルモンドの名を継ぐ男が、そのようなことを口にするのか」

「そうだ」それこそが苦しみであるという思いで、シモンは涙を流した。「だからこそ、気づいた。お前が哀れだ」

 後じさってさえいなければ、爪で青年の喉を引き裂いていただろう。死体を前に、幻にも余計なことを言わせぬように、この要塞もろとも炎に包んでいただろう。公は姿を消した。蝙蝠の羽のように外套で顔を覆うと、瞬時に霧となってどこへともなく身を散らした。青年の呼び止める手を見ることなく。
 シモンは寝台から身を起こし、疲れたように額を押さえた。涙を拭う手は耐えきれぬとばかりに顔を覆う仕草に変わり、青年は震える声で彼の名を呼んだ。