忘れじの詩(うた)・5

 シモンが食堂の脇を通り過ぎ、厨房に入った。その姿と食堂を交互に見て、伯爵が声をかけた。「用意されているが」驚いたシモンがテーブルの上を見ると、確かに湯気の立ったスープや保存食のタラの燻製を調理したあたたかい練り込みパイがつつましく並べられていた。伯爵を見て、あぁそんなはずはないなと公の顔つきから理解し、ついで自分の手を見て、その指先が祭具の探索や破壊の際に土や壁の塗料で汚れているのを確認し、シモンは食卓の料理が自分が無意識に用意したものではないことを知った。

「よくこういうことが?」
 シモンはうなずいた。「料理は今回が初めてだが、洗濯物が干されていたり、水差しに新しい水が汲まれていたり、サンダルの修繕が行われていたりして、そのたびに精神的に参った自分が無意識のうちにやったのかと思っていたのだが」彼は水瓶の水で手を洗い、あらためて用意された食事を眺めた。どれも心のこもったあたたかい料理だった。そばの一輪挿しの花瓶にはエーデルワイスが生けられている。「どうもそうではないらしい。妖精でもいるのだろうか」

 伯爵は壁際をさし「見えないか?」と尋ねた。指さすほうを見てもシモンには何もわからなかった。「給仕をしただろう中年の女がいる。口に合うかどうかと、不安そうにお前を見ているぞ」シモンは伯爵の言葉へ振り返った。どういうことかと尋ねる前に彼が先に答えた。

「忌まわしい祭具を破壊したことで出現も容易になったのだろう。お前に恩義を感じている。ここにいた者たちが、お前のためにあれこれと世話をしてくれていたようだ」

 シモンの顔がこわばった。徐々にこみあげてくる熱をこらえようと顎をかみしめる。掌で眦を拭い、「ありがとう」と見えない霊魂たちに心からの礼を伝えて、彼は言葉みじかに冥福を祈った。「――どうか、安寧の地へ」その言葉に女は深々と一礼し、胸元で手を組み合わせて、伯爵の視界から消えた。安寧の地へ渡る前にも、最後まで青年の身を案じているようだった。

 立ち尽くす青年を横目で見て、あぁこの者はあの女が消えたことがわからないのだったなと伯爵は思い――その疲れた表情に眉をひそめた。

「どうした」

 あぁ、いやとシモンは小さく首を振った。

「鎮魂の座とはなんなのだろうと――自分の祈りが間違っているような気がしてな」

 青年は遠いまなざしで壁を見つめていた。もうそこには誰もいないと、知っていなければできないような表情だった。

「この世に執着をもたず、ましてこのような命を奪われた場所にとどまらずに天の国へ旅立ってほしいと毎日祈っていたのだが、今もこうして彼らの心をここに留めてしまっている。なにも頼るつもりはなかったのに、なぜ……」

 伯爵は青年の言葉を頭に含むように考えをめぐらせ、こう言った。
「お前の祈りは間違っていない」
 どうしてそんな言葉を伝えたのか自分でも不思議だった。

「一度は魔界のものに奪われた魂だ。悪魔の所有物となった魂を解き放ち、現世に戻らせただけでも、お前の祈りは相当に強く、加護のあるものだ。魂を救われた者がお前のためになにかをしたいと思うのは当然のことなのだろう。順序を踏まえてあの女もゆくべき場所へ旅立った。これから先、生活のなかで身に覚えがないことが起こっても、彼らの好きにさせておくがいい」

 ゆくりもない穏やかな声とその思いにシモンは隣に佇む男を見つめた。いつもと変わらない冷厳な表情だった。青年の視線を振り切るように伯爵はテーブルを顎でさした。「冷めるぞ」

 ふたりは席についた。食前の祈りを捧げるシモンを見て、伯爵はつまらなそうに顔をそむけた。喉を湿すものもないのに食卓につく自分がひどくみじめに思え、その感情を払うようにいらいらと爪で自分の頬を叩いた。祈りの途中でシモンは自分のグラスにワインを注ぎ、伯爵に差し出した。「これしかないが、互いにこの場の格好がつくだろう」じろと見る伯爵に申し訳なさそうに「気休めだが」と付け足した。「いらん」とも「ふざけるな」とも言わず、彼は椅子に肘をつき、顔は相変わらず不機嫌な様子だったが、自分の頬を爪で叩くのをやめた。

 静かに食事をとるシモンに対し、伯爵は口を止めさせるのもかまわず、彼に様々な質問をした。最初に投げかけたのはこんなことだった。「お前は変わっているな」目線だけを上向けてどういうことかと尋ねるシモンに彼はこう言った。

「そういう呑気な態度だ。緊張感も嫌悪感もなく吸血鬼とともに食卓につくなど、どうかしている。昨夜の反応こそが当たり前なのに、お前ときたらベッドから目覚めたときからずっと阿呆のようなつきあい方でわたしと話している」

 いささか気を悪くしながらも、シモンはすぐに「まぁそうだな」と答えた。
「様子が7年前とあまりに違うからか、どうしても強く出ることができない。城で見たときは存在感からして人の大きさではなく、広大な森や寒地に聳える巨峰のごとく圧倒されたのだが」そこまで言ってシモンは伯爵をあらためて見つめた。頭ひとつぶん大きいが、身長も存在感もふつうの人間とほとんど変わらない。青年の言ったことを本人もよく理解しているのか、公の表情は特に悪くはならなかった。

「それにしてもだ」伯爵は青年がスープをふたくち運ぶのを待ってこう告げた。「わたしが過去にしたことを知らんわけではあるまい? 200年前のワラキアの夜というものを知っているか? 公国全土を嗜虐の血に染めた忌まわしい」
「いい。本人の口から聞かないでも知っている」
「実に壮観だった。魔界から呼び寄せたものどもが餌食を求めて地をゆく姿はなんとも」
「だからやめろと言っている」静かな言葉に厳とした響きがあった。「だいいち、虚無を思わせる表情で壮観だなんだと語られても困る」

 すうっと、伯爵のまなざしが細められた。
 日記を見られたのを知ったような、冷たい恥と怒りが腹の底に渦巻いているような緊張感が、一瞬、その場に張りつめたが、伯爵はすぐに息を抜き、取り繕うような軽さをこめて、(とても上品な)舌打ちをした。
 物珍しい音に青年の顔が上がった。音を鳴らした相手をじっと見ていても変化がないので、彼は食卓に視線を移し、練り込みパイをもくもくと食べた。
 端から見ていれば味のわからなくなる空気が流れていた。
 皿の上がきれいになるころ、伯爵がふたたび口を開いた。

「――そういう過去を知りながら、なぜもっと敵意を向けない? 吸血鬼狩人とは本来、厳めしい顔をして、同じ空気を吸うことすら許さないという殺意を全身にみなぎらせているものだが」
「そういうものに相対したか」
「ベルモンドに限らず、幾人も」
「みな理由があったのだろう。私には使命があったが、お前に対して私怨はなかった。それだけのことだ」
「私怨がないか。家族みな壮健だったか、それとも守るべき者もいなかったか」

 彼は罪を犯している。一度の生ならず、復活のたびに新たな罪を犯している。今もまた――許しがたい至重の果てに、どうしてそんなことを人に聞けるのだろう。もしも彼の復活により、青年の家族が壮健でなかったとしたら? それのため、守るべき者を亡くしていたとしたら? 自分が加害の立場にいることを忘れたわけではあるまい。人道を外れた物言いにしても、あまりに魂を踏みにじる行為ではないか。激怒を通り越し、全身から虚脱して深いため息をついてもおかしくない言い様に対し、青年はただ静かにスプーンを口に運び、喉を潤した。まなざしに寂しさがある。その態度に伯爵は勃如として息を飲み、爪を握り込んだ。哀れみにより、嗜虐を大痴に変えようとしている。皮膚が破けようとも、青年の惨い行作を許せなかった。伯爵に充分に屈辱を味わせたあと、青年は自分なりの見解を述べた。

「私怨で行動できる者はある意味非常に強いのだろう。どうにもできなくなったとき、人のためならばそれを為せるということが今まで生きてきたなかで多々あった。倒れそうに疲れていても、動けるのが自分しかいないのならば、その思いだけで行動できた。戦いに赴く誰の理由をも否むつもりはないが、私には復讐や恨みだけで本懐を遂げる力はなく、お前を仇とするのは難しく思う」

 想像を絶する焦燥、疲労、無力、あらゆる力を奪う感情に襲われたとき、最後に助けとなるものが、自分よりも力の弱い者の存在だった。ここですべきことを為さねば、この者たちはいったいどうなってしまうのだろう。年老いた母や子供を養うために働く父親と根本は同じだ。単純ゆえに純粋で、無駄もくもりもない力強さは、青年の振るう鞭の所作にも現れた。目的の遂行に障害となるものを狙い澄まし、打つ。そしてふたたび歩む。先祖伝来の聖鞭を手に取ったのは魔王を罰するためではなく、ただ彷徨う血を鎮めるための効果的な武器がそれであったというだけなのだ。使いにくくおよそ武器には不向きの鞭に合理を見いだしたのはまだ幼いころの……。

 伯爵はゆっくりと首を振った。彼の追憶と思いを否定するように、冷厳な目で、彼の表情に宿る光を見据えながら。

「なぜ、わたしを憎まない?」

 シモンの態度は表情も姿勢も清虚な静けさをたたえていた。テーブルクロスに肘をつき、こちらへ乗り出す伯爵の手元のみを見つめ、彼はこう答えた。

「お前に対して、昔から変わらぬ思いは今もこの胸にある。憎しみとは違うが、まだ話す気にはなれない」

 伯爵はふっと笑った。今にも牙が覗きそうな冷徹な笑みだった。

「魂をも汚すのが魔王たる所以だ。ここへ戻ってきた者たちをふたたび魔界のものどもの手に渡したくなった。そこに佇む子供も、すでに――」

 シモンは身動きひとつしなかった。まなざしひとつ変えなかった。それなのに、伯爵の首にはまるで太陽の光を焼き込めたような鞭の一閃が走った。容赦のない鋭さは一瞬のことだった。傷ひとつなく、あらゆる感覚は幻だった。驚きもせず、笑みをなくしもせず、竜公は全身から蛇の舌のような、空気の焼きつく黒い気配を立ち上らせた。背筋から痺れるような緊張は青年のひとことによって破られた。

「お前が誓いに立てた名は?」

 伯爵は明滅する灼眼から薄闇を取り戻した。

「――ヴラド。ヴラド・ツェペシュ」

「そう。ヴラド」青年は唇で何度も音の響きを反芻するように彼の名を呟いた。「まだ、名が言えるな」

 伯爵は狩人のしかけた罠に凄絶な笑みを浮かべた。誓いを立てさせたとき、その誓いが破られたか否かを判別する証こそが彼の名だったのだろう。喉頸を捕まれた際になにごとかの術をかけたか。でなければ先ほどの鮮烈な鞭の一閃を首に感じるわけがない。

「誓いが破られたとき、名を呼べぬようにしたのか?」

 青年の心はあくまでも静かなもので、問いかけに返す言葉も、髪の毛が額にはらりと落ちたのを払うような声だった。

「お前の精神に委ねられる。自分でその名を呼んでもいいものかどうか、いわばお前の誇りにかけての誓いだ。私は特になにもしていない」

 伯爵は今までの黒い気流をかき消して、椅子の背もたれにゆっくりと身を預けた。やわらかく笑い、肘をつき、長い爪をこめかみに遊ばせる。

「子供の件は嘘だ。誰もいない」

「そうか」シモンはふっと安堵したように息をついた。「気をつけてくれ。感情を制御するのにも力がいる。効かぬとわかっていても鞭の一閃をその首に飛ばしたくなった」

「安心した。お前にもまともな反応を望めることがわかった」伯爵は爪を首筋になでつけ、優雅かつ尊大な横斜の姿勢をとった。「もうひとつ聞きたいことがある。その誓い、わたしがお前に呪いをかけたか否かもわかるのか?」

 シモンはしばし考えた。スプーンの柄を指先で何度もはじき、風を送らない扇を手元に作る。「私に危害を加えないというのが生死に関わる呪いにもあたるのなら、あるいは。しかし、お前は覚えがないと言っているからな……」

「自分で罠をしかけたと言っているようなものだな。特になにもしていないとは、誠のことか?」

「判別がきくのなら昨夜のように悩んだりしない。中庭で名を呼んだのも“お前”以外に呼び名が欲しかったからだ。試したわけではない」

「どうだかな」と伯爵は底の知れぬ狩人に向かい眠りを誘うようなトーンで言った。一気に疲れが出たように、シモンはすっかり冷めてしまったスープを口にした。最後のひとさじをすくう前に、青年は伯爵にこう伝えた。

「軽口をきくのはかまわん。しかし内容を選んでくれ。対象が私だけならまだいいが……」

 伯爵は言葉の意味するところに初めて気づいたように、あたりの気配を見渡した。誰もいなかった。おそらく、これから先も青年の元を訪れるものはひとりとしていないだろう。そんな静寂が頭に響いた。

「ここで私以外の人が作ってくれた最後の食事になるかもしれんな」

 シモンは大切にスープを飲み干し、食事を終えた。胸に抑えきれない孤独さが顔の陰りに現れていた。一瞬にして再訪した前よりも強烈で救いのない孤舟のようなしんとした未来に、青年よりも伯爵のほうがうろたえた。横斜から身を起こし、思わず「すまない」と口にしていた。
「いや、いい」
 シモンは彼のグラスを取り、中身を空けた。
「歩き回ったせいか少し疲れた。しばらく休もうと思う」
 枯れないはずの空間で一輪挿しのエーデルワイスがしおれていた。誰の気に当てられたのか、どちらにしても粉みじんに朽ちずにいるのが不思議だった。