忘れじの詩(うた)・6

 寝室にて、シモンが昼寝から目覚めると、午後の陽気に照らされた机の上に、食堂にあった一輪挿しが置かれていた。摘んだばかりのような真新しいエーデルワイスがその白い花弁の影を木目の上にまぶしく落としていた。寝台から起き上がり、シモンは花を手に取った。窓辺から見慣れた後ろ姿が目に入ったので、青年は窓を開け、彼に声をかけた。

「ヴラド、寝室にこの花が生けてあった。眠る前にはなかったが、お前か?」

 遠目から白い花の輝きを見つめ、彼は眉をひそめた。

「そんなことをした覚えはない」

「そうか」その答えにシモンはゆっくりとした笑顔を取り戻していった。「そうか」茎をやさしく持ち、彼はなによりも嬉しいメッセージへ美しい微笑を返した。孤独ではないことを祝福するように午後の日差しが彼の金色の髪を輝かせていた。

「魔王を恐れぬか。わたしもなめられたものだな」

 窓枠一枚を隔てた声にシモンは思わずびくついた。ここから眺めれば伯爵の長身もほんの親指程度の大きさにしか見えない距離を離れていたのに、瞬時に背後に立たれて白い花をのぞき込まれた。そうだった、彼は次元を容易に越えることができるのだったと思い出し、シモンは窓辺へ振り向いた。いつものつまらなそうな表情で彼は「お前のなめられぐせがうつったのか」と顎をなでた。ほんとうに軽口をきくのにためらいを持たないらしい。シモンは花を一輪挿しに戻し、その退屈そうな表情を見て、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。

「そういえば、お前はいつもどこで寝ているんだ? どこか近くの部屋を使っているのか?」

 心底軽蔑したような視線が返ってきた。伯爵はシモンに対し「ここへ来てから眠りについたことなど一度もない」と白眼視のまま答えた。青年はただひどく純粋に驚き、とまどっていた。

「やはりベッドでは寝られないのか。棺もいくつかあるが……ここに用意されているのではお前のサイズに合わないな、確かに」

 こいつ本当の阿呆ではないのかと伯爵の視線はますます冷たくなった。

「サイズや品柄を気にするよりも前に互いの立場を頭に据えんのか」
「どういうことだ」
「吸血鬼狩人がすぐ近くにいる場所で棺に入って眠る馬鹿がどこにいる」

 吸血鬼が一番無防備な状態になる場所が棺の中だ。身体を安置するための逃れようもない空間に杭を持った吸血鬼狩人が石棺にてこを入れにくるという、教えるのもばかばかしい想像を改めてこの若者に話さなければならないのだろうか。伯爵が軽い虚脱感を覚える前に、シモンは「あぁ」と誤解をとくような慌てた仕草で手を振った。

「お互い普通の状況だったらもちろんそう考えるだろうが、たとえ杭を持って忍んできたとしても、今のお前にそれを打ち込むことはできないだろう? 別に身体を休めても平気ではないのか?」

 青年がどこまで本気かわからないので、伯爵は真正直に答えることにした。互いに目的地が別の方向を見ての会話は非常に疲れるし、なにより不毛だと思ったのだった。

「異質な状況を鑑みて、わたしが素直に棺で休むとしよう。その間にお前がここを出て行かないという証はなにもない。三日も町へ降りていれば、ふたたびここへ戻ったとき、お前は空の棺と対面することになるだろう」

 それほどまでに力の衰えた自分の存在を話すのも屈辱だったが、伯爵は種々多様の感じたこともない疲労の連続で芯から弱っていた。一度棺に身を横たえれば、青年の気配の消失にも目を覚まさず、寝入った状態のまま消滅してしまうのではないかと恐れていた。虚無はまだしも、棺の中でそのようなみじめな情けない姿をさらすのは考えるのも嫌なことで、気づけば気品ある細顎から歯の根を強く噛みしめる不快な音を立てていた。

 青年は黙り、今までの発言を詫びるような顔で伯爵を見つめた。深い同情がこもっていた。公がいたわりの沈黙に背を向けようとしたとき、「待て」と間を置かず声がかかった。

「お前が棺で休んでいるとき、私はここを出て行かないという証を立てたい」

 はぁ、と彼はとうとうため息を漏らした。なにをもってしても自分が青年のことを信用できるとは思えない。邪悪と猜疑に彩られた魂になにを言うという表情で彼は振り返った。

「名か? それとも血か? 証を立てたいのなら勝手にしろ。わたしはこれから先も鈍色の空や夕映えを眺めて過ごすつもりだ」

 シモンは腰に携えていた聖鞭、ヴァンパイアキラーを片手に巻き取った。
 胸の前に掲げて「誓いを違えた時、ベルモンドの血は二度と、お前とお前の眷属に対してこの鞭を振るわぬ」と宣言した。
 伯爵は目を丸くし、ついで、ふ、ふと小さく、短く笑った。目元を掌で抑えて屈み立ち、腰に絡げた手で腹腔の震えを感じていた。

「それは、なんとも意味のない」

 誓いを違えたとして、もう鞭を振るう相手もいないではないか。わかっているというように、シモンは「もしも誓いを違えた場合、この鞭の継承者はお前の100年後の復活の際にも決して現れぬ」と伝えた。
 伯爵の笑いは小石が湖に沈むように耳の痛い沈澱を残して気配を消した。
 公は力ある目で青年を見据えた。彼は臆することなく見つめ返した。

「ベルモンドの血は広くトランシルヴァニア全土に渡っている。私が命を落としたとしても鞭の使い手はすぐに現れる。この一条の鞭を扱えるものは数多くいるが、ヴァンパイアキラーはこれのみだ。誓いを違えて今のお前を消失させるようなことがあれば、私は伝来の手段を使わず、この鞭を誰にも知られぬところへ封じよう」

「重要なことを聞いた」竜公は日を陰らす存在として立っていた。彼にふさわしい世界であるように、斜陽よりも早くに夜気が迫ろうとする至貴の居姿だった。「そしてたいへん勝手なことだな。世界の存亡にも関わる重大事をお前の一存で決められるのか?」

「お前もどのみち時が経てば気づいたことだ。ベルモンドの血とは、鞭はこれきりか、考えを巡らせる時間はあっただろう。疲弊しきっている今のお前を後ろ暗い方法で虚無に返すことがあれば、この血は陰り、ヴァンパイアキラーは以後も決してこの血を分けるベルモンド一族に聖鞭としての力を託そうとはするまい。ふたたび目覚めたときに、誓いが守られたか否か、お前はすぐに知ることになる」

 獲物に対し自分より有利に立たれるのを嫌うのが狩人の基本的な性質だ。常に相手の動向を読み、確実に仕留めることができる場所で待ち構え、無慈悲な武器を手に握る。彼はそのもっとも確実に相手の命を奪う武器を証に立てようという。利を捨ててまで行動するその真意とはいったいなんなのだろう。
 伯爵はしばらく考え、鼻で小さく笑った。馬鹿にするのではなく、おそらく単純な理由だろう彼の行動理念を思考することの無意味さを笑ったのだ。そして伯爵は首を振った。

「やはり、信ずるに足りないな」

 青年は鞭を片手に握りしめたまま、窓枠に両手をかけた。真白く色の変わった爪の食い込みが無念さを伝えている。顔はといえば、見なければよかったと思うほどの、胸の痛む悲しさをたたえていた。

「どうすれば信じる。ただお前を休ませたいだけだ」

 まるで自分が狭霧さぎりの湖に沈み込んでいくようだった。小舟の上から手を差し伸べる青年を拒絶してゆっくりと仄暗い水底へ降りてゆく。青年は焦りと嘆きと無理解による悲しみに眉を下げて静かに叫んでいる。そんな夢想を浮かべながら、伯爵は風そよぐ草地に立ち、彼の表情を見つめていた。

 あぁ、こんな顔をする若者のことだから、理由とはきっとほんとうにそれだけなのだろうな。伯爵は厳めしい顔ながら、自然と眉を下げていた。意地を張るのも疲れるものだ。顔を背け、鼻から深く息をついた。妥協案だ。狩人にここまで付き合う必要もないが、今日まで起きてきたついでだ。少しの徒労も自分の気分転換になるやもしれぬ。

「ならば棺を作れ。墓を用意した時と同じように、お前の手で。お前の労力はわたしの疑念を晴らすに足りるかもしれん」

 自分の好む棺はいとも簡単に魔法で出すことができる。美麗な細工もなく下手な技巧で作られた木棺などそれこそ身を横たえたくもない出来になるだろうが……いやそもそも棺の作り方など彼は知っているのだろうか。伯爵がそう自分の発言を後悔しはじめたとき、その疲れた横顔に朴訥かつ素直な「ヴラド」という呼びかけが届いた。見ると青年は眉を下げて、沈思するまなざしを斜めに落とし、困ったように顎に指をあてている。

「棺は作れぬか」
「いや、棺の作り方は幼いころから教えられる。問題はそうじゃなく」
「なんだ」
「……資金の面で、イトスギをもとにした棺しか作れそうにない。お前が普段どんな棺で寝ているのか知らないが、あまり上等な品ではないから、それでいいのかを先に聞いておかなければ」

 伯爵は鼻から息を抜いた。髭に塗った蝋の気品ある香りが台無しになるような、億劫と渋々と物憂いに満ちた、それでいて子の為す不器用な手習いの作を見守るような慈父のまなざしを、この年若い狩人に送っていた。

「それでいい」

 そのひとことで青年は明るい表情に戻り、身支度をはじめた。