月だ。
海辺の洞窟に月明かりが差し込めば、きっとこのような氷碧の光があたりを照らし、絶え間ない波影の動きをゆらゆらと岩肌に映し出すのだろう。
夜の草地にくっきりと浮かび上がる自分の短い影を見て、シモンは空を見上げた。丸みを帯びた月の光が周囲の雲を霧のように透かしている。
7年前に城から見た月はどんなかたちだったか、思い出せないにしても、あぁこのような半端なかたちではなかったなと彼は思った。竜公に見合うのはこれ以上はないというほどの美を満たした齢の月だ。夜そのものが彼を讃えるために空に映したのは、三日月か、満月か、どちらだったろう。
秋風の吹く白い要塞を青く、淡く、さやかな空気が満たしていた。
自分の影を追ってゆっくりと寝室のほうへ歩いていくと、浅い草の海に立ち、地表の凪を見つめているかつての城主が遠目に映った。
「どうした、ヴラド」その胸の痛む佇まいに、シモンは思わず声をかけた。駆け寄る自分を制するように、彼はこちらに顔を向けて、その陰のある視線を寄越した。青年は数歩遅れて立ち止まった。近づきがたい居姿へは小舟一
「あぁ」青年は嘆息をまじえて、粋然とした口調で呟いた。「お前の影は踏めぬな」
伯爵の相貌に興味の色が差した。「どういう意味だ?」シモンは彼の言葉に顔を上げた。驚いているさまから、心をどこかに飛ばしていたのは明らかだった。「あぁ、いや」取るに足らないというふうに青年は話し始めた。
「子供のころの話だ。月のある晩には狩りや鍛錬も夜遅くまで続いてな。父とともに家路につく途中で、後ろに伸びる父の影をよくひとりで、なんの気なしにぱたぱたと踏んでいた。見失わないよう、目印のつもりで後を追っていたのかもしれん。ふと影がぴたりと止まって、振り仰いだら父がこちらをじっと黙って見つめていてな……怒られもしなかったが、それ以降は隣を歩くよう、横に並ばせられた。時々、頭に手を添えられたり、軽く手を引かれたりして、歩調を正すためだとわかってはいたが、幼い時分には快い感触で……」
問いの意味に触れぬ話の逸れ方に冷めた視線を感じたような気がして、青年は慌てて「つまりその、子供の頃にもしも目の前に影が伸びていたとしても、それがお前の影ならばとても踏めないと思ったんだ」と答えた。
「だから、なぜ」
「なぜ、とは」
「理由になっていないだろう。影を踏めないわけはなんだ」
「色々あるが、影さえもなにか、一般の者とは違うなと思った。威厳や気品、風格があるというのか……踏めもしないし、後ろを歩くのもためらう。なにより、近づきがたいし、幼心には怖いと思う」
「今もか」
「もちろんだ。みな、そう思うだろう。貴族や王族というのはやはり、佇まいからして違うのだな」
純粋な賞賛の言葉だった。当然というかたちで受け取るかと思ったが、伯爵は視線をわずかに横にずらし――しかし、すぐに(やはり)「当然だ」と傲岸不遜に言い放った。
「頭の中で整理せずに話しおって。また興味もないお前の昔話を聞かせられた」
「すまない」
「だいたい、そのように軽々しく、気安く話しかけられるのも腹立たしいのだ。立場も状況も忘れたような呑気な口調で、先のことも考えずに言葉を交わすなど、まったく正気とは思えぬ精神だ」
「先のことか」シモンは少しだけ眉を下げた。「冷静でいるつもりだがな。なにが起こっているのか調べるためにもまず」彼は城壁を指さした。
「前にこの中庭から私の寝室まで一瞬で距離を詰めたことがあったろう? 天守で対峙したときのように、空間を自在に移動する力は今もあるのか?」
沈黙を保ちたいようだったが、伯爵はしばしの間を置いて「あぁ」と答えた。
「その力で、私を連れて城壁の外へ移動することはできないか?」
先ほど『影も踏めぬ』と言ったこの青年は魔王に頼み込もうとしているのか、その正気と捉えられぬ精神で。裏も混じりけもない尋ね方に伯爵は「無理だろうな」と、こちらもなんの疑念も抱いていないような口調で答えた。
「要塞を覆うやつの力はお前を髪の毛一本もここから出さぬとばかりにきわめて強固に働いている。お前の様体を霧よりも細微にして共に城壁を越えたとしても、外の岩地を踏むころには――あぁ、おそらく踏めもしないな。異なる空間に在るやつの鎌で見るも無惨な姿に切り刻まれているだろう」
「では、お前の魔力でこの死神の力を打ち消すことはできないのか?」
「それができればとうに」伯爵は吐息を含むように唇を閉じたが、すぐに続く言葉を彼に返した。「……とうに、このような面倒な状況から抜け出ている」
出ようと思えば今すぐにでも狩人のいるこの場所から出られるのだ。呪いを受けた身の、自由のない青年という、面倒な状況をそのまま残して。
夕の席であのような怒りを覚え、その後の理性がもたらした、風に吹かれても消えぬ痛みを抱える今となっては、大虐を尽くした魔王であっても、どうして彼を置いて行かれようか。正気の沙汰でなくとも、思い返してみれば、青年とこうして口をきくのに嫌悪を覚えたことなど、ここへ来てから一度としてなかったではないか。
だからひどく、痛むのだ。鼓動の音など忘れてしまった部位が、人間らしく。
シモンは「そうか」と告げた。間のある返事だった。ややうつむいた表情は伯爵の心情を少なからず理解しているのか、追念に汗を落とすような、諦めの態度を見せていた。しかし続く言葉は場に見合わぬほど冷静なものだった。
「お前の力でも無理ということは、死神も渾身の力を使ったか。懐かしい顔と逢うのも期待できないようなら、お前ひとりが外に出ても意味はないな」
伯爵はその相貌や心を強ばらせた。凝固といっていい眼の見開きようだった。
なぜそこに考えが至らなかったのだろう。自分の精神が狩人によっていかに乱されているかを思い知らされた気がした。
たしかにシモンが話したとおり、腹心の気配がまるでつかめない理由とは、その骸に宿る魔力を使い果たしたからという、非常に単純なものでしかないように思われた。
要塞全体を牢獄に変えるという、主でさえも打ち破れない途方もない力を用いたのだから、死神は今もわずかな精神のかたちも現せられないのではないか、そう考えればすべて自然に納得がいった。
伯爵自身がここに現れた当初から、主は青年の身をむしばむ呪力を糧にするほかない脆弱な存在だったのだ。その配下である死神もまた身に宿る魔力はおぼろげなものでしかなかっただろう。主の力が戻るとともに自身の鎌も研ぎを増していったろうが、その頃にはもうなにも信用がおけぬ状況で伯爵は棺に横たわろうとしていたのだ。主が疲れ果てていたとはいえ、狩人を殺すわけにもいかぬ、ここから出すわけにもいかぬ、生に執着のない主人を安全に休ませるためには――いわば要塞全体を覆う力こそが死神の今あるすべてなのだ。意思は力として常に働き、主に忠誠を誓っている。忠義者である彼が悩ましい感情に苛まされる主を置いてふっつりと行方知れずになるわけがなかった。
「ヴラド、大丈夫か」
そしていま、この青年は自分のことよりも、公の心の内を心配している。
城もなく、村人の魂を凍らせるほどの畏怖もない、魔王として君臨していた頃の力など影も形もない孤独な存在として自身を見つめているのだ。
年若い狩人にそのような気遣いの体で片手を上げさせる自分の姿はいったいどんな有り様なのだろう。影も踏めぬ威厳や気品などあろうはずもない。その証に、彼はまだ一度も邪悪の象徴である竜公の名を口にしていないではないか。
青年が一歩、文字通り歩み寄るように、公の近くへと草を踏みしめた。
「ここに残る理由などもうないかもしれないが、しかし私はお前を――」
「もういい」伯爵は鈍い鉄のような響きで言葉を打ち付けた。「魔王と狩人が対等に口をきくなど、やはり正気の沙汰ではない。早くこの場を去れ。顔も見たくない」
シモンは口をつぐみ、厳しい顔つきで顎を引いて、瞳を閉じた。そして顔を上げて、黙って寝室のある建物へと引き取った。その足取りを伯爵は見ようともしなかった。ひめやかな風があたりに渡った。いまだに肌に痛みを感じて、公はその細顎を強く噛みしめた。
月はもうすぐ雲に隠れる。
伯爵は白い石造りのベンチに腰掛けて、いくらか気分の落ち着いた静かな心持ちで、ここを出て行くことを決めた。
死神も力を取り戻せばいずれは姿を現すだろう。その時に、それとなく青年の解放を促せばそれでいい。食料も水もここには充分にあるのだ。城もなく、身を休める場もなく、力も思考もいまだ不安定きわまりないが、青年にべったりと張り付いている今の状況を考えれば、この広い夜闇を彷徨うことこそ、失われた誇りを蘇らせる振る舞いに思われた。
――唐突に、先ほどまで視線を向けていた窓のほうから、身をちぎられるような叫び声が上がった。尖った耳も、全神経も痺れを受けるような
位相を変じて居を移した先には、凍えるような暗闇のなかに、乱れた寝台の上で身体をねじらせているシモンがいた。横たわりながら壁を掻き、苦痛を感じるように強ばらせた片手で両眼を覆っている。指の下に、白く見開いた目から血を流しているのが見えた。伯爵はその手を掴み、顔から引きはがした。下まぶたから血の泡が噴き出て、頬やこめかみに幾筋も垂れている。『いかん』伯爵は悪夢がもたらすこのような凄烈な症状は見たことがなかった。自分の手を振り払おうとする青年の、手首から伝わる苦悶の力のなんとすさまじいことか。喉の奥から暴れ抜くおそろしい声も、痙攣する身体も、足指も、これがすべて呪いによるものだというのか。公の瞳の色が黒から赤に変わっていった。失明させまいと、伯爵はその紅い目を光らせて、魔力のこもる長い爪を苦痛に喘ぐ青年の額にあてた。無理矢理にでも呪いを弾かせる、魂が灼けつくような魔力を、一瞬の鮮烈な光として彼の精神に送り込んだ。
突如として壁を掻いていたシモンの手が伯爵の喉頸を掴んだ。鋭い爪で噛みしめるように、竜の顎よりも容赦のない力で、公の首を締め上げる。
「これが本性か。これが悪鬼と呼ばれるお前の姿か」
吐く息は悪竜のように熱く震え、憎悪の声は雹のように激しく痛みを打ちつけた。これが今まで穏やかに、平静に様々な表情を交わしていた相手の相貌だろうか。今までに対峙したどの狩人よりも厳めしい、黒い噴気が立ちのぼったその唸り声は、圧迫される伯爵の意識に暗い死を想起させた。
「昏倒する直前に、夢の中で、お前の紅い眼を見た。7年――7年もよくも――どこまで私を呪えば気が済む。どこまで私を侮辱する!!」
錯乱と混迷が見てとれた。夢の中で見たという紅い眼は伯爵のものに相違ない。しかし彼はそれを、自分の難を救うものではなく、底の知れぬ悪意によるものと解釈した。青年は正気でも冷静でもなく、常人には耐えられぬ悪夢によって記憶違いを起こしていた。公はその憎しみに燃える手に哀れみを覚えた。
首に
『落ち着け、シモン。呪いをかけているのはわたしではない。このまま怒りや憎しみに任せてわたしを殺したとしても、君は決して呪いから解放されんぞ』
「そのような嘘をまだ」許しがたい屈辱による歯ぎしりが喉へと響いた。牙のないのが不思議だった。「いいや、それがまことのことであっても、もはやお前の首を潰さずにはいられぬ。誰かの呪いによって尽きる命ならば、それに呼応するお前を滅ぼさねば、私は死んでも死にきれぬ。――そうだ、そしてお前の言ったとおり、魔王と狩人が対等に口を利くなど、やはり正気の沙汰ではなかったのだ。今ならばはっきりとわかる、お前がわたしを助けたことも、行動を共にし、言葉を交わしたことも――呪いが成就した際にお前が薄く微笑むための演技でしかなかったと」
これは本当に記憶違いを起こしている者の言葉なのだろうか。伯爵はひどい哀しみを覚えると同時に、その感情に全身の力を奪われていくのがわかった。残りわずかな命と知り、これまでの行為すべてを邪悪と思い込んで自分を討とうとするのは、狩人の魂に刻み込まれた使命感か、呪いによる血の翳りなのか。
このまま自分が死ねばどうなるのだ?
死体は残るのか、それとも天守で陽光を浴びた時のように、数多の蝙蝠となってのち、塵と変じるのか――そしてそれを見た青年の心には、いったいなにが残るというのか。死してなお鞭を振るう骸のような虚無か、永劫の闇か――伯爵は天守で彼と対峙したときの情景を思い返した。神秘に満ちたあの荘厳な旋律、己が力で勝機を掴んだあの英姿はもはや遠く……。
『シモン、今の君に光は見えない』
光? と、問いかけるような眼の動きが骨をきしませる手の力にも感じられた。なぜこのような言葉を伝えたのか、伯爵自身もわからなかった。かりそめの死は常に自分の側にある。しかし此度の死に際に――彼との邂逅の果てに――あの光をふたたび目にすることができないのを残念に思ったのかもしれなかった。過去のどの狩人にも見たことのないあの輝きは、そう。
『祈りにも、似た』
幻のように、首にかかる力が消えた。伯爵は大きく咳き込み、青年の身体へ倒れ込んだ。喉に手をあて、飛び出しかかった両眼を戻すように青年の胸にまぶたを強く押し当てる。シモンはその伯爵の様子を、呆然と見開いた眼に収めていた。
感情表現のひとつでしかない呼吸を、暴力的な手段で封じられるのがこんなにも苦痛を伴うものだとは――過去に誰も働いたことのない自分への蛮行に、伯爵はあらためて青年の屈強さと、容赦のなさを思い知った。
「ヴラド」
シモンは先ほどまで首を締め上げていた手を伯爵の頬に伸ばした。それは静かに払われ、かわりにやわらかな手で両まぶたを覆われた。熱を冷ますような青白い光があてられる。鬱血をふさぎ、神経の損傷を癒す力が伝わった。人にあらざるやわらかい、王侯貴族の薄い手のひらの感触に血混じりの涙が出た。
「しばらくはなにも見ないほうがいい」
身を起こし、外套をひらめかす音が聞こえた。痛めつけられた喉から出たとは思えぬ、いたわりと美しさに満ちた声だった。どんな表情をしているのだろう。シモンはまだ彼の高貴な気配が感じられる部屋のなかで、注視してほしいように、払われた手を頼りなく上げた。
「ヴラド、いったい誰が私に呪いをかけている? お前以外に、誰に恨まれることがある?」
「さぁな。見当もつかん」問いかける手を彼は見ていなかった。青年に背を向け、戸口の向こうへ姿を消すように、その身をおぼろげな霧に変じていた。黒い狭霧が部屋から残らず消える前に、彼は青年の問いに対してこう告げた。「しかし、わたしは君を恨んではいない」
蝋燭の火が消えた。血の染みたシーツに横たわる青年がひとり、痛ましい思いで鼻をすすり、ため息をついた。