今宵は三日月。
魔法の明かりであたりを照らしながら山道を進む一群があった。提灯持ちもいるにはいたが、細い薄明かりの月夜では、ランタンよりもやはり魔法の明かりのほうが便利だった。
道は要塞教会に続いていた。
先頭をイデュリ主教が歩いていた。真白い長衣の裾を泥で汚しながら、目をぎらぎらと血走らせて、肩をいからし、坂を登っている。
その容貌は見るも無惨に衰えていた。灰褐色の髪は白髪となり、顔は無数のしわを刻み、痩せぎすの肉体はひびわれた大地のように潤みをなくして、骨は中から砕けたように、あちこちがおかしなかたちに曲がりくねっていた。
疲れからではなく、彼は一夜にして老人となった。
狩人の背に鞭を打つ悦楽を味わっている最中に、遠い地から、なにものかの制裁を受けたのだ。それはまさしく裁きと言ってよい、紫紺の稲妻を受けたような衝撃だった。絶叫を上げる自分が老人へと変貌していくさまを、様子を見に来た何人もの修道士に目撃されなければ、自分がイデュリ主教であることを皆に認めさせるのも難しかったことだろう。
こうして、主教のあらゆる妄執の対象である狩人の名は、早急に公の場で挙げられることとなった。
彼は証人立ち会いのもと、主教会議をひらき、魔王の力を利用した狩人を処刑すべきだと、要塞教会の火却の案とともに総主教に進言したのである。
日頃よくない噂をきく人物を、面倒の少ないうちに処理したがった教会側は、本人(この場合、狩人)抜きの裁判を行い、とどこおりなく彼の主張を受け入れた。要塞へ火を投じる魔法使いや射手を召集する許可とともに、この件に関しての権限を彼に一任したのである。
火却の準備を進めるさいにも狩人の捜索は続けられたが、今にいたるまでその行方はわからず、身柄の確保に至っていない。
かまわぬものか――主教は顎を噛みしめて、ぼろぼろの歯にあらたなひびを入れた。一歩進むごとに身体に激痛が走ったが、それ以上のよこしまな願いが彼に険しい山道を歩かせた。妄執の対象である狩人の滅びを見届けるためならば、彼は痛みなど気にならなかった。
主教の脳裏では修道院で伝え聞いた言葉がぐるぐると渦をまいていた。それは強風のように彼の気持ちをあおりたてた。
つい、先刻のことだ。
『まずいな』自室にいる主教の影から声がした。『非常にまずい』
「なにがあったというのです」
『我が主が復活する』さかしまの角をもつ悪魔が影からその存在を主張した。『人の手によるものではない。正真正銘の、城が蘇るほどの、恐るべき力による復活だ』
大気の変動を感じ取るように、悪魔はその黒い肌をちりちりと微細にふるわせた。それでは、と主教が呆然と口を開けた。
『そうだ。影ではなく、真の魔王の存在を総主教に気取られれば、狩人の処刑はあとまわしになる。裁判があのような結果に終わっても、実質はいまだにあの狩人が正統ヴァンパイアハンターであることに変わりはない。魔王討伐の任が先行されることになれば、われらの手による狩人への裁きは行えまい』
「どうすれば」
『今宵は研鎌のような三日月だ。実行は明日と聞いたが――ヴェルナンデス家の末裔の帰還を待つことはない、いますぐにでも要塞教会の火却を開始すべきだ』
教会所属の魔法使いであるヴェルナンデスの末裔は、主教にも極秘の任務に赴いており、どこの地からいつ戻るのか、火却の任務に加わるのかどうかも彼には知らされていなかった。総主教はただ待てと言ったが、悪魔の語りかける言葉は主教を立ち上がらせるに充分だった。
こうして朝を待たずに、疑問や不平を言う魔法使いや射手たちを引き連れての聖務が開始された。その数、わずか二十数名。そのなかのひとり、魔法使いのニコルが隣を歩む友人に低い声で話しかけた。
「主教の話では、狩人が要塞内の金品を領じているって言ってたろう?」
「ああ」
「とんでもない話さ。ベルモンドをおとしいれようとする誰かの手によって、彼はやってもいない罪をなすりつけられているんだ」
友人は、その怒りのこもった声にぞっとしながら、興味深くことを尋ねた。主教に聞こえぬよう、同じく小声でニコルに話の続きをうながした。
「ずっと前、4、5年前か、噂を聞いて山道と町を繋ぐ道で彼を待ち伏せたことがあったんだ。実際に金品を領じているのか本人に尋ねてみたくてさ」
大胆なことをするなと、友人は目を見開いた。なにごとにも無関心ではあるが、興味をもったことがらには突然に行動を起こすのがニコルの性格だ。友人もそれはよく知っていたのだが、正統ヴァンパイアハンターへ噂のほどを確かめにいくなど、そんな恐ろしいまねをする奴とは思わなかったのだ。
「まぁ、狩人の立場が立場だけに、まちがっても殺人など犯すまいと考えてのことさ」彼自身も愚かさを笑うように肩をすくめた。しかしすぐに、その考えを恥じるように「最初はそう、軽く思っていたんだがな……」と、沈痛な面もちに変わった。
「実際に会ってみて、圧倒された。おれたちの知らない、幾百、幾千もの狩人の知恵と戦術が身に備わっているような、堂々とした風格だった。後悔も自嘲もしたことがないような、静謐な表情。心をとらえるまなざし。立派な容貌についてはいくらでも語れるが、重要なことだけをもうひとつ話すとな、彼はこれをかついで山を降りるのも大変だろう大きな背嚢を背負っていたんだ。なかに遺品が入っていることは一目で知れた。目の前の彼は五年以上ものあいだ、何百人もの遺品を整理して、区別して、ひとりでそれらを背負ってこの険しい山道を下ってきたんだ。そう思うと声もかけられなくなってな。その場に立ちすくんでいたら、彼のほうから『どうかしたのか』と尋ねられた。顔にも態度にも、その声にも誠実さと力があって、彼は伝説にきくベルモンドの血を引いている人なんだって、すぐにわかったよ。おれは教会で聞いた話を彼に伝えた。彼は悲しそうな顔をしたが、ひとこと『そうか』と答えた。あれは完全になにを噂されているのか知っている顔だった。おれは尋ねたよ、こんな目にあわされて、どうしてまだその仕事を続けているんですかって。彼はこう答えた、『遺品はまだ数多くあるから、途中でやめるわけにはいかない』と。たとえ金品着服の罪を誰かに着せられても、届け出る場所を変えることはできないと――これはおれの想像ではあるけどね……つぎにこんな言葉を聞いたものだから……『祈りの家は聖なるものであってほしい』と――彼は彼自身が汚されても、そう」
息のつまる声だった。
このような隊列に加わっているのを心から悔しいと思っている、そんな横顔だった。
実際に目にしたものにしかわからないが、金品着服の件でさえ狩人は潔白の信頼がおける人物なのだ。魔王と通じているということも誰かのでっちあげにすぎないのではないか。ふたりのあいだには、口にせずともそのような不穏な空気が漂った。友人は重い気持ちでこう呟いた。
「もしこれで、本当に正統ヴァンパイアハンターである彼が処刑されたとしたら――それでもし、竜公が復活したとしたら――いったい誰が、悪魔城に乗り込むというんだ?」
「さあ。誰かがやるだろうさ。誰かがな」怒りと自棄をこめた遠い目で彼は呟いた。「そのためにヴェルナンデス家やベルモンド一族がいるんだ。ひとりが処刑されたとしても、替わりの誰かが竜公討伐の名乗りを挙げるだろうさ」
あきらめと不愉快に満ちた沈黙だった。ふたりにいったいなにができるだろう。なにをやる気になれるだろう、この、なにが真実かもわからない聖務団体に所属する身で。
枝や砂利を踏む足並みを見下ろすように、ふくろうの鳴声が森に響いた。
「おれたちは、狩人を殺すわけじゃないよな?」
「どうだろうな」ニコルは怒りのさめやらぬ暗い顔で呟いた。「彼のしてきたことを無に帰す行為をするのは確かだ」
「使われなくなった要塞に火を放つだけだろう」
どうしようもないやつあたりではあったが、彼は怒りの頂点をむかえて、友人に拳を振り上げた。それは相手を殴ることなく、身体のなかほどで静かに下ろされた。ニコルの表情がしわを刻んだいかめしい顔から、もやのなかに迷い込んだうつろなものに変わっていく。
先を歩く主教の影から長い爪を生やした人差し指がのぞいていた。隊列を乱すおそれのあるものへ向けて、妖しい光を放っている。
今までにも、主教に対して不平を言うものたちをすべてこの光で黙らせてきたのだ。思考を奪い、ただの人形に変えてしまう、悪魔の技。それは常にイデュリ主教の影から行使された。『自分は人の魂を支配できるのだ』と、影の持ち主が思いこむほど、頻繁に。
それからはひとことの無駄口もなく行軍が続いた。
ただひとり、イデュリ主教が「あれは、危険な、ものです」とぶつぶつとうわごとのように同じ言葉を繰り返していた。胸元には、なぜか、紅い光をたたえる小さな石を身につけていた。
対照的に、今宵は青い月が浮かんでいた。とりわけ人を静かにさせる、特別な夜のしるし。刻印のようにはっきりと輝く、美しい三日月。
半円の雫が伝い落ちるような美しい月夜を迎えても、狩人は誰からも発見されなかった。竜公の墓所からの帰り道、名もなき森の陰に彼は行き倒れていた。
せめて魔物に身を汚されぬよう、彼はあたりに聖水をまいて、木々と藪の茂る大地に身を横たえていた。仰向けに倒れたその表情は想像を絶する疲労の果てに、埃にまみれ、色を失っていた。もう誰のためにも動くことはできない――横を向いた顔がそう語っていた。
風が吹いた。木の葉が逆巻くような神経質な勢いの強風だ。目をつぶらずにいられない巻き風がやむころ、そのなかにひとりの女性がいた。暖色系の明るい髪の色、同系統の鮮やかなブリオー、艶やかな肢体。カミーラだ。彼女は森に降り立つと、狩人の気配を探るようにその小鼻をひくつかせた。森の奥から聖水の嫌なにおいがただよってくる。彼女はそちらへ歩んだ。いくらも経たないうちに、力つきた青年を見つけた。少しのためらいが生まれたが、彼女は彼のもとへ歩んだ。カミーラの足元から、皮膚を焼く音と、白煙があがった。苦痛に顔をゆがめたが、それでも彼女は歩みをとめず、青年のそばへひざまずき、彼の呼吸を、心音を確かめた。
まだ、生きている。
カミーラは彼の背を抱き起こし、力を集めるように、神妙な表情で瞳をとじた。竜巻が巻き起こった。木々をそらせ、色あせた葉を天にのぼらせる紫色の風がふたりを包んだ。
せめて、彼を休ませることのできる場所へ。
その風はいたわりと情熱をもって、狩人と女吸血鬼を、要塞教会へと運んでいった。
その数刻前、竜公の墓所で異変が起きた。
稲妻もなく、風も吹き荒れず、夜を迎えたそのときに、なんの前触れもなく墓前から――地中から、ひとつの手が現れたのだ。
立派な長い爪は心臓を掴むように凶暴に開かれて、土と、空を掻いた。
それはしばらくもぞもぞとあたりをさぐり、時間をかけて、手首から上を、下膊を地上へと見せていった。肘までくるとその手は力をこめて、大地をしっかりとつかんだ。肩が、身体が、土を崩す音を立てて、墓所に蘇った。
その存在は実に秘めやかな動作で、両腕に力を入れて、自分の身体を片膝まで引き抜いた。重々しい土中ごと粉砕するように、もう片方の脚を力強く地表へ――そして彼は立ち上がった。
指先まで美しいその手で外套を払うと、すべての泥や土くれが地に落ちた。
墓前に手向けられた白いアネモネの花がうずたかい土とあらたな泥を身に受けて、その小さな花弁を夜気に裏向けている。誰の目もくれられず、花はいずれ朽ちていくのだろう。
そうして、彼は、自らが弔われた墓所に立った。
三日月を栄冠とするように、夜を支配する英姿を美しく闇に映えさせて。
その姿は数日前と少し様子が違っていた。黒髪は月の美を表すような白銀色となり、黒外套は海上の洞穴に夜明かりが差したような、深く静かな碧色の衣と変じていた。
しかし、それをまとう彼の雰囲気はどこか虚ろだった。目的のさだまらぬ目線は誰かを探すようで、それがなんなのかをわかっていない。至貴の居姿は完全ではなく、ふとしたはずみで混沌の淵に落ちそうな不安定さがあった。
もみの梢から呼び声がした。
彼はそちらを振り向いた。金色の瞳は懐かしい顔を見るように深い表情を取り戻していった。
「
はい、と返事がした。
「いまは、いつだ」
『1698年です』
「そうか」彼はそう呟いて、月を見上げた。「――わたしはなぜ、そのような半端な時代に復活したのだ?」
眠りについたのはいつだ、そしてそれから何年が経ったのだ、何年――主の呟きとともに、死神は自身の眼窩よりも昏い、たそがれの時を見つめていた。
「長い――とても長い、激しい戦いを終えた気がする。しかし、相手は人ではない。あらゆる惑いをかけてきた、卑劣な、それがゆえに強力な、聖なる光。翼あるものたち――
力の消費が彼をこのような姿に変じさせたのだろうか。大切なものを失わせて、その美だけを蘇らせて。復活を阻止することは不可能だと判断した天使たちは、いずれ地上に現れるであろう彼の精神を、無慈悲にも、深くむごく打ち砕いてしまったのだ。
「わたしは、なにを」腹心に尋ねようとしたそのとき、湖畔から水音がした。そちらへ目をすがめると、木陰の近く、水草のそばになにかがいる。白鳥だ。恐ろしい存在から隠れるように、波紋をいくつも立てて、闇夜にまぎれようとしている。伯爵はその卑小な生物から興味なく目線をそらした。「わたしは――なにを、しようと」
鳴呼。
もしも口にできることならば、忠臣はこれ以上の言葉を声に出すまい。
なにをして差し上げればいい、いったいなにを。
カミーラはすでに狩人を要塞教会へと連れ帰っている。そこへ進軍するものがいるともしらずに、いや、わかっていたとしても、そこ以外に狩人を休ませることができる場所など存在しないのだ。そこも、もうすぐ、失われようとしているのに。
死神の群青色のローブがひやりとした風になでられた。その風を受けて、黒い眼窪も冷たさを増した。
しかし、もしかしたら、これは好都合なのかもしれぬ。
ベルモンドとの因縁を愚かな人類の手によって断ち切れるのであれば、このまま口をつぐんでいたとして、いったいなんの不都合があろうか。
今の主には城を蘇らせてあまりある強大な力を感じられる。このまま、人類を統制する機会をつかむべきではないのか――それこそが我ら闇の眷族の悲願ではないか。たとえ、混沌を体現する今の主のままでも――。
死神のからっぽの目は昏く、あまりに黒く、深く、主の姿を映していた。
公は片手で額をおさえている。むなしさや焦燥がそうさせるのか、それとも、もしかしたら、頭重でも感じているのだろうか――闇の城主たるべき存在が?
死神はまだ、主のあの顔を見ていない。傲岸不遜、高邁と不機嫌が同じにある、不敵かつ尊大な、あの顔を。
要塞教会の中庭に竜巻が降り立った。木々や草原を吹き散らし、狩人と女吸血鬼が、時の止まった異質な空間に戻ってきた。
カミーラは狩人の耳元に顔を寄せて「部屋はどこ」と尋ねた。青年は薄目を開けて、ある一室をゆらゆらと指さした。カミーラは念をこめた。一瞬のうちに、彼女は狩人とともにその部屋へ移動した。伯爵ほどではないが、彼女もまた、人には行使できない魔力をもつ存在だった。その力は時間が経つごとに増してきている。主とつながりのあるその魔力は、復活をとげた伯爵の力の強大さを証明していた。
彼女は狩人の軽鎧を脱がせ、青年をベッドへ横たわらせた。やわらかい手で彼のぼろぼろの頬を拭うと、皮膚の汚れが消え失せた。
しかし、彼女は闇の眷族なのだ。青年を治癒する奇跡の力は使えない。いまはただ、かすかな息を絶えさせぬよう、狩人を休ませることしかできない。
どこか遠くから、空気を裂く鋭い音が聞こえた。窓を見ると一本の火矢が草原に刺さっていた。魔法によって飛距離と威力を高められた
「すべてを燃やそうというのね」
血の涙も流れない。頬を残照のような色に染めて、カミーラは立ち尽くした。
狩人のしてきたこととはいったいなんだったのだろう。青年の働きを感謝し、評価するものは、7年のあいだにはたして存在したのだろうか。もしいたとして、それを教えてくれる誰かは、今どこにどうしているのだろう。
瞬きのように、カミーラは主の至高の居姿を思い返した。そして青年を振り返った。横たわる狩人は、徐々に迫ってくる熱気にうなされるように、苦しみの表情を浮かべている。
彼女は青年のそばへひざまずいた。
「大丈夫」そのたたずまい、その表情。戦火のなか、誰ともわからぬ子をその身にかばう慈母のようなまなざしだった。「きっと、いらしてくださるわ」
きっと、きっと。
彼女ははじめて、祈りというものを捧げていた。その祈りに、邪悪さはかけらもなかった。
ここを動く必要はない。逃げる必要もない。我が主が復活なさったのだ――なにを恐れる必要があろう、人間ごときが扱う炎に、狩人に迫るその暴力に!
「好きな夢を見なさい」
ささやきによって、彼女は青年の心をなぐさめようとした。
受け入れるように、青年の眉間がしわをなくした。まぶたも頬も口元も緊張をやわらげ、徐々に表皮がなだらかになってゆく。
寝息が聞こえた。
強すぎる炎がふたりのいる部屋を赤々と照らしていた。
遠く離れた墓地にて。
自身の鎌に映る三日月を見て、死神は静かに夜空を仰いだ。
7年前とよく似ている。あの月のかたちは、我が主と狩人がはじめて対峙したときのものと、おそらく同じ。
彼は墓前に佇む主に、こんなことを呟いた。
「あいにくの天気で」
失った記憶のふちに呆然と佇む伯爵は、その場違いな忠臣の言葉に「なんのことだ」とようよう返した。
「復活の日に雷鳴が轟かなかったことなどありませぬ。雲間から稲妻が飛来すれば、天地同様、その粗末な墓も引き裂いてやれましたろうに」
公が足元を見ると、自分の名を刻んだ墓があった。彼は少し離れて、全体をよく見てみようという気になった。ちらりと見えたその文字が眉をしかめるような出来に思えたからだ。広い間隔を空けて、公はもう一度、墓石を眺めた。
それは、見れば見るほど、粗末な代物だった。
石は真新しいのに、自分の墓碑名は素人が彫ったかのように荒削りで、たどたどしい連なりをその面に浮かべている。そばにある土くれに埋没したアネモネの花も、時折吹く風に乾いた音を立てている。花の一輪を見れば、根っこがついている。束にしたリボンもない、子供が無造作に摘んできたかのような、みすぼらしい献花だった。真新しい、白のアネモネ・ブランダ。
眼前に光が差し込んだ。
月明かりでも
残照に映えるマントが見えた。
たくましい背を覆うその白いマントを身につけた人物は、墓前にひざまずき、竜公に祈りを捧げている。
墓碑名を指でなぞる仕草を見て、自分はその背に心から、こんな言葉をかけたのだった。
「美しい字だ」瞳に、横顔に、誠啓の念が蘇った。「力がある」
『鳴呼』
心からの拝顔の声だった。
虚無とは無縁のあの純粋な横顔、あの崇高なお姿。
『鳴呼』
邪悪と真摯とが混在する、我が主、闇の王よ。その血はいま蘇られたのか。よろこびを打つその魂は、いままさに、まことの復活を遂げられたのか。
しかし、このよろこびをもたらしたものは、我が主にまことの復活を遂げさせたものは。
『それを彫り上げた者の力は、今まさに潰えようとしております』
もとより承知しているように、伯爵はそのとがった耳をそばだてて、瞳をとじた。公が残りかすかな青年の気配を探れば、忠臣とともに、あの要塞にいることがわかった。同時に、炎のにおいも漂ってくる。
「移動する間に状況を説明しろ」外套を翻し、伯爵は目的の定まった表情で振り返った。「ほんの数瞬だ。それ以上は待たぬ」
承る声が主とともに闇に溶けた。
墓所には誰もいなくなった。
いまは静かに、星のきらめく夜空と、7年前と同じかたちの青い月が、湖に美しく映りこんでいる。