忘れじの詩(うた)・9

 異質な空間に死神の力が加わったからか、亡魂による給仕の気配はなく、食卓にはなんの準備もされていなかった。かえってそれで安心したように、シモンは厨房へ向かった。真っ白なテーブルクロスを見た伯爵はひら、と手を振り、あたたかいクリームスープややわらかい小麦のパン、マッシュポテトと、香ばしいにおいをさせた巨大な鳥の丸焼きをずらと並べた。
 振り向くシモンに対し「長々とした調理のあいだ、喉を湿すものもなく座っているつもりはない」と告げて、公は簡素な椅子に座った。この椅子に座ることも不本意だろうが、彼は魔法で作り替えることなく、青年の着席を待った。

「ほんとうに魔法でなんでも出来るんだな」

 とまどいながら手洗いをすませ、シモンは席についた。
 手を組み、食前の祈りを捧げようとすると、公はいらいらとした口調で「魔法で出したものだ。天候や人の手による産物でもない食事に対して、感謝の祈りなど捧げる必要はあるまい」と、早く食べるよう青年を急かした。動じることなくシモンはこう答えた。

「食への感謝はもちろんだが、それ以上に私は、私のために犠牲になったものたちへ祈りを捧げている」

 伯爵は眉を上げた。どういうことかを尋ねられる前に、シモンは祈りはじめた。静かな言葉と、その祈りを唱える姿に、公は今まで見たなかでも青年の寂寞とした心の痛みを感じて、これ以上口を差し挟むのをやめた。彼は祈り終えたあと、鼻から少しため息をついて、グラスにワインを注いだ。かたちばかりの列席の意味を公に差し出し、シモンは静かに話し始めた。

「過去百年のあいだ、頻繁な飢饉があったのを知っているか」

 伯爵は少し考え「いや」と答えた。「そうか」とシモンは視線を落とした。

「一年に一回という絶望的な頻度で飢饉があった。曾祖父の時代には50万人が死んだとも伝えられている。度重なる食料危機に女子供はおろか事態を改善するために働く男たちもなすすべも無く次々に倒れるようになった。どこへ行っても同じような状況で、蓄えのない場所から滅びを迎えた。私の住んでいた村には通常よりも豊かな――ここのような要塞教会なみの備蓄食料があったが、それでもあの長年にわたる異常な寒冷化と干ばつを乗り切るのは難しかった。なにせ地域全体に雨も降らないから狩りをするにも生きた動物などほとんど見られず、水の確保のために、埋もれているかもしれない新たな水脈を探すことが日課となるような暮らしで……」

 なにか、このままいくと非常に嫌な過去にあたるような気がする。そう思っても、伯爵は彼の言葉を聞き続けた。

「何年目かの冬になり、とうとう食料の生産を見込めないまま、蓄えを消費することになった。男は二日に一度の食事というのが常になり、年寄りや女子供はごくわずかな量の食事を日に一回と定められた。まれに――ほんとうにまれに降る雪を溶かして水を作り、寒さに震える身体を寄せ合って眠り……翌朝には抱き合っていた相手が口をきかなくなっていた。飢えと寒さは容赦なく人命を奪っていく。病気や怪我で動けぬものや、衰弱の激しい子供らは過酷きわまる外気に抵抗する力が欠片もなく、風が吹いても死ぬような有様で……。そのような環境下で命が失われ続け、ついに全員に食事が行き渡らなくなった。誰を生かすか相談がされた。一番先に老人たちが静かに身を引いた。彼らの墓が建ち並んでも、天には雪を見ることがなかった。閑かに、厳かに次の優先順位が決められた。腹の中で子を亡くした女性らは、これ以上の摂食を厭うように、ひっそりと家にこもるようになった。あらたな命は生まれない。慈雨はおろか、草木の芽吹く春もまだこなかった。若い娘や少年少女は凍える手で糸を紡ぎ、資金の足しにするよう男達にそれを預けたあと、聖堂のなかで祈りながら死を迎えた。決まりを破り、自分たちに食料を差し入れようとする親たちをかばうように、子供たちだけで相談を交わしたのだろう。朝早くに教会に集まり、そこで……」

 シモンの両眼からは岩肌を濡らす垂水たるみのような涙が流れていた。拭わぬかぎりいつまでも頬に残るそれは、見るものの息を詰まらせる静けさがあった。
 しかし、公は眉一つ動かさなかった。冷厳な横顔は沈黙を守り、青年の言葉を待ち続けている。やがて彼は顔を上げた。聖堂の十字架を見つめるような、無情に向き合う面立ちで。

「棺に入れるよりも前に、床に伏す彼女らをあたたかい布でくるんであげたかった」

 身一つで身体を寄せ合い、天国へ旅立った子供らを、彼は見ていたのだ。
 その時点で青年はまだ生きていた。そして今も。彼が捧げた祈りの意味とは、つまり。

「最後に、みなの為に働いた男達が犠牲となった。聖鞭の継承者である私を生かすために、残りの食料や財貨をすべて託して、それでもなお私に教え足りなかったことはないかとひとつひとつ確認を取り……最後に、私と同じように聖鞭を継ぐために鍛錬を続けていた者と、村を出る前の残り数日間をともに暮らした。あるときのこと、寒冷化の影響で地に落ちたまま腐らずにいた木の実を見つけた彼は、言葉にできないあらゆる意味をこめて、私にそれをにっこりと差し出した。受け取ると、とても安心したような表情で倒れ込み、そのまま静かに息を引き取った」

 シモンは手のひらで涙を拭った。高ぶった気を落ち着かせるため、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から糸のように細く吐き出す。

「みな、そうだった。恨みにも思わず、あくまで冷静にことを見つめて、生き残るものに対して絶望を抱かせぬよう、慈愛を示す。
 手向ける花もなかった。乾きは涙を流させず、土を掘る腕は震えて、満足な石碑も建てられず……村で為すことをすべて終えたあと、激しい稲光をともなう雨が降った。あまりに冷たい痛みに、豪雨だったことを肌で覚えている。
 その夜、霊廟に身を置いているような非常に冴え冴えとした予感があった。戦装束を調え、私は使者を待った。数日して、東方正教会の使いのものが村を訪れた。顔色から、悪魔城の現出した場所が村からひどく遠いことがわかった。足早に山を下りる途中で、使者は息を切らしながら、私に嘆きを伝えた。あの雨の日にここで惨劇が起こり、ほどなくして城主が復活したと」

『あのような雨を降らせた魔王を決して許すことはできませぬ。恵みと受けたものを嘲笑うような鬼畜の所行、奴は我々の飢え乾く様がもっとも絶望にくずおれる瞬間を見計らっていたに違いありません――あの伝説にある紅い目で!』

 蝋燭の火の煙る音が、訪れた沈黙の肌寒さを際立たせた。
 青年は食事を見つめたまま淡々と話し、公はその様子をじっと見つめている。
 スープの湯気が薄くなったころ、伯爵は口を開いた。

「で、その嘆きに対して、お前はなんと答えたのだ?」

「その場はなにも言わなかったが、しかし」シモンは首を軽く振るった。おそらく当時も似たような顔をしていたのだろう、疲労と沈重が同居した、あくまでも冷静なまなざしで。「気候の変化や干ばつによる飢饉は過去数百年のあいだに頻繁に起こっていたことだ。直接、お前の復活にはなんの関係もない」

「そのようなことを」伯爵は眉をひそめた。「万雷を操り、昊天こうてん を暗黒に染めたわたしと対峙して、よくもまだそんなことが言えるな」

 シモンの表情は変わらなかった。伯爵はテーブルに下膊かはくをついて「いいか、シモン」と身を乗り出した。

「飢えや貧困に絶望したものたちがわたしを復活させたわけではない。ここで起こった惨劇がわたしを百年の眠りから蘇らせた。この、7年経った今でも食料が蓄えられている要塞教会で、安寧に暮らしていたものたちの手によって、だ。貧苦にあえぐ衆民が住む町へ容赦なく魔物の群勢を放ったわたしに、なぜ憤怒の目を向けぬ」

「状況を理解していて、お前もよく――」シモンは口をつぐみ、「いや」と言葉を変えた。

「だからお前を討った。気候以上の脅威でわずかに生き残った人々を脅かさぬように、暗黒を払い、この世ならざるものを元いた世界へ帰すために。
 さぁ、食前の祈りの意味はこれで全てだ。もうこのあたりで話を終わろう」

 なにを尋ねようが心底を明かさぬという態度に、伯爵はフンと息をついた。「もとより、お前が勝手に話し始めたことだ」そして背もたれに身を預けた。シモンは小さく笑った。「そのわりには黙って聞いてくれたな。ありがとう」伯爵は腹の底から唸りたくなった。くすぐられるような胃部のぬくみが我慢ならなかったが、肘をついた手で顎を支え、横を向いてその欲求に耐えた。細顎から牙が覗きそうだった。

 秋の瑤台ようだいは彼に見つめられるのを光栄に思うように精一杯に照り映えていた。完全ではないその光を、石造りの白いベンチに座り物思う貴やかな姿の彼に捧げ、さやかな夜気の一部として教会の中庭を美しく、冷たく満たしている。
 竜公は最後に見たときとほんの少しかたちの違う月を眺めながら、青年の告げた日時が正確であることを思い返していた。上弦の月が今では鶏の卵のような丸みを帯びている。この月がどこまで齢を重ねたら自分はふたたび城主としてこの世に君臨できるのだろう。それよりも前に、青年をここに閉じ込めて姿を消した腹心と再会するのはいつになるのだろうか。いや、もっと以前に、考え直さねばならぬ相手が、今ここから見える部屋の奥で眠りに就いている。
 伯爵は青年のいる部屋の窓枠を見つめ、自然とすこし前の光景に心を飛ばしていた。

 食卓での会話はあれ以降も長く続いた。
 控えめな咀嚼音の合間に思わずもれた「うまい」という言葉に、伯爵は横に背けていた顔をもとに戻した。見るとシモンは肉にかじりついていた。食事を用意してくれた彼に気を遣ってか、手づかみで。伯爵はテーブルに肘をついて、その様子を興味深げに見つめた。まるでとうもろこしを食むようにまるまる一羽の肉から口を離さず、丁寧に、順繰りに身をそぎ落としている。味付けに夢中なあまり、目線は斜め下を向いて少し虚ろにも見える。なにか、独特の食べ方だった。城でもこのように一心不乱に食べたのだろうか。

「話を聞いて思ったのだが」

 シモンは目線だけ上げて彼を見た。口まわりはおそらく薄茶色のソースでべったりと汚れている。

「君はその……生まれてからほとんどと言っていいほど、満足にものを食べたことがないのではないか? おそらく、そういうふうに食事を美味しく感じられた経験も少なく見えるが」

 シモンは肉から口を離し、「あぁ」と言った。口まわりをナプキンで拭き、思い出すように視線を脇に逸らす。「そもそも味がわからない時が多かった。あまり気が張り詰めているとなにも味がしなくなって……しかし食べられるだけありがたい。うまいまずいは舌の上だけのことだ」

「いかんなぁ」伯爵は心底気の毒そうに呟いた。「過去の精神的な傷かなにか知らんが、ここ三日間のように追い詰められれば、慣れのように、すぐに食事を摂らなくなるのか? なにも胃に入れていない状態でいきなり肉なぞ食べたらさぞきついだろう。城でもよく保ったな」

「必死なんだ。スープが欲しいなどと言ってられる状況ではない」

「余裕が出てきたようだ」伯爵は静かに眉を開き、言葉をつないだ。「珍しい肉を出したのだからな。どうせなら充分に味わってもらったほうがいい」

「珍しい肉?」シモンは半分残った鳥肉を見た。味付けに使われているソースがなんであるかもわからない。濃厚であり、甘酸っぱくもあり、塩胡椒と煮込み野菜がほどよくとろけた極上のシチューのような茶色いソースだった。「たしかに、鶏とはだいぶ違うな。見た目はローストチキンとよく似ているが、ひとまわりもふたまわりも大きい。鶏に比べて肉筋も多いし、厚みがある」

「七面鳥と言ってな。ここから遙か西の大陸に生息する、東欧にはまだ持ち込まれていない類いの鳥肉だ」

「西の大陸」青年は記憶をたぐるように物思う視線でパンをちぎった。やわらかい小麦のパンなど何年ぶりだろう。「遙か昔に欧州がジャガイモやトマトをそこから持ち帰った場所だろうか」

「そうだ。味付けに使われているのはグレイビーという、肉汁を用いたソースだ。主に祝い事があるような特別な日に食される」

「ふぅん」ちぎったパンを口に入れ、もくもくと噛み、飲み込む。別に祝い事があるわけではない、という冷静を保つための思考の前に、甘みと塩分が絶妙なパンに思わず「うまい」と言葉にしていた。シモンは手の甲で額を押さえた。「どうした」と尋ねる伯爵にシモンは「こんなうまい食事が初めてで……」と抑えた声で答えた。これ以降の料理すべてが物足りなくなる恐れの前に、こんなうまみを感じている自分にひどい罪悪感を覚えていた。味を感じなくなるように無意識に口を閉ざす姿をじっと見つめていた伯爵は、ごまかしのないだけに、ところどころ言葉がつまる辞義を語りかけた。

「別に美食を覚えさせようと誘惑しているわけではない。君は誰に罪悪を感じることなく、このくらいの、いやこれ以上の料理を味わってもいい働きをしてきたんだ。君の話にあったような非常に――その、善良な暮らしをともに営んできたものたちも、立派に使命を果たして、今もつらい境遇のなか、心折れずに役目を全うしようとしている君には、今後も、味はどうあれ、満足な食事を摂ってもらいたいと願っているのではないか? わたしは、そう思うが」

 嘘のない言葉を言うのは簡単だ。自分の首を飛ばした男だが、実際に食生活を充実させてもいいと思っているし、青年が善良と信じ込んでいる村人の気持ちを適当に口にすることにはなんのためらいもない。

 さぁ、このあと彼が感激して涙でも流そうものならぜひとも言ってみたい言葉があるのだ。
『しかし、お前が村を出て行けば残りの者はもう少し長く生きられたのではないか?』と、そんなふうな、自分にとっては小突く程度の内容を。
 公の嗜虐心は魂に根付いたものであり、ふとしたことで顔を出した今の気持ちは蟻を踏みつぶすような軽い流れでしかない。彼の本質は邪悪なのだ。

 伯爵の言葉で少し冷静になったのか、青年は額に当てた手を下ろし、「ありがとう。お前の口からそんな言葉が出るとは意外だった」と答えた。寂しいまなざしがクリームスープの皿に落ち着いている。空気の流れが悪いような重苦しい雰囲気を感じ取って、公はまず青年に「どうした?」と問いかけた。手を差し伸べてから、指先に置かれた手をひねろうと思っていた。青年は言いにくいように言葉を継いだ。

「……素直には、受け取れぬ思いだ。お前の言葉と照らし合わせても、彼らはほんとうには……いや、実は村を訪れた使いのものに、ひとりきりになった経緯を説明したら、町へ行く馬車の中で――まぁ、悪魔城が現れたのだから、非常な不安にかられてのことだったと思うが、こんなふうに、苛立たしげに言われてな。『聖鞭を携えたあなたが早めに町を訪れていたら』と。自分も危険を冒してまでこのような山奥に来る必要はなかったし、村にも、もう少し人が残っていた、はず、ではと……」

 喉の奥で消えないのが不思議なほど、つかえつかえの、口に出すのもためらわれる、ひどい痛みを伴う記憶だった。目の動きは過去に固執するように一点で静止し、網膜はなんの色も収めていない。不自然に張った肩はいままさに呪いの影響を受けているように背筋から皮膚が引きつり、強ばっている。目に見えぬ裂傷が彼をぼろ切れと等しく疲弊させようとその心を鞭で撲っていた。

「だからやはり、お前がせっかく、そう言ってくれても、私はやるべきこともない状態では、ものを食べてもいけないと」

「やめろ」伯爵は厳に言葉を打ち据えた。「胸が悪くなる」

 真実の思いだった。そのように無神経に青年を侮辱する行為に、怒りと、非常な不快感を覚えることに気づいても、動揺するどころか、伯爵は今でもその使いのものに出会うことがあれば、その者の腹を切り裂き、臓物を引きちぎってやりたいという思いにかられていて、それを否む気持ちは露ほども生まれなかった。
 自分がついさきほどまで同じ内容を同じ人物に投げかけようとしていたのを忘れたわけではないが、それ以上に、青年の過去にあったことに対して、胸を潰すような憤りを感じてしまったのだ。自分を棚に上げる行為だろうと知ったことではない、目の前にいる痛ましい姿の青年を放ってはおけなかった。

「だいいち、備蓄食料が少なくなった時点でまともに動けるものは君のほかに数名しかいなかったのだろう。村を出ては他のものを見捨てることになるし、聖鞭を携えて町へ降りたとしても、同じく食料のない状況で、いったい誰が君を受け入れるというのだ。わたしが復活する以前に町へ降りて、いったい誰が! 実際に……」

 わたしが蘇るかどうかもわからない状態で、という言葉を飲み込み、伯爵は青年の後方へ視線を飛ばした。言いにくいことではなく、ある気配に気づいたのだ。シモンはうつむけたまなざしのまま、凝り固まった表情でこう言った。

「彼らもそう思っていてくれればと、今も強く願っている。しかし、実際のところ彼らも、ひとりで食料を口にする私を、あの使者のように腹の底では処理しきれぬ思いで見ていたのではないかと……」

「思いは託されたのではなかったか? ヒノキの実とともに」

 シモンは初めて息を吸い込むように顔を上げた。突然に照らされた月の光のような導きを前に、驚愕のかたちに目を見開いていた。
 木の実、としか言っていないはずだ。微笑とともに託された実がなんであるかなど、実際にその場を見ていない伯爵には知り得ない。料理を用意してくれるように、一輪挿しに花を生けるように、それはつまり。

「彼は、なんと」

 シモンはか細く震える声音で静かに尋ねた。伯爵は青年の右斜め上を見据えてフンと鼻を鳴らした。

「言葉は聞こえん。しかし、君の肩に手を置き、話にあったような微笑を浮かべて、その顔を見つめている。左手に手を添えるようにヒノキの実を置いて――その手に握らせようとしているのか――時々、こちらを見るな。君になにかおかしなことをしたら許さんとばかりに、わたしを睨み付けている」

 シモンには、横を振り仰いでも、なにも見えない。左手にも木の実の感触は伝わらない。しかし、ともに聖鞭の継承者となるべく鍛錬を重ねた者だ。死神の禁固の力の色濃いなか、魔物の虜となるかもしれない魂を魔王の前に現し、その彼を睨み据えるなど、言葉なく思いを託してくれた勇気ある友でしかありえない。その彼が、もう一度、笑ってくれているのだ。ひとりの迷える狩人を助けるために。
 シモンの相貌は震え、涙を流すような兆しを見せたが、先に伯爵が長々としたため息を漏らした。そちらを向くと、公はテーブルに置いた手を組んで、背もたれに身を預けて、あきれたように言葉を続けた。

「わたしもよくよくなめられたものだ。君の右側に立つ金髪の娘は誰だ? 背後に並ぶ壮年の男女は。たくましい若者や、幼い子供たち、巌のような皺を刻んだ年寄りも、天国で再会したのだろう腕に赤子を抱く若い母親も、みな君を囲むように、穏やかに佇んでいる。病気や怪我や、なにより飢えや寒さから解放されて嬉しいだろうに、なぜ、危険を冒してまで――わたしを前にして――その無防備な魂を見せようとするのだ?」

 誰もが理解していたのだ。皆が飢えと渇きに倒れるなか、限りあるわずかな食物を、誰とも分かち合うこともできずに、ひとりで口にしなければならなかった青年の苦しみを。味もしない、うまく飲み込めもしない、胃は潰れて消化もままならぬのに、吐き戻すことも許されぬ状況で、飢えにぽっかりと開いた目を最後のひとりまで棺に収めなければならなかった若者の痛みを。
 立派に使命を果たした狩人の、今も変わらず背をる姿を前にして、どうして自分たちの意志を示さずにいられようか。幸か不幸か、魔王の力を介在すればそれが為せると知ったのだから、恐れはあるが、しかし彼らに迷いはなかった。奇跡のような環境のなか、シモンは生まれ育ったのだった。

「無防備では、ない」眩しい光を受けての反射のように、シモンはひとしずくの涙を落とした。「すでに、守られている。お互いの存在を力にして」

「それは君も、そのなかに含まれているということでいいのか?」

「そうだ。あぁ、もう迷いはしない。影のようにつきまとっていた恐れや罪悪感が根拠のないものとわかったのだ。彼らの安らぎのためにも、私はこれからも、日々の糧と、それを授けてくれた彼らに祈りを捧げる」

 伯爵は小馬鹿にするように鼻で笑った。「食事ひとつに大げさなやつだ。滑稽だぞ」そして一瞬だけ表情をなくし、すぐに席を立った。

「どこへ行く、ヴラド?」

 純朴な、慌てたような問いに伯爵は肩越しに彼を見た。身体に見えた痛ましい緊張もなく、色つやも顔立ちも、すっかり年相応の若さを取り戻していた。

「視界が窮屈だ。これ以上人が増えんうちに外へ行く。ちょうど日の入りだ」

 呼び止める声に耳を傾けず、公は黒いモザイクのような影となって姿を消した。

 このままいくと青年は皆の前で自分に礼を告げるだろう。かつての城主がこの善良な輪の中に身を置いているということを考えもせずに。どんな視線を受けているか、霊魂が見えぬ身というのは気楽でいい。勇気あるものが身の侵害を恐れながらも自分に向ける嫌悪と拒絶のまなざし、それ自体は慣れているし、そもそもそんな目を向けられる前にすべてを苦悶の表情に変えることもできたはずだが、あのように自分の名を呼ばれる今となっては、それすらひどく億劫だ。だいいち、青年が自分に礼を告げれば、厭う視線を向けるもののあいだにいらぬ波紋が立つだろう。青年へのせっかくの慈愛の光が翳ることがあっては――そこまで考えて、伯爵は日没の焼け付くような薄暗さのさなかに立ち尽くした。残照は強く、空気は冷たい。この季節独特の枯弱した大気は今の時間がいちばんやかましく目に映った。風にそよぐ草花の音がもっと静かで控えめなものになるまで、公はまるでかすかな風にも肌に痛みを感じるように、その場を動こうとはしなかった。