忘れじの詩(うた)・7

 秋の夕照が瞳を穿つような厳しい時間に、当然のことながらふたり一緒に山を下りた。要塞の外は空気が冷たく、乾燥していた。町へ着くころには夜になるだろう。用事を済ませ、ふたたび帰り着くころには山間から朝蔭あさかげが覗くのではないか。急とはいえ、半端な時間に出てきてしまったと、シモンは手のひらにあたたかい息をかけた。皓白こうはくのマントが強い風に煽られた。そのあいだ、伯爵は夕から夜に至る、真珠貝の内側のような独特の鮮やかな色味の空を見つめて、なにごとかを念じていた。
 歩き出す前に、シモンは習慣として外敵への警告をこめたクラッキングを打つため聖鞭に手をかけたが、伯爵はそれを制止するように青年の眼前へ軽く手を振り「このまま歩いても問題はない」と伝えた。

「どういうことだ?」
「言ったとおりだ。時間が惜しいのでな、道を妨げるなと連中に伝えた」

 シモンは少し意外そうに先をゆく彼の背中を見つめ「そうか。それは助かる」と言った。それに対し伯爵はなにも言わなかった。道行く者は自分と、歩む姿も気格ある伯爵のふたりだけで、シモンはその後ろ姿に彼の主柄とも呼べる精神を見た。誰のための命令かは彼にしかわからないが、少なくとも何者も鞭で屠られることはなくなったのだ。ただ単に時間が惜しいだけとは思えない風格が、夜闇はおろか夕照さえも彼を讃えるために色射すような伯爵の外套のたなびきに表れていた。

 町へ近づくにつれて伯爵の顔色が不快な色に染まるのは昨日見たとおりだったが、今晩はシモンの顔色も徐々に優れなくなった。昨日とは別の道を通る間、伯爵は水車の音に気を悪くした。もともと水が豊富な土地であるため町中にも粉挽き場が多数ある。元来流れる水を嫌う吸血鬼にこの通りを抜けるのは苦痛だった。なにより、伯爵はもちろんシモンも充分夜目が利くだろうが、今夜は月が雲に遮られていて、視界が良好ではない。坂の上は堀も深く、足を踏み外したらつかみ所のない壁面を爪で掻くことになるだろう。人通りのない夜には季節の関係もあって誰にも発見されないまま冷たい水の中で死に至るかもしれない。伯爵は無意識に青年の足下へ注意深い目を向けながら、行き先を尋ねた。

「今時分に訪ねていって戸を開ける者がいるのか」
「棺桶職人に知り合いがいる。材木も多数取りそろえているから、資金に見合うものがなくても、いくらか都合をつけてくれるだろう」

 慣れている様子だったが、シモンの声はどこか気が重かった。
 なめられぐせがついている彼のことだ、時刻や立場を理由にして目当ての材木も在庫僅少と偽られたあげくいいように高値をふっかけられるのではないか。
 伯爵が青年に対して勝手な蔑みを覚えていると、窓から暖炉のほのかな明かりが見える家に着いた。シモンが足を止めて振り向いた。どうやらここらしい。

「ここで待っていたほうがいいと思う」
「なんだ、お前の知り合いということは窓や出入り口に大蒜の花でも吊してあるのか。今のわたしは怯みもせんぞ」
「そういうわけではないんだが……」

 シモンは戸をノックした。しばらくしてドアが開いた。赤茶色の髪と薄黒くなったひげ面の中年男がシモンを見て一驚し「おお、久しいな」と真っ黄色の歯をのぞかせた。伯爵は盛大に(とても上品に)えずいた。大蒜の花が吊されているのではなく、棺桶職人・トマスの垢の臭いが部屋に充満していた。
 シモンの肩をつかみ挨拶のキスを交わすつもりだったろうトマスの腕の仕草は、最初に両手を広げた時点で青年に大きく後ずさりされ、かわされた。シモンは悪びれもせずにこう言った。

「すまない、道中で魔物を多数屠ってきたんだ。穢れた血がつくといけない」

 堂々とした嘘だった。男の差し出した手は怯み、「おお」だの「あぁ」だのうめいたあと、申し訳なさそうに脇に降ろされた。そのあいだも伯爵のえずきは声量を増して止まることがなかった。聞きかねたシモンが早く用事を済ませようと適当な理由をつけて男にイトスギの材木を売ってくれるよう交渉すると、彼は素直に離れ小屋のかんぬきを開けてくれた。トマスは中に積まれた目的の白木を一櫃いっきぶん外へ運び出し、丁寧に布でくるんだあと、結束ベルトで固定した。白木とはいえ30㎏はある重量を青年が背中に担げることを彼は知っていた。通常どおりの値を受け取り、男は金額をあらためたあと、シモンにこう尋ねた。

「道中に魔物が現れたという話だが、お前もまた、襲われたのか?」

 シモンは少しだけ眉をひそめ、「あぁ」とだけ答えた。その表情に男は不義理を詫びるように注意深い目で彼にこう忠告した。

「気をつけろよ。年が変わるごとに例の噂を信じて不安になる者が多くなった。夜に出歩く者もお前ぐらいだと思うが、闇に乗じて不穏な動きをするのは魔物ばかりではないからな」

 固く心に留めておくという静かな表情でシモンは小さく首肯した。
 いっぽう伯爵は、懸命に夜気を吸い込んで、幾分落ち着きを取り戻したところだった。消毒として男の家ごと燃やし尽くしたい衝動にかられながらも、シモンとトマスの様子を耳にして、徐々に平静な居姿に立ち返っていった。
 トマスと別れ、シモンが材木を肩に担いだ。軽々とした動作だった。長い通りを抜ける途中で、伯爵が「例の噂とはなんだ?」とシモンに尋ねた。彼はいささか口が重い様子で話しはじめた。

「お前を討って何年か経つが、昨日の山道でのことでもわかるとおり、魔物は姿を消すどころか年々勢いを増して凶暴化してきている。近頃は夜になれば人里でも食屍鬼が現れ出て町の者を襲うようになった。徐々に人々の心に不安が広がり、最近になって私に危疑の念が向けられるようになった。ベルモンドは本当に魔王を滅ぼしたのだろうかと……」

 昨日の修道院での出来事も彼への猜疑を煽ったことだろう。誰もいないほうへ喋り、笑いかける英雄の行動を不審に思わぬ者はいない。人々の鎮魂のためとはいえ、惨劇が起こった要塞教会へ長いあいだ務めた末に、彼もとうとう精神に異常をきたしたのではないか、と。まるで魔王の魂に魅入られたように。

 伯爵は有閑の気怠い手つきで顎をなでて「そういう噂が立つのも無理はない」と事もなげに言った。「事実、わたしはこうして今も存在しているし」彼は薄曇りの月夜を見上げた。遠くで犬の吠える声がする。ひやりとした風の吹くなか、音もなく歩く自分と、夜に棺の材料を担ぎ重い足音で進む青年との関係を思い返そうとして、伯爵は鼻からふっと息を抜き、それをやめた。考えるまでもなく、魔王と狩人でしかない。関係など今も昔も変わりなく、決してお互いの精神を了達の域に感じることはない。それなのに、自分たちはこんなところで何をしているのだろう。流れる水の音と人の生活のいやな臭い。慰めとなる月は雲に隠れて、貧しい光景を青年の背中の白木に見る。塞ぎこみそうな気分を払うように、伯爵は前をゆく青年に声をかけた。

「それにしても、ずいぶんと悪びれもせずに嘘をついたな」

 シモンは思わず立ち止まった。横を向き、伯爵が追いつくのを待つ。彼の視線が背中の荷物に向けられているのを見て、青年は先ほどの男とのやりとりに思い至り「あぁ」と仕方ないように返事をした。

「垢の臭いがどうしても苦手なんだ。近くでまともに話せるのは入浴の重要性を知る医者くらいでな……」

 元々風呂に入る習慣が絶えた時代、魔王が復活する数年前には、干ばつによる飢饉や異常な寒冷化がトランシルヴァニア全土を襲い、水はこれまで以上に生命に関わる貴重なものになった。当然、入浴にまわすぶんはなくなった。悪魔城の陥落後、7年のあいだに気候や降水量が標準に戻った今でも、この時期にわざわざ体温を下げてまで身体を清めようという者は少なく、水で濯ぐ対象は手や衣類に限られたが、それらにしても冷水を使うことによる体力の低下を抑えるため必要最低限の回数に抑えられた。仕方のないこととはいえ、町中は不潔さが蔓延していて、息を吸うだけで喉の奥が焼け付くような非衛生な空気が漂っていた。
 体調管理において清潔を保つことの重要性を知り、習慣として沐浴をかかさない青年もこの空気には馴染めずにいて、盛大かつ上品にえずいた伯爵とおなじく、できれば血よりも不快な垢の臭いのする町中には長居をしたくなかったのだった。

「それにしては挨拶を振り払う態度がいささか冷たいように見えたが」

 さらに答えにくいようにシモンはうつむき、眉を下げながらぽそっと呟いた。

「……顔が好みじゃないんだ」

 伯爵は吹き出した。吹き出したあとに驚いたように口元を押さえ「君は、面食いなのか」と、思わずやわらかな口調で聞き直した。

「たぶん、そうなんだろうな……気をつけてはいるんだが、どうも態度に出てしまうようで……本音を隠せずに色々な人を不愉快にさせてきた」

 伯爵は彼の要領の悪さがここでも出たかと、非常に納得したようにうなずいた。むしろ要領が悪かろうが、まわりに流されず、必要とあらば堂々と嘘をつき、自分の欲求をきっちり通すシモンの態度を大変好ましく感じていた。

「まぁ、わからんでもない」そして材木をちらりと見た。「本当にそれで棺を作るのか」

 一般的な木材にしてもあの男が切り崩したものだろうという視線だった。においとは簡単にうつるのだ。嫌な顔をしても無理はない。

「大丈夫だ、離れ小屋にあったものだし……なんなら香草でしばらく炊き込めてから作ろうか」
「いや、しかしだな」
「わかった、じゃあ発火しないように聖水で清めるから。傷口の消毒にも使えるものだ」
「それはそれでわたしにダメージがありそうなんだが」
「今のお前には効かんだろう」
「まぁそうだが」

 軽口の応酬が際限なく続いたころ、突如として伯爵の目が見開かれた。
 視線の先に火柱が立った。
 青年の背後からなんの気配もなく現れた腐乱死体があえぐように魔炎に踊らされた。
 そのころにはシモンも材木が地に激しい音を立てるよりも早くに聖鞭を構えていた。彼は右足を大きく払った。足首に腐敗した手指が絡みついていた。地表に這い出る前に聖水を投げつけ、聖なる炎で土中を燻す。
 総毛立つような忌まわしい音をざわめかせ、夜闇の角々から彷徨うものどもが滑るように彼らのもとへ迫ってきた。
 歩くでも走るでもない、両腕を振り上げる動きも追いつかないまま、幽鬼が変じた突風のようにふたりに群がろうとする。
 横に薙いだ鞭はいちどきに亡者の群れを消滅させ、伯爵がわずかに手をひらめかせれば、放たれた火炎が亡魂をあとかたもなく焼き、虚無に返した。
 幾たびも繰り返す無益なあらがいを表すように、厭わしい肉体は際限なく土中や暗闇からさまよい出て、彼らに襲いかかる。
 一度は土に埋まった者どもが、強ばったはずの手指を動かした。虫酸の走る骨の音があたりに響いた。

「こいつらが噂に立っていた食屍鬼か? わたしの顔も忘れるとはどういうことだ?」
「見ているのか、あの落ちくぼんだ眼窩で」
「言葉どおりに受け取るなと言いたいが、しかし、この状況では軽口を叩きたくなるほど苛立ってくるな」

 いつのまにかふたりは背中合わせに会話をしていた。互いを守るような位置につき、伯爵の配下ではない禍々しい存在を迎え撃つ。自分の眷属ではないにしろ、以前には睨み据えるだけで相手の動きを封じることも可能だったろうが、公はその高貴な手を動かして無礼な奴原を塵に帰さねばならなかった。
 自分の威厳が目の前の汚らわしいものよりも地に落ちた気がした。
 黄土色の歯を剥くそれが何ものかと知りたいとも思わなかった。
 彼はこれまでに誰も見たことがないほど大やかに手を振り上げて、外套を竜の翼のように翻した。
 荘重かつ凶暴な力は竜公にこそふさわしく、また彼にしかその性質は並び立ちえない。

 卑しさも不快さもすべて焼き尽くす至貴の炎があたりに一斉に立ち上がった。
 出現した火柱は家屋に燃え移るよりも早くに下賤なものどもを虚空に消した。
 焚埃たきぼこりすら残らなかった。
 一瞬の殲滅はシモンの目にあるひとつの焼き付きを残した。
 炎の中に嘆く顔が見えたとき、7年前の悪魔城での戦いが光をともないシモンの網膜に断片的に映し出された。

 若い男が佇んでいる。彼はほんの少し手を動かした。うっとおしさをあざ笑うように、こちらを執拗に追尾する火を放つ。天守で竜公に振るわれた怨嗟の顔の炎だ。鞭で叩き落としても逃げ場を無くすように燃え残り、自分をひどく追い詰めた。伯爵は炎傷の激痛にあえぐ自分の姿や、肌を焦がす嫌なにおいを楽しんでいる。現れては消え、何度も同じ炎を放ち、たったひとりの侵入者をじわじわとなぶり殺すつもりが、その表情は次第に焦りの色を見せ始めて……。

 シモンは顎を強く噛みしめていた。「おい」という呼びかけがかかるまで、彼は天守での出来事を思い返していた。青年は我に返り、自分と伯爵の他には誰もいなくなった町中に佇んでいるのに気がついた。地にうなりを上げた炎の柱は人も家屋も燃やすことなく、異質な存在だけを消し去った。まだ夜は続いているのに、亡者の行進は足をなくして、あたりに清浄な風が吹き渡っていた。

「なにをぼうっとしている。状況がわかったなら鞭をしまえ、荷物をかつげ」

 尊大な言い方にも腹は立たなかった。吸血鬼狩人以外に自分に仇なすものがいたのだから、彼の苛立ちも相当なものだったろう。むしろ夜が明けるまで延々と続くかと思われた悪夢のような戦いを収束させた伯爵の力に感謝すべきだろうが、悪竜のごとき人を超越した凶暴さを目の前にして、シモンは黙って鞭を腰に絡げて、その鼻筋から汗を落とした。身体がひどく冷え切っていた。

「しかし奇妙だな。炎の音も鞭の音も聞こえているだろうに、誰も窓や戸口から顔を覗かせようとしないとは」

 伯爵の疑問にシモンは先ほどとは違う寒気を覚えた。恐ろしいとはいえ、確かに誰ひとり様子を伺う気配がない。人が襲われている点から、亡者が現れた際に時や空間が異質なものに変じて、今いる場所が実際の町中と分断されたとは考えにくい。あのようなものに喰い殺された人間も、自分の悲鳴すら人々から見て見ぬ振り、聞かぬ振りをされ、翌朝に発見されたのだろうか。
 人々のあいだで、なにかがおかしく変わり始めていた。

 シモンは急いで白木の束をかつぎ、耳を痛める沈黙から立ち去ろうとした。
 唐突に、皮膚が焼けただれるような痛みが背筋に走った。立っていられないほどのめまいがした。水面の波紋のように激しく揺らぐ光景となにも聞こえなくなる耳の窄まり。倒れそうになる前後不覚の神経が、胸から押される衝撃で、霧が晴れた湖のような冴えを取り戻した。

 そのときには地に足がなく、シモンはすぐそばの深く高く築かれた水堀に転落していた。

 暗闇のなかに走り去ろうとする人影と、青年が堀に落ちる寸前になにごとかを罵るために開かれただろういびつにわぐんだ口元が見えた。激しい水音がした。
 季節は冬に近く、壁に手をかける出っ張りもない。月は雲に隠れていて、深く静かに流れる冷水は骸の眼窩のように底が見えない。

 落水と同時に心臓を死神の手に掴まれる状況で、シモンは自分の手を掴む伯爵の顔を見上げていた。

 青年を強く見つめる彼の瞳は紅くもなく、金色でもなく、黒い気格ある色のまま、ある必死さを滲ませていた。整った相貌になりふりかまわない皺を寄せて、細顎をきつく噛みしめながら、シモンではなく、このような状況を招いたあらゆるものを睨んでいた。膝をつくどころではなく、竜公は身体を地に伏せて、かつて自分を討った吸血鬼狩人を助けるために、その白い腕を伸ばしていた。

 シモンの体表に浮き出た汗はすべてきれいに流れ落ちた。雨が止んだあとの、晴れ渡る空を見上げるような顔だった。
 イトスギの木が水しぶきの残り音とともに下方へ流れて消えていった。

 伯爵はその細身の身体のどこにそんな力があるのかという勢いで、慎重にシモンの身を引き上げた。
 掴んでいる右腕をこれ以上痛めぬよう、肩に手が届くようになればもう片方の腕を使い、青年の脇に差し入れ、両手で彼の背筋を抱き上げる。
 堀際に膝をかけたシモンが、自身の力で伯爵の膝元に這い上がっても、彼は背中を抱く腕を離さなかった。
 青年に呆然としたまなざしで自分の腕を見つめられて、伯爵はようやく弾かれたように身を離した。そのまま外套を翻して立ちあがり、腕を払う。
 鼻から深く息を抜く彼の肩の動きを見て、シモンはゆっくりと立ち上がりながら「ありがとう、ヴラド」と静かに声をかけた。
「やはり力があるのだな」――吸血鬼は、という続き言葉は心にも浮かばなかった。堀際で掴まれていた自分の右手首を見つめて、衝撃で痛めたのとは違う熱さに、芯から痺れるとまどいを覚えていた。
 堀のほとりに佇むふたりを包むように、深く流れゆく闇色の水辺は今も清らかな音を沸き立たせていた。
 やがて青年は白い板木が影も形もなくなった下流を寂しく見つめて「すまない、また買い直さねばならないな」と彼に告げた。

「いらん」

 伯爵の即答は不愉快きわまりないという色だった。しかし、という言葉を遮り、公は地をなめる炎のような目つきで青年を睨んだ。

「垢の臭いも汚らわしい化け物も、それよりも卑しい恩知らずの人間どもも、もううんざりだ。二度と町に降りたくはない」

 そう言い捨てて、彼は足音を立てられないことにも苛立ちを覚えているような力で地面を踏み歩いた。シモンは数歩遅れてついていった。
 町を抜けて山道にさしかかるころ、伯爵は空を遠く見上げた。
 夜が明けようとしていた。紺青に白い紗がかかったような薄明かりのもやい空にまるで幻のごとく透けて在る弓張り月が浮かんでいた。
 幻想的な風景も彼の心を鎮めることはできなかった。

「きれいだな」

 いつのまにか隣に並んだ青年が同じ月を見ていた。
 豊かな金色の毛髪が風に吹かれてこれ以上はないという極上の波を打ち、頬付へ影の落ちるあらゆる深みに淡い光素エーテルをのせている。
 彼が積んだ敬虔と美徳を祝福し、真秀まほを歓ぶ神に奪われてもおかしくはない。
 横顔を霞ませるその白い息すら邪魔に思えるほど、いま彼を成しているすべてが美しかった。
 陶然となる伯爵の心の動きはそのまま彼に対する不満となって現れた。
 公は息を吐くのも忘れ、シモンに向かって静かな怒りをぶつけていた。

「人の気配にも気づかぬとはどういうことだ。やすやすと堀へ押される体躯の軽さは。踏みとどまれない力のなさは」

 怒りは自分に対しても向けられていた。人々の噂を知りながら夜闇を歩く青年と軽口を交わし、腹立ちにまかせて無礼なものどもに火を放った不注意を、なにより彼自身も青年の不調に気を取られて、猜疑に煽られた人間の魔手はおろか、その接近すら感知できなかったことを。
 シモンは「言い訳になるだろうが」と前置きし、とうに伯爵も知っているだろうことを話し始めた。突然に背中に激痛が走り、同時に五感がひどく弱ること。気力のないときは正体を失い、そのまま倒れ込んでしまうこと。どれも伯爵がその場で見ていたことだった。

「以前お前が『よく毎晩眠りにつけるな』と言っていたが、あれは睡眠ではなく、ほとんどが呪いによって唐突にもたらされる意識の喪失だ。聖鞭を手にするような状況では常に気を張っているからか――または一族に対する加護によるものかは知らないが――背中の呪力もなりを鎮めているが、いちど精神に揺らぎが生じると……」

「一般人にぶつかられた程度で均衡を崩して、木材の重みで堀に転落するほど弱るというのか」

 棘のある言い方にも眉をひそめることなく、シモンはうなずいた。相手のどうしようもないこころうちを理解してのことだった。それでも彼はなおも問い正した。

「もういちど聞くぞ。そこまで苦しんでいるのに、なぜわたしを憎まない」

「お前ではないのだろう、呪いをかけたのは」

 心正しい若者が顔を上げた。清い水で常に濯がれているような深く澄んだまなざしが竜公を見つめた。彼は沈黙し、なぜという目で見つめ返した。シモンは答えた。

「お前の炎を見て思い出した。たしかにあの天守での戦いで私は背中に傷を負わなかった。激しい紫紺の稲妻は背骨を砕くような痛みを走らせたが、それは地に抜け、痕に残ることはなかった。記憶の違いは、まだ説明がつかないが……」

 心が揺らぐことがないように、伯爵は青年の意思の強さを笑おうとした。
 しかし、できなかった。
 見下ろしているはずの光景がなぜこうも胸に迫るのだろう。

「それだけでよく呪いの主がわたしではないと言い切れるな」

 彼は口髭一本動かさぬ静かな声音で聞き返した。
 シモンはその問にも堂々としていた。

「お前はさっき私を助けてくれただろう」
「死なれては困るからな」
「それ以上に、なにか、必死なものを感じたんだ。お前の手があんなに熱いものだとは思わなかった」

 伯爵は背を向けた。その場から動こうともせず、長衣の襟に口元を埋めた。唇を噛みしめているのを悟られたくなかった。なにを耐えているのか、自分でもわからなかった。
 シモンは自分の右手を見つめて、ゆっくりと手を握り、また力をゆるめた。
 そしてなにも進展しなかったあるひとつの気がかりを彼に尋ねた。

「しかし、お前の休む場所を作れなかったな。元からある棺を作り替えていいものならお前のサイズに合わせられるのだが」

「どうしてそこまでしてわたしを休ませようとする」

「満足に眠れないつらさはおそらく、誰よりも私が知っている。それなのに、私の動向が気になって眠れないというのは気の毒に思った」

「シモン」伯爵は振り向いた。眩しい朝日に照らされているそのまなざしは、はっきりと青年を見据えて、深い誠啓と感謝の念をたたえていた。

「君の思いはよくわかった。君を信用する。棺を用意させるためとはいえ、君を危険な目に遭わせてすまなかった」

 青年の口から小さく息がこぼれた。竜公の言葉は彼の心にまっすぐに響いた。
 シモンの静愕の表情は光に感動する詩人のような顔だった。
 伯爵は先をゆこうというように手指で優雅に道を示し、元来た道を歩き始めた。

 もみの木の梢から鳥の鳴き声がする。山林のあちこちから音が蘇っている。秋風はいつもよりあたたかく吹いて、朝靄を下方の町並みへと消していく。
 これまでにも、そしておそらくこれからも、決して目にすることはかなわない穏やかな朝の兆しを受ける主の姿を、森の奥に隠れ潜む魔物たちも、そっとその姿を見つめたく思っているのではないか。
 あとをゆくシモンが彼とともに歩む道すがら、「ヴラド」と、なんとなくわかっていたような口調であることを尋ねた。

「ほんとうは魔法で出せるのだろう? 自分に見合った立派な棺を」
「そうと知っていてわたしの意地に付き合ったか」
「結果として得られるものが多かった。あと、もうひとつ――ヴラド、ほんとうはベッドでも寝られるんじゃないか?」
「さて――覚えはないが、ものが良ければ横たわる気になるかもしれんな」

 しかし心身を休ませるにはやはり棺がいいんだという声が暁光まばゆい岩肌に響いた。どちらの胸も明け方の空気によくなじむ爽やかな気分だった。