忘れじの詩(うた)・18

 雨が降っていた。
 風花はその結晶を保てず、夕暮れには山脈一帯へ激しい水音を散らす晩秋の雨に変わった。
 閉ざされた要塞の、ある一室で、雨音にまぎれるように熱っぽい息を交じり合わせるふたつの影があった。

 青年の体は甘みと匂いがあった。
 鍛え上げられた肉体は鷲の羽根や竜の鱗を思わせる。誇り高く、力強く、美しい。身にゆきわたる血潮のひとつひとつが流麗であり、それら生命をはらむ器は厚く、尊い。しかし肌はやわらかで、触れるものをあたたかく包む柔軟な潤みに満ちていた。

 肩や胸元を唇で愛撫する際、伯爵の血への欲求は、青年を傷つけまいとするいたわりで制された。腿をさすり、起伏ある腹部のひとつひとつに音を立てて口づけると、彼は身をよじってため息を漏らした。情愛のままに、秘めやかな口淫を施すと、シモンは泣いてそれに応えた。床には不嗜に咬み切った長い爪が散らばっていた。

「君の体はあたたかいな」

 中心に身を沈みこませ、しずかに息を抜いた際に、伯爵からそんな言葉が漏れた。「子供のようだ」青年の口元や顎にキスを流し、苦痛をやわらげようとしたが、唇の愛撫が首筋に移ると、緊張と官能が同時にいや増し、それも逆効果に終わった。嬌声を上げて、彼は果てた。内できつく締めあげられ、公もまた吐精した。

「すまない」泣き声が震えていた。なんのための謝罪か、シモンは切ない息をついて公の両肩を柔く抱いた。「こんなにやさしくされたのは、初めてで」

 気持ちよくて、と呟いて、そこで恥ずかしさを思い出したように目線を下げた。頬が赤い。「――あ」

 まだ内にある繋がりからふたたび圧がかかった。とまどいながら顔を見ると、彼はいつもの憮然とした気難しい表情をして、興奮を隠そうとしていた。無理だった。

「お互いさまだ」

 そして行為を再開した。
 侵しがたいもの同士が、互いに肌を晒し、胸や脚を密接させて、快楽を享受している。顔も声も誰にも見せたことがない表情だ。欲望に忠実で、あられもない。
 息も荒く呼び声を絡めて、相手の指や体に性器をくくませると、これまでの苦渋が精という単純なものに変わって、腹や直腸に解放された。

 雨音が遠く、静かになる。吐息や熱が密になって、部屋にこもった。
 しばらくすると、どちらからともなく、肩へ腕がまわる。脚を抱える。腰が動く。
 長い時を、ふたりは甘く、深く、愛し合った。

「お前の体は月の光が射す遺跡のようだ。冴え冴えとした空気は白と青にわかれているのに、それらは数多ある石造りの都のなかで、触れがたい闇の色へと調和している。古の大地に身を横たえて、ひやりとした感触に心澄ませば、狼の足音ひとつ聞こえない、そんな、特別な静けさに包んでくれる――」

 公の腕に抱かれながら、シモンはその細身ながらもしっかりとした伯爵の胸に頬を寄せていた。ひやりとしたが、まだかすかに自分の熱が残っていた。シモンは薄く目を開けた。脈のない胸元を抜けて、代わりのような雨音がざんざんと聞こえた。

「お前を弔ったときも、こんな雨が降っていたな」

 復活の前日にもたしか、こんな雨が降っていたから、よく覚えているんだ――寝入りそうな声だった。公は青年の金色の髪を梳いて、「眠るといい」と額にキスをした。「無理をさせた」

 ん、と一言残し、シモンは目を閉じた。この7年の間で、いちばん安らいでいる表情だった。

 明日になったら、また中庭を散歩しよう。雨がやんでいなければ、屋内で穏やかに午後を過ごそう。その時に、彼が一緒にいてくれればきっと楽しいだろうな。お互いに色々な話をして、それから……。

 うとうとと息が整う寸前、唐突に、背中に焼け付くような一閃が走った。表皮がこわばり、目に火花が散った。緊張は伯爵にも伝わった。身をよじって歯を食いしばる青年を、公はきつく抱きしめた。

「シモン」

 呪いか、と尋ねるまでもなく、身に充溢する力で、彼を蝕む正体がわかった。
 これまでとは明らかに違う、生々しい欲望の渦が、青年の背後に見えた。音がはっきりと聞こえるのだ。
 聖鞭を担う一族にとってこれ以上の屈辱はない、よこしまな一撃を受ける音が、背中から。

 なぜこんな目に遭わねばならぬのか、怒りを通り越した脱力感と焦燥とが青年の肌を通じて伯爵の心をも汚していく。
 誰ともわからぬ相手に7年ものあいだ責め抜かれた傷所が声なき叫びを上げていた。痛ましい唇の向こうに、塩を手に内へ捻じ入るような残酷な呪力がうごめいていた。

 ぐぅ、とシモンの喉から絞るような声が漏れた。
 見られたくないものを、知られたくないものを、こんな時に。
 青年は痛みよりも悔しさにまかせて歯をかんだ。そして悟った。このあと待ち受ける汚らわしい行為を思いだし、シモンは目を見開いた。背中を抱き、呪いを弾こうと何度も力を放出している伯爵の肩にゆるゆるとした涙が流れた。肩口からのぞく青年の目は、息を飲む静寂に満ちていた。諦観ではなく、相手を思うためだけの、十字を見つめるような目だった。

「ヴラド、頼みがある」

 これ以上、力を尽くさなくていいというふうに、彼は公の腕を優しく解いた。
 その力と同じく、彼の表情も優しかった。

「これから起こることは、間近で見るにはひどく汚らわしいものだから、今のお前にはきっと耐えられぬことだと思う。もちろん、私も同じことだが、それでも私は自分で命を断つことはできぬ。今までどおりに、終わるのを待つしかない。だから」

 伯爵は青年の言葉を最後まで聞き入れなかった。解かれた腕をもう一度背中へまわし、力をこめる。呪力が弾かれぬとわかればそれ以上の魔力を行使し、鞭の音を止ませようとする。効果がないとわかっても、その紅い目は血よりも赤く彩りを失わずに、新たな力を放出した。
 涙が止まらなかった。シモンは彼の首筋に顔を埋め、無理だと呟いた。

「お前の存在がなくなる。やめてくれ」

 その思いを無視して、公は鞭の一閃に震える彼の体を強く抱いた。決して諦めなかった。牙を剥き出し、気炎のような息を吐いても――伝説にある吸血鬼の形相になっても――彼の力は潰えなかった。

「ヴラド」

 嘆願の声は震えていた。名残惜しく、もういちど名を呼んで、額を首筋にこすりつける。それから、シモンはきっぱりと言った。

「――だから、ここを出ていってくれ。なにもかも忘れて、これから先も、決して人の世に関わるな」

 呪われるようになった原因はいまだになにもわからないが、おそらく、きっと、くだらない、些細なことが理由なのだ。シモンはそれがわかっていた。懇願する声はそのまま公の貴さを讃えるものだった。

(あのように美しく詩を誦んじるお前が、このような些末なことに心を乱されてはならぬのだ)

「限界まであがくつもりだが、もしも――もしも、私の魂がお前に捧げられたなら、決してそれを受け取るな。汚らわしいものを寄越すなと、祈りを捧げた連中に一瞥をくれてやれ。そうしてお前が眠りにつけば、お前の伝説にも終止符がうたれる。聖鞭も一族も役目が終わる――なに、私もいままで孤独に過ごしてきたのだ。さまよう魂になったところで一体なんの変わりがあるものか」

 いつのまにか笑みがこぼれていた。
 背に受ける冷たい痛みと炎のような至高の魔力に――それ以上の胸に迫るなにかに、彼は笑いながら、泣いていた。

「お前の伝説を迷信に変えよう。きっとできる。そのために祈る。お前の安らぎを心から、祈っている」

 竜公はシモンを引き剥がすようにして両肩を掴んだ。そして青年の顔をしっかりと見つめて、こう言った。

「自分を笑うものの頼みなど、わたしは決して聞き入れぬ」

 固いくちづけが落とされた。
 互いに目をつぶり、青年の涙の味を分けあった。
 竜公の体は光に射刺せられるように、弾けて消えた。それをシモンが見ることはなかった。強大な呪いはその神秘にかき消され、彼の背中から離れた。同時に、とほうもない衝撃を受けて、シモンは昏倒した。

 あとには土を削ぐ勢いの車軸の雨が、屋根を伝い、部屋にその音を響かせていた。
 雷鳴が轟いた。
 大鎌に虚無を映す、死神の嘆きのような光だった。