忘れじの詩(うた)・12

 20本目のナイフが白地の壁に突き刺さった。刃自体で的を描くように密接した円となって、それらは間断なく壁に与えられる小刀の衝撃に震えている。標的に当たるまで威力の衰えぬそれは、投射位置からナイフの到達距離までおよそ400メートルは離れていた。車輪型の要塞の端から端、軸の部分のはじめからおわりまで、中庭を挟み、青年は遮るものがなにもない一番遠い場所からあやまたず的を射っている。
 狩人の腕は弩弓かなにかで出来ているのだろうか――伯爵は狩人の得体の知れぬ視力にも思いを馳せながら声をかけた。

「仮想の敵でも頭にあるのかね」

 ナイフを投げる手が止まった。狙い澄ます目つきから一転、声のしたほうに振り向いたシモンの顔は朴訥かつ順良なまごつきがあった。

「さきほどは、すまなかった」

 まごつきが伯爵にうつった。芯から飾り気のない申し訳なさそうな表情で「昨夜の食卓での光景を思い出した。自分の命を繋いでくれた彼らのことを忘れて、むなしい諦観を語りすぎた。お前が怒るのも無理はない」と、シモンは公に向かい謝罪した。

「そんなことは」どうでもいい、とは言えなかった。謝罪の内容が投げナイフのように的をすっかり射ていたのだから、伯爵は斜を向かい、言葉を切った。
 これで片手で口元を押さえれば当惑どころかしどろもどろという様相になるではないか。話を変えようと伯爵は「質問に答えたまえ」と普段の口調に立ち直った。シモンは少し首を傾げ、「とくに、誰も」と答えた。

「そうか?」
「そうだ」

 伯爵が睥睨による念をこめて遠く離れた場所を脳裏に映すと、壁に刺さったナイフはシモンの頭部よりやや高めに容赦なく突き立てられていた。伯爵は自身の首とぴったり同軸にあるその的と青年を見比べて「君の謝罪を素直に受け入れられない理由がわかった」と、高貴な声で呟いた。シモンは納得も理解もいっていない様子で眉を下げた。困惑している。気づいていないなと、伯爵はかたく瞳をとじて両腕を組みたい気持ちになった。

「君の父親の名は?」

 唐突な質問だった。シモンは壁に向き直り、ナイフを投げた。刃と刃の合間に新たな短刀が突き刺さった。一本も柄に弾かれたり、壁と抵触する角度を見誤ったりしていない。代々受け継がれている技術だろうが、どこか見覚えのある投げ方なのだ。青年の話に時折出てくる父親の名に興味をもったのは伯爵にとってはごく自然な流れだった。

「ナイフを投げるのを見て君の話に語られたある人物を思い出してな。祖父の技術によく似ているが、それを教えたであろう君の父親の名に興味がある」

「……以前に話したとおり、ベルモンドの血はトランシルヴァニア全土に広く渡っている。10代も遡れば祖先は2000人以上になるのだから、お前の知る先祖の名はごく少数ということになるな」

 質問を理解していないのではなく、意図的に話の筋をずらしている。玉座があれば有閑の気怠い表情のままゆっくりと肘掛けにもたれて聞いてみたい内容だった。青年の答えたくない様子を察して、伯爵は話の逸れた先に乗じることにした。

「君が知っている祖先の名は?」

「それは大勢いるが、ラルフより以前は記録もないからな」伯爵が壁際に立ったらちょうど鎖骨にあたるであろう部分にナイフが突き立った。「実在したかどうかもわからない祖先の名を伝え聞いたこともあるが、少々信じられん内容でもあるし」

「たとえば、どんな?」

「いちばんはじめにお前と対峙したのが我が一族のうら若きひとりの女性だというのはまことか?」

「さて」いつのまにか伯爵が問われる側に立っていた。気にも留めず、彼は物憂げな態度で答えた。「そのようなことがあったかどうかも」

「それとはまた別に、開祖とされる人物にしても謎だらけだ」ナイフが肩に、腕に刺さっていく。「友とのあいだに闇に通じるような事件があってお前との因縁が生まれたと」

「曖昧だな」

「だから尋ねている」シモンの投げたナイフは壁の心臓を深く突いた。「覚えていないというのであれば無理には尋ねん。しかし聖鞭それ自体に意思があるように、ときおり、お前との会話の最中に鞭が騒ぐのだ。使い手である狩人の意思よりも遙かに強く」

「邪悪を討ちたいのだろうさ」

「そうではない」シモンは壁から向き直り、ひたむきという言葉がぴったりくる表情で彼を見つめた。「なにか、それ以上のものだ。聖鞭の使い手を通じてお前の今の様子を知りたいというような――案じているような思いだ」

 もうすぐ日が暮れる。焦燥と無為が支配する空間で、ふたりのあいだに変化するものを、互いの意識に認められただろうか。青年は尋ねた。

「過去に、なにがあった?」

 伯爵は目の前の青年と記憶を見つめるように薄く目を細めた。

「覚えていない」不感無覚の身様であった。彼の心は揺り動かない。「だいいち、悲劇や闇に通じるような事件があったならもはやそのものを友とは呼ばぬ。詳細な関係もわからず討つべき相手を案じるなど、お前の言い方や解釈はどこかおかしい」

「そうは思わん」青年の純粋無雑さは光を受ける泉のごとく清らかで、あたたかな、内からわき出る稀なるものだった。「なにがあったとしても、そうやすやすと切り捨てられるようなものを友とは呼ばない。身命を尽くし、相手のために動く関係をこそ友と言うのではないか」

 その稀少さを愛おしむように伯爵はますます目を細めた。

「昨夜の光景を見ていなければ利いた風な口をと言いたいところだが」

 語る言葉はやわらかく、しかし徐々に聞くものの心を暗い沼で埋めようと、見るも厭わしい汚泥を青年の内々に落としていく。

「しかし、そのふたりは君の思うような友情の定義に当てはまらなかったのだ。その友の闇の堕し方はおよそ人の愚かさのなかで最も短絡的で、最も救いようのないものだった。妻に先立たれた男が神を呪い、呪いながらもそのまま黙って死んでいればいいものを、その男は死後の世界で最愛の女性に出逢う可能性を潰してでも神を呪い続けると、たったそれだけのことで不死者となったのだ。友を騙し、その友の許嫁を利用し――吸血鬼の餌食となるのを見殺しにしたようなものだった――果てには一代で終わらぬ血の因業を友に課した。ふたりに関わりのない、逆恨みで滅ぼされかねない人類にとっては全勢力をもってしても抹殺したい存在となったのだ。そのような愚かしい、身勝手な、憎むべき道に引きずり込んだ男を君はまだ友と呼べるのかね」

「おぞましい話だ」伯爵の冷酷な、人を小馬鹿にする口調に、青年は肌を逆撫でされる不快さから身構えるように後じさった。「すべてを見知っていたふうに話すのだな。自分のことであればそのように冷静には語れまいが、しかし、まるで自分に重ねているかのような呪詛と軽蔑、愚昧への憎悪が感じられる」

 一瞬、伯爵は表情にも出さずに青年の言葉について沈思した。
 自分に――自分ではないはずだ。なぜこのような記憶があるのかわからぬが、このような汚らわしい、唾棄すべき男が自分であるはずがない。友の許嫁や老いた錬金術師を利用し、穢れたままの女性の魂を禁忌の術に取り込ませたなど……。
 思考に闇がまとわりついたのを気取られぬように、もしくはそれ以上思い出すのを拒むように、彼はある表情で混沌とした記憶から立ち返った。

「そう見えたかね」なんと冷たく笑うのだろう、彼は彼にしかできない息づかいで、目配りで、青年の在り様を否定した。「わたしは人の愚かしさを嘲笑していたのだよ。愚昧、そして愚昧への憎悪、これほどわたしの心を愉快にさせるものはないのだからな」

 これでわかっただろうと伯爵は青年を無下に見据えた。「聖鞭がなんと騒ごうと、わたしを案じるようなことは決してない。軽々しくこちらへ繰り寄ろうとするのはやめたまえ」

 青年はうつむいた。鼻であしらう態度にうつむいたのではなく、冷眼から目を背けるのでもなく、自身の心を見つめるように、手を握りしめた。

「では、私か?」ためらい、しかし確かめるように彼は呟いた。「このざわめきは私の心を映しているのか? お前を案じているのは」

「やめたまえ」伯爵はもう一度、同じ言葉をまるで違う感情から口にした。「自分がなにを言っているのかわかっているのか」

「そう、なのだが」力の疎通が阻まれた今の聖鞭もまた、血潮のようなさざめきがかすかにあり。「自分だったらと、先ほどのお前の話を聞いて思った。そのような立場におかれても、自分だったら、やはり、相手を放ってはおけぬ」

 鳴呼――竜公は瞳をとじた。彼の清冽な心は泥を沈ませ、深みある潤いは掻きますものを底まで寄せずに、ふたたび水を濁すことがない。
 真実か? 嘆きを前に彼は復讐を果たさぬのか?
 心底にある彼の信仰とは、祈りとはいったい。

「友を――相手を誤った道から正道に戻すため動こうというのならば、正道とはなにかという問いを無視して君に尋ねたいことがある。もはや友を救うことは不可能だとわかったとき、君は闇に堕ちた相手を前にどう動く?」

 シモンはしばらくのあいだ口を開こうとしなかった。よくよく考え、「祖先もきっと、同じことを」と呟き、そして固く言葉を慎んだ。同等の悲劇に見舞われたこともない身で勝手なことは言えなかった。
 それを見て、伯爵は青年の誠実さを改めて思い知った。

「答えられぬか」

 ただ、青年は最後まで相手の名を呼ぶのだろう。
 切り捨てることなく、放ってもおかず、目の前に対峙して。

「まぁ、そうだろう。無理には尋ねん」

 酷な話だ。彼はそう呟き、山間に没する斜陽を眺めた。