忘れじの詩(うた)

忘れじの詩(うた)・20

 大地に狩人の血と汗の滲みる時は、あれから五日が経っていた。 町をゆけば通りの角に身をひそめることが増えた。後をつける不審な影が多くなったのだ。懐にはおそらく刃物を忍ばせている、憎悪の足並み。暗闇に同化し、気配を断つシモンは、時おり天を見上…

忘れじの詩(うた)・19

 要塞は朝もやが立ちこめていた。 目覚めると体がひどく冷たかった。すぐに起きあがれるほど身が軽く、痛みはなにも残っていない。胸の軽さが気になった。手首で脈拍を計ると、どうもずいぶんと弱っている。無意識のうちに首筋を触った。穴は開いていなかっ…

忘れじの詩(うた)・18

 雨が降っていた。 風花はその結晶を保てず、夕暮れには山脈一帯へ激しい水音を散らす晩秋の雨に変わった。 閉ざされた要塞の、ある一室で、雨音にまぎれるように熱っぽい息を交じり合わせるふたつの影があった。 青年の体は甘みと匂いがあった。 鍛え上…

忘れじの詩(うた)・17

 事の顛末を別の場所で、別の悪魔が見ていた。最上の力を象徴する大角はくるぶしまでさかしまに事を回(めぐ)らし、金色の目は邪悪にものを見晴るかす。豪腕傲気と黒い脅威を膚に鎧としてまとわせたような厚い身体をもつ悪魔が、今はひとりの人間のために動…

忘れじの詩(うた)・16

 無数のしゃれこうべの眼窩にろうそくの炎が燃えている。 炎の清らかさと人の尊厳を汚す燭台の明かりが、地の底の牢獄を照らしていた。それとは別に、大きさはたいまつの明かりを思わせる炎が、胴輪のような鉄枷に繋がれていた。自身の所有者である悪鬼ども…

忘れじの詩(うた)・15

 今朝はよく晴れ渡り、陽の光は要塞教会の狂った大気をいつも以上に初夏の輝きに満たしていた。 庭の中井戸で水浴びを済ませ、整髪し、髭をあたると、青年はそのまま洗濯に取りかかった。 青年に救われた霊魂たちは、この日、雑事を手伝おうとしなかった。…

忘れじの詩(うた)・14

 蝋燭に火が灯った。シモンは芯の太いそれらに順々に火をうつし、聖堂を厳かな明かりに満たしていく。祈りを捧げるに充分な夜燭(やしょく)で主祭壇や聖杯のかたちが橙色に照らされた。青年は跪き、頭の高さを聖櫃に合わせる。ここで命を失ったものたちの代…

忘れじの詩(うた)・13

 食堂にて。 食後の穏やかさと気のゆるみが伯爵にこんな話をさせた。「君は雑事が似合わんな」 水差しからコップに水を注いでいるシモンに向かい、伯爵は呆れたように肘をついた。「ひとりの生活が長かったのだろうし、刃先や竈を扱う手際も段取りもいいが…

忘れじの詩(うた)・12

 20本目のナイフが白地の壁に突き刺さった。刃自体で的を描くように密接した円となって、それらは間断なく壁に与えられる小刀の衝撃に震えている。標的に当たるまで威力の衰えぬそれは、投射位置からナイフの到達距離までおよそ400メートルは離れていた…

忘れじの詩(うた)・11

 疲れのまま眠り、翌朝、陽光を額に感じていつもどおりに眼を開いてしまった。しかし痛みはまったくなく、少し眩しさを強く感じられる程度で、傷を負ったことなど、血涙の跡がのこる乾燥した頬の引きつりと枕辺の染みでしか実感できなかった。首から肩にかけ…

忘れじの詩(うた)・10

 月だ。 海辺の洞窟に月明かりが差し込めば、きっとこのような氷碧の光があたりを照らし、絶え間ない波影の動きをゆらゆらと岩肌に映し出すのだろう。 夜の草地にくっきりと浮かび上がる自分の短い影を見て、シモンは空を見上げた。丸みを帯びた月の光が周…

忘れじの詩(うた)・9

 異質な空間に死神の力が加わったからか、亡魂による給仕の気配はなく、食卓にはなんの準備もされていなかった。かえってそれで安心したように、シモンは厨房へ向かった。真っ白なテーブルクロスを見た伯爵はひら、と手を振り、あたたかいクリームスープやや…