「筑土町へ行くのですか」
壁に空いた穴から声が通った。
黒の学生服を着込んだ少年が白い壁面に身を寄せると、続いて水鏡のようにきらめく少女の声音が聞こえてきた。
月と兎、それに萩の絵を描いたら丁度良いだろう、小さな飾り皿のような大きさの穴から隣の様子が伺えた。
少女がきれいに足を揃えている。立ち姿は湖に住まう鳥のようだ。
もっとよく見ようと彼は穴に顔を近づけて、その長いまつげと美しい瞳をまたたかせた。
少女は海老茶色の学制服を着ていた。少年は自分と年が近いのだろうと思って、長く揃った手指を穴にかけた。
彼女は長い黒髪を窓辺にさらさらと流しながら誰かと話をしていた。
髪の毛が風に吹かれたとき、少年は思わず眉をひそめた。
部屋を訪れていたのは色鮮やかな揚羽蝶だった。
一羽の揚羽蝶に歌謳うように囁く少女の吐息が、香りの強い花からとれる誘引の毒に思えたのだ。
「秋桜、竜胆、野菊に桔梗、今頃は金木犀があたたかい匂いを風に運ばせているのでしょう?
もしも逢えたら伝えてほしいの、その町に住む人に。
薄紅色の秋桜が好きな子なのよ」
穴の奥から自身の黒瞳に棘を刺されたと思った。
見つめられている気配を察知してか、少女が言葉をとめて穴の向こうを振り向いたのだ。
同じ目があった。
鋭く静かなまなざしの少女はかたちのよい唇を動かした。
「こんにちは、覗き見る方」
「――僕は」
「男性かしら、あまりにこちらを覗き込んでいるものだから区別がつかなくって」
彼は壁から少し身を離した。
胸の上が穴から覗くようになると、少女は初めて表情をやわらげ、微笑んだ。
「こんにちは、書生さん」
「こんにちは。
――君はここでなにをしているの」
「ご覧のとおり、自由とは裏腹の生活をしているわ」
「誰に捕まったの?」
「心当たりが多すぎてよくわからないの」
「僕と同じだ。
蝶に話しかけていたね、まだそこにいるのかい」
「えぇ、羽根はぴくりとも動かないわ」
「帝都へ――筑土町へ行くって?」
「そうよ」
「僕もそこに住む人に伝えてほしいことがあるんだ。金木犀が好きな人だから、もしかしたら揚羽蝶に目が止まるかもしれない」
「女性なら目が惹かれる美しさですものね」
「男だよ」
「あら、そう」
彼女はきょとんとして、ついで興味を引かれたように少年の元へ、コツコツとかかとを鳴らして歩んでいった。
手折りたくなるような細くなめらかな指先を穴にかける。少年はこんなにきれいな爪は見たことがないと思った。
「素敵な方?」
「ここに来るまでは帝都中を見てきたけどね。同じ年代であれだけ洒落た人は見たことがないよ」
黒髪の少女はふふっと瞳を伏せて笑った。
「話し方が恋人のようだわ」
「そう……そういうものじゃないけれど、そんなものよりもっといいものになれたらって、いつも思うよ」
「私もそう。ひとつの言葉で括ることのできない関係でありたいけれど、そのひとつの言葉に括れたらって、いつも憧れ、願うようなものでもあるわ」
「君は誰に、なにを伝えてほしいの」
「リンという子にね、縫い目も針目もないドレスを作ってって」
「縫い目も、針目も?
無茶だよ、そんな」
「そう、無茶な願い。
だけど、それができたら、私達本当の恋人になれる……」
少女は指を離し、窓辺へコツコツと音鳴らしていった。
「それが叶うくらいでなければ、とても無理」
目の前の背中が自分よりも数段いとおしい影を背負っているように見えたので、少年はその小さな薄っぺらい身体が途方もなく憎らしく思えた。
壁に寄りかかり、片眉を上げた不機嫌な面もちで、気づけば言葉を意地悪く遠くへ投げつけていた。
「君がドレスで済むのなら、僕の要求はもっとずっと無茶なものでないと叶わないな。
誰の目も届かない内陸の土地にモダンな外装の立派な家を建ててと伝えてくれなきゃ」
「言ってみるわ」
「冗談だよ」
そんなの望まないよと、かすかな声で呟いた。聞き取られることを望まないような、自嘲めいた声だった。ばかばかしいようにうつむいている。
振り向いた少女はその姿を瞳に収めることもなく、風の吹くままのような微笑みを返した。
「行ってしまったわ」
うつむいていた少年は穴の向こうの開けた窓を見た。
揚羽蝶は風の中へ光きらめくように羽根をはためかせ、青い空の小さな黒点へと姿を変えていた。
「ドレスは届いた?」
三日目の朝に少年は穴の向こうの少女を訪ねた。
訪ねられた側は歓迎もない様子で木目麗しいチェアに腰掛けていた。ぼんやりと窓の外を見ている。
「蝶は来たの?」
「雨の降る日に蝶は飛ばないわ」
窓の外は薄煙の寒々しい雨が音立てて彩さやさやと色為している。
雨粒が窓硝子に汚らしい筋を垂れていた。
「蝶の羽根では筑土町まで幾日かかるのかな。昨日一昨日は晴れていたろう。その間にたどり着いていればいいけれど」
「瓶に手紙を詰めて海に流すよりも不確かな連絡手段ですものね。
私、虹がかかってもこの雨を恨むわ」
「おっかないな」と笑ったとき、小さな咳が耳に届いた。
「寒いのかい」
「外は雨ですもの」
少年は自分を囲う白い部屋を見回した。
外套掛けに黒いマントがかけられていた。
丈夫な作りで生地も厚いが、少年はそう思って壁の穴に近づいた。
黒外套をそろそろと穴の中へ通していく。
「それは?」
「僕の外套だ」
「私に貸してくれるというの?」
「無事に通ったらね」
君も向こうから引っ張ってと声をかけた。少女は応えた。
生地の端まで全て壁向こうへ通すと、穴の中から黒外套を握りしめる美しい顔が現れた。
傷に包帯を巻かれるような静かな表情をたたえていた。
「少し重いけど、羽織るといい」
「……どうもありがとう」
少女はふくらはぎまで垂れ下がるぶかぶかの黒外套を羽織った。肩のあたりを触って珍しそうにマントを見入る。
「華奢な肩と思っていたのに、こんなに大きい」
「そのくらいの長さなら毛布代わりになるだろう」
「嬉しいわ。でも、あなたは寒くないの?」
「鳥肌も立たない」
少女は自分を囲う白い部屋を見回した。
黒壇で誂えた机の上に小さなランプがあった。灯をともして壁に向かうその姿は黒外套と合わせて奇異な姿の魔女に思えた。
「油は一杯に入っているわ。明かりがあれば少しは暖かいと思うの」
「それを僕に?」
「私はあなたに暖かいマントを貸して戴いたから」
少年はランプを受け取った。
床に置くと橙色のほのかな光が辺りにまぁるく広がった。
「ありがとう」
ふたりは壁一枚を隔てて微笑んだ。
雨夜を迎える頃、少女は暖かいマントにくるまれて眠り、少年は暖かいランプの灯に包まれて本を読んだ。
真夜中を過ぎてもランプの灯が揺らめいていた。
時折、少年はもたれている壁から真っ暗な穴を見上げた。
変わらぬ寝息をかすかに聞いたあと、細かな文字の並ぶ本に目を戻す。
雨が降っている間、長くそれを繰り返した。
「今日も晴れたろう」
「ええ」
「便りはあった?」
「蝶は戻ってこないわ。伝えてほしいとだけ言ったから」
「そう、それなら君の無茶な願いを真に受けているんじゃないのか。縫い目も針目もないドレスを作るまではここへ訪ねてこられないんだ」
囃された側は何も答えず、きれいにたたんだ黒外套を胸前に差し出した。
「お返ししなくてはね」
「まだいいよ、誰も来ていない」
言葉に何を感じ取ったのか、一寸の間の沈黙を経て、少女は静かに首を振った。
「怖いのよ。あの子が訪ねてきても扉を開けられなくなりそうで」
まばたきをひとつして、動けなくなった。
微笑みかえす少女は自分のことを笑っているように瞳を伏せた。
「おかしなこと。
壁一枚に隔てられていても、あなたとの変わらぬ距離を望むだなんて」
外套をさらりと撫でたあと、彼女は夢から醒めるように顔を上げた。
「あなた、きれいね。それに、とてもいい匂い」
たたんだ外套をくるくると丸めて、穴へ通すとき、ひとりの女生徒は何を偽ることもなく「ありがとう」と心からの礼を告げた。
翌日、壁向こうの少女が白い部屋から姿を消していた。
誰かが訪ねてきた気もするが、少年は昨夜、額に汗吹く熱を出して、自身の黒外套にくるまっていたから、それが誰かということがよくわからなかった。
腹の下を熱く脈打たせるのが少女の残り香ではないように、少年は想い人の顔や身体を、声を匂いを、強く夢見た。
ぽっかりと空いた穴からなめらかな曲線を描く椅子が見える。
上には海老茶色の制服がきれいにたたまれていた。
寂しく思ったが、いつしかそれも薄れて、少年の瞳は壁向こうの面影を懐かしむように、ゆるゆるとやわらかく細められていった。
「ドレスが届いたんだね」
本を一冊手に取り、机に向かう。
ランプの明かりも必要ない朝日が開けた窓から差し込んでいた。
前髪が風にさらわれた。視界の端をかすめたのは睫でも、髪の毛でもない。
めくれる本もそのままに、少年は窓の淵へ穏やかな笑みを向けた。
「筑土町へ行くのですか」
指先に揚羽蝶。
声に色鮮やかな花を咲かせて、香り囁く待ち人尋ね。
「蜜色の髪のあの人に、もしも逢えたら伝えてほしいのです。
僕はいつでもあなたの夢を見ていると」
秋桜、竜胆、野菊に桔梗。
美しく咲いていてほしいと花に蝶に想いを託して、少年は指先をつと動かした。
終
07/10/30(火)
※『スカボロー・フェア』という歌詞のもじりをイメージして書かせて頂きました。