目の前には五つに切り分けられた羊羹。それと匂い香ばしいほうじ茶が二椀。
俺とライドウは向かい合って今日の茶受けを挟んでいる。
なぜ五つに切り分けるのだろう。
微妙なところで包丁さばきが下手な奴だと思いながら、俺はひとつ楊枝を刺した。
うん、うまい。
良質の黒蜜を取り扱っている小さな店の見切り品だが、味はさっぱりとしていてしつこくなく、舌にべとつきが残らない。
濃いめに煎れたほうじ茶との相性も抜群だ。
しかしなぜ玉露なり抹茶なりあるのに緑茶と合わせようとしなかったのだろう。
微妙なところで取り合わせの才が一般とずれている奴だとよく思う。
そして噛み合わせが悪そうに見えてとてもしっくりとくるかたちを揃えるのがうまい少年だと、俺は秋の深い夜に物思うのだ。
その日のライドウは次に手をつけるであろう濃いめのほうじ茶を見つめながらもくもくと口を動かしていた。
かわいい奴だなと思った。
ほうじ茶に口をつけた時に目が合った。
なんだろう、にやにやして。
口の端に餡をつけたのではないかと指を滑らしてみたけれど、別に何の汚れもない。
人が食べているのを見るのがそんなに面白いのだろうか。
確かに僕は甘いものが好きだけれど、そんなににこにこして食べていたわけではない(と思う)し、甘味を前にして意識せず腹の虫を鳴らしたわけでは断じてないし、面白く感じられることなどなにひとつないと思う。
さてそれならあの微笑みの理由は一体なんなのだろう。
黙って食べていたから?
「おいしいです」と礼のひとつも述べればよかったのだろうか。でもこの羊羹は僕が買ってきたものだ。
やめよう、特に理由は思い当たらない。
人の顔を見て笑う心持ちなど今の僕にはまだよくわからないし、なにか嬉しいことがあったのならそのまま笑わせていてあげたいし、この人のことだから笑みの意味など些細なもので、いや、なにもなくても顔をほころばすのはいつものことだと――
どうして僕はこんなにも彼のことを意識してしまうのだろう。
やはりあの笑んだ瞳で見つめられるのは弱い。
やけにうつむきがちになってしまった。
二つ割きの楊枝を口からわずかに離して黙りこくっている。
目を隠す学帽の鍔が邪魔だ。とってやろうかな。
「うまいよな、ここの羊羹」
「はい」
次の羊羹を口にしたいけれど、俺が取らずにいるから楊枝をさまよわせているのかと思ったので、俺はなにかどうでもよさげな二の句を口合いにして二個目を刺した。
ほとんど同時だ。
ひとつの羊羹にふたつの楊枝が突き刺さった。
思わず笑いそうになる時間の止まり方だった。こんなことがあるのかね。
俺は動かないもうひとつの楊枝を視界にしっかりと据え置いて、別な羊羹に竹串を刺した。
口に運んで新たな甘味を楽しんでいる間、俺は眉ひとつ動かさずに目の前の面白い光景を眺めていた。
帽子の鍔に隠れきらない頬はほんのりと朱に染まり、唇など今にも口づけたいくらいに、柔く、くすぐったそうに閉じられていたが、うつむいたままの少年はなぜか動かず、俺の視界に収まることを良しとしていた。
俺も相当鈍感だと思う。
同じ羊羹を刺した指先が今になってうずいてきた。
「食べさせてあげようか」
うずきをどうにかしたくて、甘味を突き刺したままのライドウの指先に自身の指を重ね合わせた。
恥ずかしそうに、そして戸惑ったように顔を上げるライドウの指先は、驚くほどに火照っていた。
いとおしく思えて眼差しを深める。
「え」とか「あの」とか。
そんな言葉ひとつひとつが嬉しくて仕方がない。
俺は不作法にも机に片膝を乗せて距離を詰めた。
「口を開けて」
自分でも不思議だ、どうしてこんな声が出るのか。
こいつだけに聞かせる声なのかもしれなかった。
震えるくらいに甘く囁かれた。
頬に添えられた手と僕の手を包み込む手、眼差しと唇のかたち、全てが優しいあたたかさに満ちていて、僕はそれらに誘われるようにして薄く口を開いていた。
透明の餡がぬるりと半分、滑りこむ。
咀嚼も忘れて口から片端を出したままわずかに震えていると、ずっと目を離せなかった鳴海さんの顔が近づいてきた。
僕はきつく目をつむった。
半分の羊羹を更にはんぶんこ。
両端から小さな餡を挟んで俺とライドウはくちゃくちゃと音こもらせて口づけた。
甘くやわらかい舌と唇。
強ばっていた肩の感触も次第にとろけてかたちを無くすように落ちてゆく。
あぁ、好きだよライドウ。
お前も俺のことを好いていてくれたらいいのになぁ。
お互いの水を求めるように絡み吸いつきあっていた。
かたりと何かが倒れる音がした。
脚で椀を転ばしてしまったらしい。
膝が濡れていく。
鳴海さんは僕の隣にいる。
机ごとひっくり返ってはいけないから、倒れた椀を上向けて僕の隣へ来てくれるように頼んだのだ。
ベストの襟を掴むように、彼の胸元へ指を添わせて口づけた。髪の毛を背なを撫でさすられて、時折当たる膝頭には痺れが走って、僕と鳴海さんは息もできないくらいの接吻を繰り返した。
やがてとろりと惚けた視界に映る彼の頬笑み。
ぬくもりに満ちた眼差しが僕の奥深くを刺激する。
火照りきった身体を撫でさする鳴海さんの手のひらを、背中に腕にあたたかく感じて、僕はもっと甘えたくなって、彼の胸にすり寄った。
いい匂いがした。
「鳴海さん」
「うん」
「少し甘えてもよろしいですか」
額に音立ててキスをされた。
僕は嬉しくてくすくすと笑い、今日あったことをぽつぽつと話し始めた。
「……学校の敷地内に金木犀が色づいて咲いているのを見たんです。
風に運ばれてきた匂いがとてもいい匂いで」
「あぁ、あれはいい香りだな」
「鳴海さんの胸からはそれよりもいい匂いがします」
とても好きな匂いですと答えると、鳴海さんは僕の首筋に空気を食むようにして顔を埋めた。
そしてじゃれる犬のようにふんふんと鼻をこすりつけて、くすぐったく匂いを吸い込んだ。首筋にかかるこぼれた笑みが嬉しい。
「俺もお前の匂いが好き。大好き」
「覚えていられるくらい? 僕は鳴海さんの匂いを覚えていますよ」
「もちろん、俺は犬並みに鼻がいいから、発情してる匂いも嗅ぎ分けられる」
「大変だ。見つかったら吠え立てられるのでしょうか」
「そう、こうやって。わんわん」
ソファに押し倒されて耳や顎を甘噛みされてしまった。
本当にしっぽを振っているのではと思うくらいに今日の鳴海さんは上機嫌だ。それは僕も同じだろうけれど。
「助けて、僕はきつねの子だから犬が苦手なんです」
「じゃあなおさら色々なところをかじりついてやらなきゃ。しっぽはどこだ、正体を見せろ」
ライドウのベルトを外しにかかったところでゴウトのくちばしがこめかみに入った。
のけぞって穴が開いたかと思われるほどに痛みの走る部位をさする俺と、稀に見るくらいに赤面して慌ててソファから飛び起きるライドウ。
ゴウトは羊羹がひとつ残ったテーブルの上に鎮座ましましていた。
ライドウから伝え聞くとだいぶ前から事務所へ帰ってきていたらしく、外套掛けの上でまさしく高みの見物とばかりに俺とライドウのやりとりを長い間、それはそれは呆れながら見ていたらしい。あまりにいちゃこいていたのでくちばしが開きっぱなしになっていたとか。
『どこまで馬鹿をやるかと思ったのだが、まさかあそこまでとは』
ゴウトはくちばしに皺を寄せてソファの上で正座するライドウに向かって何事かを叱責していた。
グエグエと低く鳴くゴウトはたぶん前に上げた台詞のようなことを言っているのだろう。
さすがに口出しもできず、俺はこめかみをおしぼりで冷やしながら煙草をふかしていた。
――
俺の薦めでひとつ残った羊羹は機嫌を損ねたゴウトの胃袋に収められた。
どちらも満腹だったし、乾燥して蠅にたかられるよりはゴウトのくちばしにつつかれたほうがいい。
最後に羊羹の話で終わらせるのは、発情おさまらぬ少年を見かねてか呆れてか、ゴウトに部屋を追い出されたライドウを俺の腕枕で寝かしているときに隣でこんなことを聞いたからだ。
「残りひとつを鳴海さんの手で分けて頂きたかったのですが、思ったより早くに空気が変わってしまって……」
つまり五つに切り分けられた羊羹は意図して等分にできないかたちに誂えられたということなのだろう。
確かに俺なら残りひとつを更にふたつに切り分けるだろうなと思った。
偶然は甘い空気を呼んだ。
ひとつの羊羹にふたつの楊枝が突き刺さらなかったら、俺のこめかみも穴を開けずに済んだのだろうか。
「……でも、叱責されてしまいましたが、今日はすごく楽しくて、幸せでした」
恥ずかしそうにはにかむきつねの子が俺の腕の中にいる。
「うん、俺も。存分に犬になることができたし」
噛みつき噛みつかれお互いの身体は甘痒い歯形だらけだ。
ライドウは薄く微笑み、しっぽをふさりとかけるみたいに俺の腿に片脚を絡みつかせた。
「今度は狼になってみませんか」
もしもあったら白い牙を剥けるだろう、俺はにやりと高く口の端を持ち上げた。
「骨まで食べてやろうか」
「あなたになら」
首筋に腕が絡んだ。
引き寄せて囁く甘い唇。
「食べられたい」
残さず全て、かけらひとつも口に含んで。
おあつらえのように今宵は満月。
狼が吠える。
終
07/10/13(土)