月の子

 どこと特筆することもないひなびた温泉街。空を見れば伊豆に近いのかも知れない。そんなくすんだ色をしている。
 あせた畳の部屋にふたりはいた。
 ここは旅館だ。少し湿っぽいが日が当たらないこともない、穏やかな明るさの中にふたりは寝ころんでいた。

「はい、これで20ページまでできた」

「鳴海さんは本当に色々なことをご存じですね」

 大学ノートのすみっこを持ってパラパラとめくる。銃を手にしたカウボーイが馬に乗って走る光景が紙の上で展開された。投げ縄をもって悪党を捕まえようとするところで横線のみの世界に戻される。
 鳴海は鉛筆をくるくると回して得意げにこう言った。

「活動写真でよく見るアニメもこういうのが原理になってるんだよ。少しずつ動きの違う絵を連続して画面に起こすことによってさも動いているという風に見せるわけだな」

「これをなんて呼ぶんでしたっけ」

「パラパラ漫画」

 浴衣姿の鳴海は飽きたように身を起こし、伸びをした。
 少し潤んだ目でライドウを見る。
 飽きずに何度もページをめくる少年の寝ころぶ姿があった。その様子を細めた目に収める。穏やかな笑顔だ。

「ライドウ、もう一回風呂に入んない?」

「のぼせてしまいます。風呂はあまり強くありません」

「学帽をかぶる理由もそれ? なにか頭に血がのぼらない秘訣がある……どうだ」

「そこのところは秘密です」

 あっさりと流された鳴海は暇そうに後ろ手をついた。縁側から見える外の景色を呆と視界に映す。すずめが庭をついばんでいた。空はのっぺりとしていて雲が鈍重な動きを見せている。それなりに造園された庭が心を穏やかなものにさせた。

 鳴海はいまだページを繰る少年の肩を抱いた。その小さな肩はびくりと震えて抵抗の意思を示した。かまわず彼は抱き寄せた。顎をつかんで上向けた唇に自らのふくらみを重ね合わせる。うん、となおも拒否するようなくぐもった声が漏れた。寝ころんでいた少年を仰向けにして身体を密接させる。胸に両手が押し当てられて、しばらくして唇が離れた。首をもたげた少年が距離を置いたのだ。

「……僕はこういうことをしては」

「いいだろ、別に」

「いけません。僕はこんなことをできる立場じゃない」

「お前は俺の何だよ」

「……」

 酷い質問をされたという風に鳴海の目を見る。
 鳴海は微笑んでいた。

 抵抗は止み、しきっぱなしの布団の上で情事が行われた。
 熱っぽくもどこかしら冷めた愛撫を受けている最中、少年は鳴海を見ることなく遠い瞳を空へさまよわせていた。いつのまにか、ぽつぽつと雨が降っていた。薄暗い。腹の上の吐息が熱く感じられる。
 雨だれの音が部屋に響くころ、少年は彼の雄を口いっぱいにほおばっていた。きつく瞳を閉じて懸命に顎を使う。布団に一滴たりとも雫をこぼさないように必死で吸い上げた。丁寧に、どこか諦めたような愛に満ちた表情で舐め上げていると、髪の毛を掴まれて顔を上向けられた。そのまま布団へ投げ出される。覆い被さってきた彼にずりずりと今まで口に含んでいたものを挿入されると、少年は「あああ」と喉をのけぞらせた。
 奥まで収まると麗しくも切ない瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。痛みのせいではない何かによって溢れだしたものだ。

「泣くな」

 少年はふるふると首を振った。

「僕は……僕は」

 乳首をつねられると少年は身を縮こまらせて甘い痛みに耐えた。切なさが泉のようになみなみと揺れて、溢れだした。
 突き上げの最中、泣いているほうは彼の名を呼ぶこともせず、儚くちぎれるような声を上げていた。
 花を散らすように。

 ――鳴海さん。

 口はそう動いた。
 けれど彼の耳には届かなかった。
 先に少年が達し、鳴海は彼の中へ精を放出した。
 熱のこもった室内にはいつのまにか湿気が充満していて、ふたりに肌寒さを覚えさせた。

「蒸し暑いな」

 仰向けの彼は染みのついた天井を見ながらそう言った。
 身体中に唇の痕を散らされた少年は彼の胸に寄り添った。
 汗ばんでいるのもかまわずに鳴海は少年を抱き寄せた。腋の下から泣き声が漏れた。

 真っ暗な空から雨が降る。
 叩きつけられるように、ざんざんと。

 雨上がりの朝もやが立ちこめている中、ふたりは山深い公園へと足を運んでいた。
 長い橋を渡せそうな広い湖のほとりを散策中、鳴海は立ち止まった。少年も同じく。何をするのかと見ていると、彼は足元に転がっていた平べったい小石を拾って、手の上でバウンドさせた。そして水平にふりかぶり、湖に向かって石を投げた。
 それはよく跳ねた。
 向こう岸まで行き着くのではないか、素晴らしい早さで水面を渡り、遊ぶように跳ねて、そして沈んだ。水にもぐる寂しい音を最後に残して。

 少年は学帽の下から何度もまばたきをしてその光景を見ていた。
 振り向いた鳴海は得意げに笑う。

「水切り。できるか、ライドウ」

 少年は首を横に振った。
 鳴海は手近な小石を拾って少年の手に握らせた。

「平べったいやつのほうがうまく跳ねる。親指と人差し指と中指で挟むようにして、水平に構えて、切るように投げる。やってみ」

 ぽんと背中を押された少年は多少戸惑ったあと、言われるままに投げた。それはあっけなく沈んだ。背後でくすっと笑う声が聞こえる。少年は無言で新たな石を拾って、投げた。
 また沈んだ。結果を見るやすぐさま石を拾い、手の角度や投げる位置を練習して再度挑戦する。石は沈んだ。
 鳴海はその様子をポケットに手をつっこんだ立ち姿のまま見つめていた。

「そういうところがライドウらしいよな」

 ぴくりと石を持つ手が動いたが、少年は気づいていないような顔で再度、湖に向かって石を投げた。
 一回だけ跳ねた。
 学帽から覗く目が少し見開いた。
 鳴海も石を拾い、投げる。
 七回は跳ねた。
 お互いの顔を見つめる。
 ひとりはやや唇をとがらせて、ひとりはにやにやと唇の端を持ち上げていた。

「この公園を一周する間にあなたを抜かしてみせます」

「それじゃあゆっくり行こうか」

 ふたりは再び歩きだした。
 太陽の光は朝もやに負けて、ふたりが公園にいる間、その陽を注ぐことはなかった。
 カモの鳴く声が聞こえる。
 群をなして泳ぐ鳥たちは、石ばかり投げる客人を迷惑そうに無視していた。

 一周したところで結局、鳴海の記録を抜くことはできなかった。
 彼は向こう岸まで到達させたあと、木杭に跳ね返った石が弧を描くという離れ業をやってのけたのだ。
 これにはさすがのライドウも口を薄く開けて見つめるほかなかった。
 悔しそうに唇を噛みしめるライドウを見て鳴海は「ははは」と笑った。

「遊びをなめちゃいかんよ。いくらお前さんが天才でもこの遊びのプロの鳴海さんにかなうわけがない」

「もうちょっとましなプロになったらどうです」

「いいとこ五回が限度の奴の負け惜しみか」

 鳴海は挑発的に上から笑った。
 ライドウは無言で石を拾い、静寂の中、一気に投げた。
 それは跳ねていく。向こう岸まで、どんどんと。
 木杭に当たり、跳ね返り、弧を描いて、泳いでいたカモに命中した。

「あ」
「あ」

 悲鳴のような鳴き声を上げて、カモは飛び立った。
 飛び散った羽が水面に浮かぶのを見て、ライドウは鳴海のほうを振り返った。
 彼は煙草に火をつけた。
 煙を深々と吐いてこう言う。

「俺の負けだよ」

「……嬉しくありません」

 大丈夫かなぁという風にカモの飛び立った方向を見上げて少年は目を細めた。眩しそうだった。

「帰りにリンゴでも買っていこう。市場が開かれてるからそこへ寄ってさ」

「はい」

 ふたりは歩きだした。
 途中で鳴海が顔を寄せてキスをした。
 それを嫌がるように少年は身じろぎした。鳴海は少し不機嫌そうに睨んだ。

「お前、いつまで意固地になってんだよ」

「僕はこういうことをしては」

「聞きあきたよ、それ。ちょっと任務の後処理に手間がかかったくらいでいつまでもうじうじと、十四代目ともあろう者が情けないねぇ」

 少年は物言わぬ顔でうつむいた。
 学帽に隠された表情を悟って鳴海が呟いた。

「悪い」

「いいんです。ここまで連れてきてくださってありがとうございました」

「まだ終わらないよ。やることたくさん残ってるだろ」

「なんですか」

「セックスしてセックスしてセックスして」

「指折り数えて言うことじゃないでしょう!」

 つきあいきれないという風に少年は足早に歩きだした。
 鳴海は手に持っていた煙草を湖へ捨てて後を追いかけた。
 ダービーハットを押さえるその姿は滑稽かつ平和そのものである。
 雲間から朝日が差し込んでいた。

 岩風呂の豪気な湯に打たれたあと、ふたりはリンゴ付きの遅い朝食をとった。静かに済ませ、時たま和やかに会話をする。すずめの鳴き声がした。

 仲居からナイフをもらった鳴海は手慣れた手つきでリンゴを剥いた。
 切り込みを入れてうさぎを作る。
 少年はそれを見て
「鳴海さんは本当に細かい作業がお好きですね」
 と呆れたような、感心したような響きで呟いた。
 鳴海はまんざらでもないように唇の端を持ち上げる。

「さあぼくを食べてー」

 ご丁寧に種で目玉までつけたうさぎリンゴを少年の口元へ持っていく。
 少年はげんなりしたような顔で鳴海の冗談口調を聞いていた。

「食べてー。早くしないと身体が茶色くなっちゃうのー」

 一向に口を開かぬ少年を見て鳴海はすぐそばまで寄って「食べてー」と繰り返した。
 少年はそっぽを向いた。
 鳴海はしばらく黙ったあと、少年の鼻をつまんで口を開けさせた。耳までつっこんだリンゴを口に含ませるとようやく手を離した。少年は振り払うように鳴海の身体を突き飛ばし、不機嫌さを露わにした顔で彼を睨んだ。
 もちろん彼は気にもとめていない。
 相変わらずの冗談顔で尋ねる。

「どう、うまい?」

 咀嚼して飲み込んだあと、少年はうなずいた。

「ごちそうさまです。でも次からは自分で食べます」

「じゃあその前に俺にも食べさせてよ」

 二個残っているうさぎを一羽つまんだ少年は、膝歩きで鳴海のそばに寄った。そして「食べてー」とはむろん言わずに鼻をつまんだ。開いた口にうさぎをねじこむ。鳴海は蠅でも払うように少年の手を振り払った。
 もごもごと咀嚼したあと飲み込んだ彼は、少しの涙目でこう言った。

「お前ね、加減ってものを考えなさいよ。いてぇよ、お前のつまみ方。それに食べさせてって言ったのはそういう意味じゃなくてだな」

「知ってますよ。全部知った上でやってるんです」

「よくないよ、そういう考え方……」

 鳴海は残ったリンゴを普通に食べた。その様子をライドウはじっと見ている。少し眉を下げて、どこか寂しそうに。鳴海は素知らぬ振りをしていた。
 しゃくしゃくと甘酸っぱい音を立てていると、少年が艶っぽい瞳で唇を寄せてきた。食べかけのリンゴも口の中にそのまま残し、ふたりはキスをした。少年の舌が侵入した。わずかに噛み砕かれたリンゴを舌ですくい取り、自らの口へ移す。唇と唇の間でふたりは咀嚼し合った。

 温かい手のひらで肩を撫でられると少年はぞくぞくと身を震わせた。
 ちゅぽん、と痺れた唇を離すと、少年はわずかに赤らんだ頬で彼の目を見つめた。
 ごくりと飲み込む音がした。
 少年は涙を流していた。
 静かな滝のように、ゆるゆると頬を浸していく透明な筋。
 鳴海は甘い表情から冷や水をかぶせられたような真顔になった。
 もう一度軽くキスをしたあと、少年は彼の胸にゆっくりとすがりついた。
 倒れ込むように身を崩して、膝まで行き着く。
 肩が震えた。
 鳴海の耳にすすり泣きが聞こえてきた。

「ライドウ、なんで泣くんだよ」

 彼は少年の肩を抱かなかった。
 ただ静かに、呆とした顔で膝元の少年を見つめていた。

「楽しくないか? 俺と一緒だと憂鬱か?」

 少年はわずかに頭を振って否定の意思を示した。
 泣き声は止まない。
 鳴海は何もせずに外の景色を見つめた。
 眩しいくらいに晴れていた。
 なにかそれが途方もなく憎らしくなって、鳴海は輝ける日差し、木漏れ日を心の底から憎んだ。

 ナイフを受け取りに来た仲居はふすま越しに聞こえる少年の泣き声を聞き、そのままそっと立ち去った。

 今はまだ昼下がり。
 少年はずっと泣いていた。

 座椅子にもたれたまま鳴海はいつしか寝ていた。
 その寝息を聞いたが早いか、少年ははっと身を起こして目元を拭った。
 眠っている鳴海を見た少年は、ナイフや半分残ったリンゴを部屋の隅に机ごと寄せて布団をしいた。
 そして彼をそっと揺り起こした。

「鳴海さん、風邪を引きます」

 ん、と少し身じろぎして鳴海は薄目を開けた。少年を目にとめて状況を把握すると、のろのろと布団にもぐりこんだ。
 少年はうわがけをかけた。
 傍らから離れようとしたらぐいと手を引かれた。

「あ」

 鳴海さん、と言うよりも前に布団の中に引き込まれてしまった。
 最初からこれを狙っていたのだろうか。寝息も嘘だったのかもしれない。今の鳴海の目はやけに冴えているのだ。彼は悪びれず、にこっと笑った。

「泣くなら俺に抱かれてる時に、な」

 尻を撫でられて少年はびくりと身をよじらせた。
 せかすように帯をほどかれる。
 そのままふたりは性交に耽った。
 夕暮れを迎えてもなお、少年は鳴海の愛撫から解放されることはなかった。

「はあっ あぁっ ああっ 」

 雫がたらたらと流れ落ちて、裸身から跳ねる。
 何度も気絶しそうになったが、そのたびに鳴海の絶妙かつ淫靡な加減によって意識を現世に止めさせられた。
 嫌とは言わなかった。
 壊れそうだと叫んだが、聞き入れられることはなかった。
 少年は泣いた。
 そのうちに何も考えられなくなって、ただ鳴海との快楽に夢中になった。
 幾度目かに果てたあと、少年は死んでしまうように気絶した。
 腹の中は鳴海の精液で充満していた。意識が途切れたあと、中身は一気に溢れだした。
 それはかすかに泡立った。

 目覚めるとまだ生きていることに驚いた。
 身体はかすかに汗と精液の臭いがするが、不快さはほとんどなく、鳴海の手によって丁寧に拭かれたことがわかった。
 彼は隣の布団で寝ていた。
 なぜ離れて眠るのだろうと悲しく思ったが、外を見てその理由がわかった。
 もう夜だった。
 庭園が月明かりに照らされている。おそらく満月だろう。

 起こそうか起こすまいか迷ったが、少年は不思議なほど静寂に満ちた心持ちで背を向けている彼の肩を揺すった。
 鳴海は起きない。
 強く揺さぶった。
 それでも、鳴海は起きない。
 まるで嘘のような寝息を立てている。

 少年は眉を下げて微笑んだ。
 どこか悲しそうに、けれど仕方ないなという愛情に満ちた表情で。
 しょうがないので傍らに正座して声をかけた。

「鳴海さん。眠っていらっしゃるようなので僕はこのまま話をさせていただきます。メモでも残せばいいのでしょうが、あいにく紙が見つからないのです」

 部屋の片隅には鳴海が描いたパラパラ漫画のノートがあった。
 鉛筆はすぐそばに転がっている。

「影にすぎない僕をあなたはここまで連れてきてくださった。
 月も海に還ったら消えてしまう僕を、あなたはためらうことなく愛してくださった。いつもどおり、普通に、普通に、少し違うのは贅沢をして温泉街まで足を運んで思い出をわけてくださったこと。
 僕はあなたに感謝してもしたりない。素晴らしい時をくださったあなたをこれまで以上にお慕いしてゆきます。
 本当の僕にもこの気持ちが伝わることでしょう。いいや、むしろ本当の僕は今頃この僕に嫉妬しているのかもしれない。きっとそうだ、だってこの僕にしか見せてくれなかった鳴海さんをたくさん知っているんだもの」

 素晴らしい顔だった。
 美しい顔だった。
 声音は銀の鈴を思わせた。

「……だから、鳴海さん、僕が言いたいのは……」

 少年はうつむいた。
 眉も口も感情の揺らぎはない。
 なにかを思いだそうとして思い出せないように、頭の中を見つめている。

「僕が言いたいのは……」

 鳴海の肩がすくむように動いた。
 衣擦れの音を聞いてライドウは微笑んだ。
 静かに顔を寄せて、その愛しい頬にくちづけをする。
 短いキスを終えて少年は身を起こした。

「ありがとうございました、鳴海さん」

 少年は月明かりのある窓のほうへ歩んでゆく。
 鳴海は眠気など一切ない瞳を開いて、少年の背を、立ち姿を見た。
 輝かしいほどに照らされているその身からは、伸びるべき黒い影法師が見あたらなかった。
 月光に溶け込むように、少年は消えた。
 海へ還ったような、そんな音を残して。

 鳴海は身を起こした。
 やけに明るい月明かりを見て、ふと部屋の片隅にある大学ノートへ目を止めた。
 パラパラとめくってカウボーイが動くさまを見る。
 そして呟いた。

「時間があったら似顔絵も描けたのになぁ」

 得意なことを披露し忘れたという風に、彼は寝癖のついた頭をかいた。
 もっともそれは無理だとため息をついた。
 あんなにも美しい少年を絵にできる者などいはしまい。どんな画家だろうが大芸術家だろうが、あの少年は瞳の中でしか生きていられない。
 たとえそれが影であったとしても、十四代目葛葉ライドウは影さえも美しい少年なのだ。

 鳴海はノートを放った。
 そして布団にもぐりこんだ。
 頬がうずくのはなぜだろうと思い、瞳を閉じる。
 少年がそこにいた。

 筑土町の探偵社に戻ると、テーブルに伏していた少年が慌てて出迎えた。
 外套かけに居住まいを正していた鴉もちらりとドア近くの鳴海を見る。たいして興味もなさそうだった。

「おかえりなさい、鳴海さん」

「おう、ただいま」

 旅行かばんを受け取ったライドウは何か聞きたそうに眉を下げた。
 鳴海はいつもと変わらぬ軽薄そうな笑顔でことを語った。

「お前の影法師はほんとお前そっくりだったよ。ムキになるわ負けず嫌いだわたいしたことないことで驚くわ」

「鳴海さん」

「そんでエロいところもお前そっくりで」

「鳴海さん」

 やや怒気が含まれた声音で言うと鳴海は薄く唇を結んだ。

「いいやつだったよ。可愛かったしな」

 少年は申し訳なさそうにうつむいた。
 鴉はくちばしあたりにシワを寄せた。別に気にするなという風に。

 未知の悪魔に自身の影を作られたのは三日前のこと。
 影の行動により様々な混乱を招いたが、結局はライドウが元凶の悪魔を屠る形で幕を閉じた。
 しかし影は消えずに残った。本人の人格と身体をそのまま生き写して存在し続けた。悪魔の術は死んでもなお解けないものだった。
 しかし、それも効力が切れる。
 たとえて言うならソーダ一杯ぶんの魔力だった。
 影は自分がどうなるのかわかっていた。次の満月には自身の存在は消えるだろうと。だから安心していいとふたりに告げた。
 ひとりはそうかと安心し、ひとりはしばらく考えた。
 そして影の手を取ったのだ。
 どうしてそうしたのか、鳴海本人もわかってはいない。
 ただ、影はあまりにもライドウそのものだったのだ。
 月が満ちれば消えてしまうという儚さに惹かれたのかもしれなかった。

「楽しかったですか」

「まあね。悪いな、ひとりにしておいて」

「いいんです。探偵社にふたりも僕がいれば悪魔を斃したあとでも周りの混乱を招くことが予想されましたから」

 でも、とライドウは鳴海の顔を見上げた。

「なぜ僕の影をひとりで行かせなかったのです。あなたまでついていくことはなかった。影だってそのつもりでいた。それもわざわざ温泉街まで……志乃田の名も無き神社に連れていけば充分でしたのに」

 鳴海はつまらなそうに少年の顔を見た。それはどことなく軽蔑もまじっているかのようだった。

「影の言ったとおり、嫉妬してんのかライドウ」

「は?」

「その言い分で言うとお前はもし俺の影が作られたとしても人気のない寂しい神社に置いていくのか。冷たい奴だな、十四代目ってのは」

「誰もそんなことは……僕は迷惑がかかると思って、それに僕が影なら僕だってそうしていました」

「そういう可愛げのない奴はうさぎリンゴをしゃくしゃくなんてさせてやらない」

「しゃくしゃく?」

 いぶかしげな目がわずかな焦りを宿した。
 これは想像してしまった故の嫉妬だと誰の目にも明らかに映った。
 鴉さえも目を狭めてそっぽを向いたのだ。呆れたように。
 鳴海は得意げに笑った。

「嘘だよ。おみやげに温泉饅頭とリンゴがある。ゴウトにはビー玉。ライドウにはあとでうさぎリンゴを作ってやるから」

「なんだかよくわかりませんが結構です」

「そう言うなよ。怒ったのか?」

「自分の影に怒るほど子供ではありません」

「素直じゃないとこもそっくりだったな」

「真似できないことをしてみせましょうか」

「どれ」

 つかつかと歩み寄ったライドウは鳴海の身体を抱きしめた。
 そして言った。

「おかえりなさい」

「ただいま」


 終
 06/07/05(水)