朝に異変が起こるのはいつものこと。
ライドウがなかなか起きてこないので、鳴海は少年の自室をノックした。
扉を開けるとまず驚いた。
はじめは肩から、そして後ずさった腿へと大量の札束が雪崩れてきたのだ。ここから見えるはずのライドウの机が大小合わせた金の束に埋もれている。
まさか起きてこないのはこの札束に押しつぶされたせいかと、疑問と心配がとっちらかった鳴海はライドウの名を呼んだ。「はい」とくぐもった返事が聞こえた。
声をたよりに鳴海は腰までくる札束をばさばさとかきわけてベッドへ近寄った。
少年はごわごわとした紙の感触をうっとおしそうに手で払ったのだろう、現実味もなく金が散らばるなか、寝乱れた肌をさらしたまま仰向けに横たわっていた。寝起きの顔らしいうっすらと開いた瞳で鳴海を見上げる。
「お前、どうしたんだよこれ。この金の山は」
言われて初めて気がついたという風に少年はあたりを見た。
そしておもむろに自分の右手を見た。
その手には赤い綺麗な小箱が握られていた。宝石がちりばめられていそうな(実際には何なのかがよくわからない)美しい細工が施された品である。
「なんだよそれ」
「夢じゃなかったのか」
「夢?」
話はこうだ。
夢を見たらこの箱が出てきた。
夢らしくこれは『中から色々なものが出てくる箱だ』と理解したライドウは貧乏書生らしく金を所望したらしい。望みどおり見たこともない量の金が出てきたが、なにかむなしさを感じたという。そうして起きたら現実でもこれを手にしていた。
一連の夢話を語るライドウの顔は徐々にげんなりとしたものに変わっていった。
「床抜けるぞこれ」
「それは困ります」
鳴海はしばらく考えたあと「よし! わかった!」と手を叩いた。
「ここは俺に任せてお前は今すぐメシを作れ」
「ようするにお腹が空いたんですか。何をどう任せるというんですか」
「いいじゃんそういうことは」
「“じゃん”じゃないですよ。もう」
鳴海探偵社は朝から軽口が絶えない。
とりあえずその日は学校に行った。
デビルサマナーとして任務もこなした。たったひとりで。
宇宙(そら)に潰えたゴウトもいまだ戻らず、足下に気を配らずに駆けることのできる一種奇妙な不安があったが、思わぬ金が手に入ったため、道具には不自由しなかったらしい。
金王屋の主人がいつもより羽振りのよいライドウを見てニタニタと金歯を光らせたとかそうでなかったとか。
ヴィクトルも悪魔召喚を繰り返して合体強化をするライドウに大層喜んだとかそうでなかったとか。
帰宅すると鳴海がここぞとばかりに金を使っていた。
借金も返して身なりも新調して(といってもいつもと変わらないツートンカラーのベストだが)高い煙草を吸っていた。
そんな彼を別に咎めることもせずライドウは外套を脱いだ。
まあいいかという気持ちしかない。どうせ夢の中のものだからという感覚なのだ。
「おかえり」と微笑んだ鳴海は、高級そうな香りのする煙をくゆらせながらこんなことを言った。
「その箱さあ、なんでも願いが叶うってわけじゃないんだね」
「何を願いました」
「うん? あぁ、まぁその……ヤソマガツの被害にあった人が戻らないかなって、そんなこと」
「あなたらしいですね」
ライドウは少し苦笑した風に言った。
少年の眼差しを無視して、鳴海は弄ぶように箱を撫でて、ふたを開けた。中からは蜜のたっぷりかかった大学芋が出てきた。
「食べなよ」
「いえ、僕は」箱入りの大学芋を嫌そうに見ながら「御自分の好物をお出しになれば……」とライドウは声を曇らせた。
「俺は別にどうでもいいんだよね。第一金があれば大体のことは満たされるし」
この箱はせいぜいそのくらいしか出来ないだろう?
そう話す彼の顔はいつもと変わらない表情に見えた。ライドウはうつむいた。
そうだ、その箱は物理的な欲求しか満たせない。役には立つが何の役にも立たない箱。これが贈り物だというならとんだ愚かな贈答品だ。
「あなたにも僕にも、それはいらないものなんですね」
「そうだなぁ」
ライドウは自室に戻った。
天井を仰いで短いため息をつく。
なにかがもどかしく、期待はずれだった。
ライドウはその日、ひとつの妄想に縛られた。
繰り返し見るイメージだ。
自分は犯されている。
鳴海に無理やり尻を穿たれ、やめてと言っても腰を揺すられる。
「あぁ、あぁ」と断続的に泣き声を上げて、そのうちに絶頂に達する。
自分は信じられないほどの幸福感に満たされている。そのこぼした涙は嘘だ。快楽の喜びしかない。
なぜそんな妄想ばかりに囚われるのか不思議だった。赤らんだ頬でそのうちに理解した。これは自分が望むものだと。
鳴海は自分を抱こうとはしない。
強引に身体を望もうとはしない。
普通に優しくして、普通に会話をして、普通に接する。ある程度の距離をおいて。
自分はいつしかそれに反発するようになった。もっと望んではくれないのか。もっと求めてはくれないのか。もっと我儘を言って僕を困らせてはくれないのか。
何も想われていないようで寂しさともどかしさを感じる。
ライドウはその日自慰をした。
そして泣いた。
鳴海はその日、ひとつの悩みを抱えていた。
ライドウは何を望むのだろうということだ。
金を出しても欲しいものなどひとつかふたつくらいだろう。物ではなく心を向けたい。しかし奴は何を望むのだろう。箱を出すくらいだ、欲求不満には違いない。満たしてやれたらどんなにいいか、こちらもどんなにいい気分になるかしれない。だから考えた。
風邪を引いたら世話をした。
必要なものは全て揃えた。
あの金で得られないものなど何もなかった。新しい学制服も寝具も全て満たした。それでも足りない。
自分ができる限りの優しさを彼に振る舞った。少年は戸惑いつつもそれを受けた。頬を赤らめながら丁寧に礼を言う。自分はそれを見て喜んだ。
楽しめる会話もした。話をふり、彼が下手な相づちをうつ。自分はそれに皮肉を交えて切り返す。言葉に詰まる彼を見て可愛いねと言う。赤くなる少年を見ては自分だけが満足した。
全て自分の自己満足のためだった。
ライドウに向ける想いとはそんなものなのかと軽く失望して高い煙草をふかした。妙な味がした。
「そりゃ俺だって」
ひとりごちる。
少年にどんな想いを抱いていたのだろう。
好きだったろうか。
身体を重ねたことはある。
それはほとんどが少年から望んだことだった。あるいは自分が成り行きからくちづけた時か。
わけもわからず不安が高じて眠れなかった夜、少年は身を尽くして自分を慰めてくれた。
全て少年からの愛と情熱だった。
自分は何も考えていないのか。
自分は何も想っていないのか。
わからずに煙草をふかした。
涙は出ずにただ暗い気分になった。
その日、鳴海はあえて何も考えようとはせず、ベッドにもぐりこんだ。
ぬくもりが欲しいと思った。
しかしそれは気のせいだろうと自分に嘘をついた。
朝を迎えてふたりは相変わらずの日々を送る。
挨拶を交わして朝食をとり、いって参りますいってらっしゃいと送り出す。
いつもと同じ毎日だった。
金はもう使い道がない。
金庫も溢れてライドウの部屋の半分を占拠するその札束が邪魔に思えた。
鳴海は煙草をふかした。燃やそうかとも思ったがそれはいくらなんでもと気が引けた。第一どこで。だからヤソマガツ被害に遭った人達への匿名の寄付という形で処分してあとは忘れようと思った。
とにかくそれは目にうるさかったのだ。満たされない想いを表しているかのようで苛々した。どうでもいいと思った。箱を見ると相変わらず綺麗に輝いていた。夢の中でしか表せないような美しい赤色をしていた。
ライドウが帰ってくるころ、金はほとんどが消えていた。どうしましたと尋ねると鳴海は寄付したことを告げた。
ライドウはそうですかと言ったきりだった。それくらいどうでもいいものだったのだ。少年の望むものではないということが明らかになってそれが鳴海には少し嬉しかった。
鳴海は今夜も少年に触れようとしなかった。月が雲に隠れていた。明日は雨が降るかもしれない。日曜だというのに太陽を拝めないのは寂しいものだねと、鳴海は全くそんなことを考えてもいない心でそう告げた。ライドウはそうですねと相づちをうった。それだけだった。
ライドウはその夜、夢の中で鳴海に犯された。
手足の自由を奪われて気を失うほどに尻を掘られる。身体の全てが肛門になったかのように快楽を注ぎ込まれる。いやだと泣き叫んでも心は悦んでいた。夢の中の鳴海はこう言った。
「知らないよ、お前のことなんて」
それでもいいと思う自分の心が哀れだった。
なぜこんなにも彼を求めるのだろう。
どうして好きになったのだろう。
夢精した身を起こしながら呆と考えた。そしてわかった。
ああ、こういうことをしないあの人が好きなのだと。無理に求めようとしない、僕を傷つけまいと気をまわすあの人の優しさにほだされたのだと。
それであの人が自分に嘘をつく時、僕は一体なにができるのだろう。
考えてみれば簡単なことだ。自分から気持ちを打ち明けるほかなかった。
抑えていた感情を露わにして彼の胸に身を寄せた。
結果、彼は抱いてくれた。そうするほかないと知っていて僕は悪い奴になった。彼の大人としての優しさに甘えていたのだ。突き放されることなどないとどこかで確信していた。
少年は泣いた。恥じた。心の底から自らを嫌った。
そしてこんな自分は愛されることもないのだと理解した。望むかたちには決して。何も満たされないこの状況がお似合いだと(やりすぎのように)自分を笑った。
鳴海は何を考えていたのだろう。
何も考えることをしなかった。
意識的にそうしていた。
明日もライドウと一緒になんやかやと楽しくやっていけたらいいなと思っていた。少年を抱きたいとは思わなかった。ただすごく寒いと思った。どうして自分の寝床はこんなにも冷えているのだろう。ぬくみのないシーツに苛々してなかなか寝付けなかった。
雨が近づいているからだろうか。
鳴海は瞳を閉じた。
暗闇の中にライドウの後ろ姿が浮かび上がった。その立ち姿は寂しそうだった。鳴海は片手を上げて近づく。いつもどおりの笑顔を向けてどうしたと尋ねる。
ライドウは何も言わなかった。
ただ走り去っていこうとした。その腕を掴もうにも、もう遅すぎた。
暗闇の中へ消えていく少年の背にその名を呼びかけようともしなかった。
立ち尽くし、煙草を取り出して小さな火をつける。
――俺じゃなかったんだよな。
そんな嘘をついて彼は煙を吐いた。
本当はどうすればいいのか充分すぎるほどに知っていた。
しかしそれは自分の本心にも嘘をつく行為だった。
抱くということ。好きだということ。愛しているということ。くちづけを交わすこと。
それら全ては自己満足に過ぎない。
無理に行えば少年を傷つけると大人の彼はそう考えた。だからそれらをすることを拒んだ。拒むことで更に傷つくと知っていてもそこまで自分に嘘をつきたくなかった。彼はどうしようもなくずるい大人だった。
そして何もわかっていない大人だった。確かにある寂しさにも気がつかないほど、彼は愚かだった。
朝から雨が降っていた。
ざあざあと降る大粒の雨は窓にいくつも水滴を穿った。
暗かったので明かりをつけた。
ライドウは休みだ。
自分も今日は暇だろう。人捜しも一段落したところだ。あとは謝礼が届くのを待つだけ。
食後のお茶を飲んでいると机の上にある綺麗な箱が目に入った。
鳴海はそれを手に取りライドウに向かって尋ねた。もう使わないのかと。ライドウはうなずいた。
鳴海は箱を手に取り、軽く瞳を閉じたあと、ふたを開けた。
途端、箱は全てが裏返しになり、そして消滅した。
驚いたライドウは何を願ったんですと尋ねた。
鳴海は少しだけ微笑みこう言った。
「この箱の消滅を願ったのさ」
だっていらないからねと鳴海は空になった両手を頭の後ろで組んだ。背もたれがぎぃとなった。ライドウはうつむいた。ソファに座る少年がやけに暗い顔をしていたので鳴海は不安になり、あることを尋ねた。やっぱりまだ使いたかったのかと。ライドウは首を振った。
「僕がなぜそれを手に取ったのか、今わかった気がするんです」
「どういうことだ?」
「僕はこの頃ずっと考えていた。一体あなたが望むものはなんなのだろうと。もしわかったら僕がそれを贈りたいと願っていた。そんな想いが現実に箱という形で現れたのではないかと思うんです」
「つまり俺の興味を探りたかったと」
「ええ。でも僕が傲慢だった。あなたはもう何も望まない。筑土町が、まわりの人々が幸福に暮らしていけたらあなたはそれで満足する人なんだ。僕はそれをわかっていたのに、傲慢にも僕だけができる何かをしたかった。そうしてたくさんの淫らなことを願った。僕の欲望が強いばかりにあなたにも迷惑をかけた。そのことを心から謝りたいです」
「別に迷惑なんて」
「申し訳ありませんでした」
会話は途切れた。
雨音と時計の針音が漏刻のように混じり合い応接間に響く。
鳴海は煙草に火をつけた。
いつもこうだ。
いつもいつもこうだ。
互いが想い合っていることは確かなのに、それをうまく表すことも、それに対して正直に生きることもできない。
どうしてこうなるんだ。
どうしてこうなるんだろう。
ふたりは視線を交わすことなくうつむいたまま思いを巡らせた。
潜めているはずのお互いの呼気は時計の音よりも耳についた。
彼が口を開いた。
「あのさ。このごろ寒くてさ」
雨降ってるからかなぁと窓を後ろ手に指す。ライドウは見もしない。
「お茶飲んでても寒くてさ」
「ストーブでも出しましょうか」
「そういうんじゃなくてさ。今夏だし。なんていうの、こう……寂しくなるっていうかさ。季節のせいかね、それとも天気のせいか」
「夏というより梅雨ですものね」
「そう、それ。いや違う。そうじゃなくて……その、俺は考えないようにしてたんだけどさ」
鳴海は煙草を灰皿に押しつけた。煙と一緒に大きなため息をつく。
「こんなさ、寒いなっていう感覚、前は全然なかったんだよ。寝床にもぐりこんだらすぐ眠れたんだ。その時に誰かが来ても、うっとおしいなっていうことしか感じなかった。でも、なんでだろうな。これはさ、たぶん嘘じゃないと思うんだよ。嘘ばっかりついてきたんだけどさ、このことだけは本当だと思うんだ」
ライドウは顔を上げた。
よく見ないとわからないほどに瞳を滲ませて、鳴海のことをじっと見る。
「寒いんだ。誰かに側にいてほしくてもさ、ほら、あの箱からじゃ出てこないだろ。それはさ、たぶんもうそこにいるからだと思うんだよ」
「わかりません。はっきりと言ってください」
「ライドウ」
鳴海は少年の顔をじっと見たあと、両腕をだらりと脇にたらして、力なく椅子にもたれながら呟いた。
「寒いんだ」
その無気力な表情から涙がこぼれた。静かに、あっという間に胸元に染み落ちてしまうその雫。
ライドウは立ち上がった。
彼の側へ寄る表情は必死そのものだった。
頬に寄せる手が震えていた。
「ごめんなさい」
謝罪しながら彼の頭を抱いた。
鳴海はライドウの薄い胸に顔をすり寄せた。閉じた瞳からはいまだ止まない雫がこぼれていく。
「俺にとってはお前なのかなぁ」
「答えなくていいです。見つけるのがつらいなら無理に探さないで。僕はそれでいいですから」
「ごめんなぁ……」
「謝らないで」
ねえ今日は一緒に寝ましょうと少年のほうから誘った。もう仕事は休んで、僕と一緒に寝ましょうと。
またそんなことを言わせてごめんなと、泣いている大人はぐらぐらとした頭でそう告げた。
胸に抱かれている鳴海はため息を震わせた。
そうして本格的に泣きはじめた。
寝床では本当に寄り添って眠るのみだった。無理に抱こうとする鳴海をライドウが押し止めたのだ。
そんな気分じゃないことはわかっていますから、どうか今はあなたのそばにいさせてくださいと少年は告げた。
その優しさがありがたかった。
ぬくもりを感じていた。
「寒くないですか」と時々尋ねられた。
「寒い」とそのたびにそう答えた。
少年は彼の腕や背中をさすった。
我儘を言う大人は少年の優しさに甘えるように、抱き合うかたちへと腕をまわした。
これ以上密接できないほど抱きしめると、ようやく寒さが治まった気がした。それでも不安は残った。だから何度でも言った。寒い、寒いと。
ライドウはキスをした。
そうしてもいいものかどうか少し迷ったが、しないよりはましだと思った。
鳴海も返した。まだ涙の味が残っていた。舌を絡めて吐息を混じり合わせて、しばらくすると下半身が熱を持った。
「ライドウ」
切ない声で鳴海は少年を組み伏した。下になった少年は安堵するかのようなため息を漏らした。
こうなるようにとずっと前から望んでいたことなのだ。
腰を突き動かされるとライドウはいつのまにかこぼしていた涙の声で「いやだ」と言った。
なぜそんなことを言うのか自分でもわからなかった。妄想を現実で昇華したかったのかもしれない。
背中にまわした腕はきつく爪を立てて鳴海に嬉しさを叫んでいた。
鳴海は何度も少年の名を呼んだ。
少年も何度も鳴海の名を呼んだ。
そうして達した。
お互いが深く痙攣して、固く抱き合った。ぴんと伸びた少年の爪先がエロチックだった。
答えが出ることはなかった。
荒い息をついてキスを交わし、トクトクと鳴動する身体を横たえてもなお、決定的な答えが提示されることはなかった。
ただ、寒くはなかった。
「……ねぇ、あなたを暖めることなんて、他の誰にでもできることなんですよ」
「そうだな」
「僕でなくても、いいことなんです」
「……」
「わかっていましたけど、やっぱりつらいものですね」
少年は眉を下げて優しく笑った。ベッドから身を起こしてなまめかしい背筋を見せる。距離が生まれた。
鳴海は天井を見ながらこう答えた。
「……寒いなんてさ、俺、他の誰にも言ったことないよ」
少年は自分の胸に切なくも甘い傷が刻まれた気がした。
そっぽをむいて、そして動揺を押さえるように、震える言葉を注意深く紡ぐ。
「甘えられると思ったからじゃないですか」
「甘えられる奴はお前の他にもたくさんいるんだよ」
「じゃあどうして」
「うん。今わかったんだけどさ」
鳴海はライドウの腕をさわりと撫でた。
振り向いた少年に答えを告げる。
「寂しいって感じるの、たぶんお前に対してだけだと思うんだよ」
ライドウはしばらく彼を見下ろし、そしてまたどこでもない方向をむいた。
「犬や猫と同じ扱いを受けている気がします」
「ライドウ、寒い」
「知りません」
「寒い」
もう一度「寒い」と言われたとき、ライドウは鳴海の頬に舌を這わせた。涙の味がした。背中を抱く彼のぬくもりにライドウも涙を流した。
雨の音がする。
激しい音をたてて窓に打ちつけられる鈍色の雨。
「寒いのは……雨のせいですよ」
そうであってほしいと少年は願った。
自分のために彼がつらい思いをするのは耐えられなかった。
「そうだなぁ。雨のせいだよなぁ」
そうであるようにと嘘を願った。
自分のせいで少年につらい思いをさせるのは忍びなかった。
ねじれた想いと愛おしさは決してまっすぐには伝わらない。
それでも互いを思いやる心はいつも目の前に見えていた。
見ないふりをするのは、もう──。
鳴海はそう思い、ライドウはすでに実行に移していた。
やわらかなキスを交わしたあと、微笑んでこう告げたのだ。
「愛しています」
鳴海も微笑んだ。
声を出さずに、口の動きだけで返事をした。
――俺は、わからない。
くちづけは暖かかった。
世にも冷たい言葉を吐いた男の唇とは思えないほどに。
雨が降っている。
ゆっくりとした時間が流れていた。
共に風呂に入ったあと、からかい半分でライドウの自室へ入ったふたりは、そこで奇妙なものを見つけた。
床に一枚の紙幣が落ちている。
それは見たこともないお金だった。
手に取り、鳴海は読み上げる。
「壱……万円、札?」
「なんですか壱万円札って」
「わからない。夢の中のお金じゃないの。左読みだから外国のかも知れないけど」
「でも聖徳太子が描かれていますよ」
鳴海は指でお金を弾いて床にはらりと落とした。どうでもいいよという風に。
「第一お前が変な箱を持ってくるからこういうものがだな」
「その箱から出てきたお金で散々好きなものを買ったのは誰ですか」
口論は止まらない。
交わす言葉はじゃれあいのように続いてゆく。
たぶん明日も、その次の日も。
そうであるようにと、どちらかが願った。
そうではないようにと、どちらかが願った。
ここにあるのは雨と、ほんの少しの幸福と、譲ることのできない願いと、それでも想い合う心とが混じり合う、ふたりだけの日々。
終
06/06/18(日)