針葉樹に囲まれたような厚い暗闇が広がる天の下、蛍光色に輝く緑色の岩肌が続き、その先々に火の柱が立ち昇っている。
異形の怪物が跳梁跋扈する世界を、シモンと風魔は鞭を振るい、刀で切り払い、攻めの勢いを緩めず、上へ上へと進んでいた。
道の陥没した片方の岩肌に渡り、目的地へ至る道筋を確認する。そのとき、ふたりが向こう縁で目にしたのは、一体のさまよう骸骨だった。
なにかを振りかぶった姿勢でこちらへと歩んでくる、淡い朱色の総身――じりじりと迫る骸が握りしめているその武器は、脊椎骨で繋がれたような一条の鞭だった。
狩人が目にしたのはそれだけではなく、信じがたいといったまなざしは骸骨の身につけていた武具にも向けられた。
自身の胸当てとそっくり同じかたちの、鈍い輝きを放つ防具が、時を重ねたようにすりきれ、色あせて、骨の隙間でがちゃがちゃと揺れている。
シモンは動くことができなかった。崩岸(あず)の端から骨の鞭が届く距離にいて、その場に立ち尽くしていた。鞭が振り抜かれる直前、道向こうに気力をこめた閃光が走った。風魔の守り太鼓だ。光を内包した一撃に骸骨は音を立てて崩れ去った。――あとにくすんだ胸当てを残して。
シモンの顎から汗が伝い落ちた。
その様子を見て、風魔は刀を鞘に収めた。
「一度、戻ろう」
今の自分が戦力にならないことは狩人自身がよく知っていた。シモンはうなずき、すまないと呟いた。
ラウンジにて。
異界から戻った青年ふたりが絨毯の上にあぐらをかき、なにごとかを静かに話していた。
年若き狩人の思いを淡々と受けとめるように、風魔はときおりうなずき、相づちを打って、自分の思いを口にした。
そうしたときに――背後から視線を感じて、青年は赤い髪をさらりと揺らした。
後ろを確かめたあと、すぐに顔を戻した風魔は、「では」と膝に力を入れた。立ち上がろうとする若者を不思議そうな顔で見上げるシモンに向かい、茜色の髪の青年は嘆息気味に腰に手をあてて、こう告げた。
「気が気でないようにこちらを見つめている奴がいるのでな」
頭を向けると、シモンと同時代に相対した古の城主の姿があった。孤影のようであり、大やかな翼をもつ竜のようでもあるその佇まいに、シモンは互いにしかわからない目語を兼ねたうなずきを見せた。立ち去る風魔の背に「ありがとう」と礼を告げ、シモンは腰を上げた。穏やかな歩調で伯爵のそばに寄る。古の城主は遠ざかる赤髪の青年の後ろ姿を見つめながら、「勝手なことを言いおって」と、鼻から息をついた。
「誰の気が気でないというんだ、まったく」
シモンは眉を下げて仕方ないように首を傾げた。
「しかめつらを直したらどうだ。きれいな額が台無しだ」
「これはあの若造がよけいなことを言うから」
「よく聞こえる耳なんだな。話していた内容もわかるのか」
「いや」虚をつかれたように伯爵はまばたきを返した。「来たばかりなんだ――わかっていたらこんな顔は」
思わず口を塞ぎたいように片手を上げかけた伯爵に向かい、シモンはやわらかな微笑を返した。
「心配してくれたんだな。ありがとう」
シモンの感謝を受けて、伯爵の憮然とした表情は静かに引き締まった。たしかに、いつも目にする彼の猫背が、ふだんとは違って重苦しい様子だったので、自分は妙に心配になったのだ。あの赤毛の青年と話をしているのを見て、みずから嫉妬と間違うような思いにかられていたのに、シモンはそうは取らなかった。こちらの心底をすぐに見通す青年の知的な態度に改めて感心したように、伯爵はゆっくりと唇を結んだ。それにつられるようにシモンは口をつぐみ、視線を落として、ぽつぽつと語りはじめた。
「恐ろしい思いに囚われはしたが、風魔と話して、いくらか気分が落ち着いた。あの姿を受け入れることは難しいが、生きているうちは、私は私にできることをしようと」
ちょっと待ちたまえと、伯爵は青年の顎に軽く手を添えて、その沈んだ目線を自分に向けさせた。あらたな気がかりを覚えた表情で「なんの話をしているんだ」と尋ねる。シモンは諦観という言葉がぴったりくる静かな顔でこう答えた。
「ここで話していてもお前には理解も納得もいかぬことなのかもしれぬ――時間があるのなら、私と一緒にきてくれないか」
そのつもりだと――自分は青年とともに過ごすために来たのだと――伯爵は目語を兼ねたうなずきでそう告げた。
西暦一万四千六百七十二年、魔歴元年と呼ばれる、本に記録された世界のなかでも異質な地へとふたりは赴いていた。
火柱を抜け、血の池を飛び越し、上へ上へと進んだところで、シモンは道の隔たった崖端に着地した。伯爵もすぐに追いつき、青年が見つめている先の断崖を振り向いた。陥没した道の向こうには、異形に満ちた世界をこれ以上進ませはしないというように、門の前を虚とした表情でさまよう人骨が、骨の鞭を手にこちらを見ていた。
「死後の私だ」
シモンのまなざしはしっかりとしたものだった。
伯爵の視線にも動じずにとうとうと語るその表情は透徹として、乱れはない。
「本にも記録されている。風魔にも尋ねてみたが、姿形、容貌や鞭を振るう様子から、ある吸血鬼狩人の名がつけられていると――」
「くだらぬ当て字であろうな」
「ひとつの表現だ。重要なのは、私の魂は地の底に落ちたということで」
「信じているのか」伯爵は繰り返し、信じているのかと問い直した。侮蔑と腹立ちを覚えた、吐き捨てるような口調で。「あれが死後の自分の姿だと――そんな馬鹿なことを?」
「見ればわかるではないか。骨になっても鞭を振るい続ける、あさましい執念に満ちた狂気の姿は――信仰を忘れ、血の逸りに囚われた呪わしいあの姿はきっと」
そう言いかけて、シモンはうつむいた。きっと、の次が出てこない。表情を曇らせ、拳を握りしめて、口をつぐむ。そんなはずはないのにと、自らの在り様を思い悩むように。伯爵は青年の様子を見て、次に遠くの骸に目をやり、ふっと小さなため息をついた。
「なるほど、見ればわかるな。あれは君ではないということが」
「記録には、死後の私だと――それに、あの骸骨は私の使用していた胸当てを身につけていて――」
「くどい。君の胸当てがなんだ、未来の私ですら同じものを大切に保管していたではないか。魔界の力に通じるものであれば武具を複製することなどたやすいことだ。それに、君の戦い方を誰よりも知っているこのわたしが言うのだぞ。あれを見ろ、あのそっくりかえった様を。君はあんな姿勢で敵に挑みはしない。常に鞭を振りかぶった状態で放つ一撃などたかが知れている」
シモンは伯爵の横顔を見た。額から真白く色が抜けたような凝視のまなざしで。信じがたい言葉を聞いているような面もちで。
「おまけにあの不細工な骨格を見ろ。肉付けをしたところで端正な君の体躯を為すとはどうしても思えないし、さっきから何度も目にしているが、やはり鞭の振り抜きがおそろしく甘くて話に」
「ヴラド、ヴラド」友の無謀な行為をやめさせようとする誠意ある若者の声音と、差し迫った勢いで、青年は彼の胸元に手をあて、言葉を制した。「それ以上は」
伯爵はやめなかった。
決定的な言葉で、骨の鞭を振るう骸骨にとどめを刺す。
「わたしは、あのような鞭を首に受けた覚えはない!」
睥睨による念を飛ばしたのか――見えない火球をその身に受けたように、骸は乾いた音を立てて崩れ落ちた。
あとには、伯爵の胸元に、無念の様相で強くすがりつく青年の姿があった。
骸が消滅した音が遠ざかるころ、シモンは、痛いほどの力をこめた両手を離し、絞るような声で呟いた。
「お前に、そんなことを言わせるつもりは……」
自分を討った相手の、その武器を身に受けた感覚を、恥辱を、思い出させるつもりなどなかった。口に出させるつもりなどなかった。青年は、自分が為したことも忘れて、骨の鞭を振るう骸骨というただそれだけの存在に自身を同一視してしまったのだ。青年との差異を口に表すたびに、竜公は、狩人に対して、ふがいなさや情けなさを覚えたことだろう。身に受けた鞭の記憶を叫ばずにはいられないほどに。対峙する関係とはいえ、ここまで黙って同行してくれた彼に言わせる言葉ではなかったのだ。シモンはうつむき、拳を握りしめた。
「どうしてお前は、自分を討つものに対して、そんなに……」たとえる言葉が見つからないように、青年は震える声で呟いた。「親切に」
「人間特有の考えである、死後の世界などという曖昧な恐怖を生む迷信、それによる操作など知ったことではないが」竜公は狩人の顎に手を添え、その顔を上向けさせた。「世界を救った英雄を自らの手で地に貶める未来人の行為が理解できなくてな」
怒りを覚えたと、伯爵はシモンに告げた。
続く言葉に――「わたしの誇りは君と輝きをともにする」と、真摯な重みを含ませて。
シモンは顎の手をそっと外し、なにかを言いたいようにその甲を握りしめた。言葉を待たずに伯爵はこんなことを口にした。
「まぁ、もっと確かな証明がほしければ、死神(Death)を呼んで魂の色を見比べてやってもいい」
いいんだ、とシモンはきっぱりと、力強く言った。
その表情には翳りは無く、以前よりも磨き抜かれた、あたたかな、透明な光が宿っていた。
「お前の言葉以上に確かなものなどない」手を握るその力に迷いはなかった。「思いは受け取った。もうこんなことで不安になったり、悩んだりしない」
「ありがとう、ヴラド」と青年は落ち着いたまなざしを向けた。表情、姿勢、声音に明るさが戻ったのを見て、伯爵もこの日はじめての微笑を浮かべた。そして、いくらか冷静になった心で、次にとるべき行動を考えた。
「どうする、ただの骸に君の名前をつけるように仕向けた憎き龍骨鬼とやらを討ちにいくか」
「人々があの名前をつけるかどうかなんて、いくら龍骨鬼でもそんなことがわかるものか」
「あんなかたちで魔物を復活させたあいつにそもそもの原因があるんだ。鞭を振るうその姿を見て後世の人間が不安にかられた末にあの名前をつけた――最も高名なる吸血鬼狩人の名が頭に浮かんだのは未来人にとってもごく自然なことだったろうな」
異形に満ちた世界、人々のあいだで、英雄の魂すら地に落ちたと絶望する光景が目の前に広がっている。
シモンの胸が熱い鼓動を打った。
月氏の末弟の使命感に共鳴するような、躍動に満ちた血の逸りだ。
シモンは腰に絡げた聖鞭を握りしめた。
伯爵が口の端に笑みを浮かべた。こちらは戦いを好む目つきとなって、青年とともに敵を討つ予感に喜びを隠しきれないでいる。
ふたりは崖を飛び越えた。
古の城主と高名なる吸血鬼狩人による征戦が始まった。
終
13/03/01(金)
死門ネタです。
死後の姿があれだと伝えられるのは大変おぞましく、恐ろしいことだと思います。
(骨になっても戦える世界ではありますが)シモンさんの夢後(ぼうご)はもっと穏やかなものでありますようにと願いをこめて。