本の世界にも星は降る。
音もなく流れたそれを見て、青年は口をつぐんだ。人差し指が下がる。
三日月の明かりと星のまたたきを受ける横顔は端正かつ神秘的だ。まっすぐに夜空を見つめるまなざしはくすみがなく、青年の力強さと生真面目さを感じさせる。それを見つめる、すぐそばの、品格のある面立ち。
祈りにも似た沈黙を破るように「それで」と隣の男が話の続きをうながした。伯爵だった。
シモンは「ああ」と気を取り直して、伯爵に眉を下げながらほほえんだ。「どこまで話したかな」
金髪が夜風に吹かれる。楡の木が波のような音を立てて葉を揺らした。
しばらく言葉を失うほどに、その青年は魅力的かつかけがえのない存在として公の網膜に焼き付いた。
容姿、声様、仕草に雰囲気、あの頃となにも変わらないふたりが、ひとつの木立の下で佇んでいる。
「――ケパロスの猟犬ライラプスという名前を聞いたきりだ」
「ああ、そうだったか」シモンはおおいぬ座を指し直し、星にまつわる神話を語って聞かせた。
ライラプスは神により絶対に獲物を捕まえる犬にされていた。おなじ頃、テーバイの町に絶対に捕まらないキツネがいた。悪さをするキツネに困り果てた市民は、ケパロスに犬を借りた。ところがこのキツネもまた神にまじないをかけられていて、絶対に捕まらない運命のキツネとされていた。
追いつ追われつ、決着はつかない。大神ゼウスは両者を石にして、ライラプスを空に上げておおいぬ座とした。
「動機が不明だな」
なにがだとシモンは尋ねた。
「ゼウスはなぜ両者を石にしたのか――君の意見を聞きたい」
「父に聞いた話では、名勝負に決着をつけたくなかったからだと」
「君もそう思うか」
シモンは疑いのない表情でうなずいた。
「純粋なことだ」と伯爵は瞳を伏せた。
別な意見があるのかという表情へ、伯爵は静かに言葉を継いだ。
「決着がついては困るのだよ――捕まっても捕まらなくても、神のまじないが無効となるのでな」
シモンは新鮮な空気を吸い込んだような顔で「そんな見方もあるのか」と呟いた。感心しきりに友の顔を見つめる。伯爵は視線を払うように星空を見上げた。
「その点、わたしたちは神によるまじないはかけられていないようだな。とある時点で決着はつき、君たちは空に上げられぬ――」
君こそは星に讃えられる英雄であるのにと伯爵は呟いた。
シモンは隣をちらりと見て「私たちは犬でもキツネでもないのに、おかしなことを言う」と、微笑を浮かべた。
でも、そうだなと青年は星空を見上げた。
「決着をつけずにいられるのなら、私はお前とともに石になろう。星が願いを聞き届けてくれるのならば、私は新たな役を担うはずだ」
竜公は年若き狩人の真摯かつやわらかな――その射抜くようなまなざしを、ただじっと見つめながら、願いとはなにかを尋ねた。空には引き上げられぬと狩人は笑った。
「もう二度と邪悪な祈りが聞こえぬよう、私の手で、お前の耳を塞いでいられるようにと」
こうやってと、シモンは伯爵のとがった耳を、あたたかい手で包み込んだ。そうして、そのままゆっくりと、公の頭を自身の胸に抱きとめた。顔を寄せて、瞳をとじる。なすがままに、竜公は青年の鼓動に耳をかたむけた。穏やかな、赤い音がした。
楡の木がざわめいて、その葉を散らした。風に流れるような声で青年は呟く。
「お前が眠りにつくことも許されぬ未来など私は」……
1999年、竜公は完全なる滅びを迎える。証人は3名、魔王の生まれ変わりという少年にも出会った。それでも――それだからこそ、青年にとって竜公とは胸の中にいるただひとりの存在を指して他ならない。星にまつわる話に諸説あるように、それはひとつの未来の話として、心の片隅に留めておけばいい。苦悩の果ての静けさが狩人の面に浮かんだ。
竜公は瞳をとじて青年の胸の音に聞き入った。彼の夢を壊さぬように、心地よく頭を抱かれながら。
ひとつの星がまたたいた。
頭上から血潮のような葉音が聞こえた。風の冷たさに震えるように、シモンはきつく目をとじて、肩をこわばらせた。
いとしい肌からぬくもりが奪われぬよう、伯爵は頭を上げて、外套を広げた。
彼を包み込もうとしたその時に、落ち葉が一枚、青年の鼻先にはらりと降りた。公は思わず息を飲んだ。それは自身が何度も夢見た光景そのものだった。
公は青年の顎に震える手を添え、その顔を上向けた。高い鼻で落ち葉を払うように、顔を寄せる。
誓い合うように唇が重ねられた。
永久(とわ)の友愛を、永遠の対峙を。
木の葉が足元へ降りるあいだのほんのひとときに、その誓いは立てられた。
ふたりは見つめ合った。公の表情はひとつの理解を得るに至ったように、青年の目の光を捉えて離さなかった。
「君が星に願ったことは別にある」
表情を観察すればすぐにそれとわかった。
あのとき、星を見るその横顔は誰かの幸福を祈っていた。純粋かつ欲のないまなざしは、火を捧げるかのような清らかな光にあふれていた。
おそらく彼は、相手の願いが叶うようにと、ただそれだけを祈ったのだ。
でなければ、青年の鼻先に木の葉が舞い降りるなど――自身が何百年もの狭間に壁に見た光景が実際に映し出されるなど――そんな奇跡が起こるわけがないのだから。
「ありがとう、シモン」
ありがとうと、万感をこめて、伯爵はシモンをかたく抱きしめた。
青年は抱擁を返し、その胸に頭を寄せた。シモンは竜公の静かな胸のうちに、はるか昔に感じた安らぎを覚えていた。
あぁ、それでも、いつかここを去る日がくるならば、その時こそは自身の願いを叶えよう。
年若き狩人はともに石になり、地の底へ降りる方法を星にも頼らず探すことを心に決めた。
楡の木がざわめく。波のような音が夜風を渡り、星空へ広がる。三日月は尊く輝き、透き通っている。
木の葉の波間を漂うように、かたく抱き合うふたりの影が、落葉の絨毯に色濃い闇を降ろしていた。
終
13/01/30(水)
こんな話を考えていたなぁと思い出させてくださった蓮さんに感謝をこめて。