三日月が照らす古の城。美やかな青い光に包まれたベッドの上で、伝説の吸血鬼はムスッとした顔である。あぐらをかいて耳をふさぎ、窓辺に佇む人物へちらちらと視線を向けている。急かす意味を込めたその目つきを慣れた様子で受け流しながら、シモンは聖水を作っていた。塩と祈りを用いて聖別された水は小瓶に詰められて月光を透かしている。ロザリオを手に唱えられる祈りは吸血鬼には不快きわまりない響きがあり、聖具のかたちも耐えがたい苦しみをもたらすものなので、伯爵はまだかまだかと薄目で様子を伺いながら、耳をふさいで待っていたのである。
不満はあるが、狩りの道具の準備を怠ることは青年の身の危険に繋がるので、伯爵は聖水作りをやめさせようとはしなかった。ひとり部屋を移って聖水を作ろうとしたシモンを「暖炉がきいているんだからここで作ればいいだろう」と押しとどめ、ふいとそっぽを向いたのである。シモンは耳をふさぐ彼を見つめて、胸からあたたかくなった思いを頬笑みに浮かべた。
翌日。一夜をかけて信頼を深めたふたりは、満足した様子で食卓についていた。青年はパンとシチューをもくもくと頬ばっている。伯爵は椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開けた。混沌の産物である悪魔城は電気エネルギーや家電製品を取り込み、時代に合わない生活レベルを古の世界にもたらしている。しばらく中身を吟味した伯爵は、食卓に戻り、シモンの前にある飲み物を置いた。シモンは中身を見てぎょっとした。ワインとも見えないどろりとした赤い液体がグラス一杯に注がれていたのである。「血液じゃない」気にもしていないようにそう言って、伯爵はよく冷えた同じ飲み物を傾けた。ごくごくと言う喉の音も、なぜだか優雅に聞こえる上品な嗜み方だった。一気に飲み干したグラスから口を離し、温みのある息をつく。
「トマトという野菜を絞ったジュースだ。味が好きで、最近よく飲んでいる。君の体にも良いと思ってな」
野菜なのか。目をぱちくりさせながら、伯爵の勢いにつられるようにシモンはグラスに口をつけた。一口飲んで微妙な顔をした。口を離し、眉を下げて、無礼にも舌を出す。その行儀の悪さよりも、青年にも苦手な食べ物があったことに驚いて、伯爵は意外そうな顔をした。「いや、その――すまない」慌てて取り繕おうとするシモンにグラスを置かせて、「無理しなくていい」と伯爵はなだめた。申し訳ない気持ちでシモンは伯爵の空のグラスを見つめていた。
「たぶん、絞る前の状態なら食べられると思うんだが……」
「食感やのどごしが苦手なのだな」
無理もない、野菜を飲み物として出されたのは初めてだろうと、伯爵は別なグラスを置いた。口直しの水を飲み干し、シモンはほっと息をつく。グラスの片側に赤い筋と一緒にたっぷりと残されたトマトジュースを見つめて、伯爵は懐かしむように目を細めた。
「あの子がおいしそうに飲んでいるから気になってな。試しに飲んでみたら思いのほか口に合って――」
「あの子?」「息子だ」「アルカードが?」「いや、違う」
もうひとりいたんだと、伯爵は遠い視線で呟いた。初めて聞く話に声も出ないシモンに、伯爵は続けてこう言った。「いつのまにかいたんだ」
詳細を尋ねていいのかどうかよくわからない顔をするシモンに、伯爵はふふっといたずらっぽく笑った。「ゲームの話だよ」
テレビや無数のゲームを置いてある趣味の部屋で、伯爵はシモンにあるロムカセットを見せた。タイトルは『悪魔城すぺしゃる ぼくドラキュラくん』。1990年10月19日に発売されたファミコンソフトだ。パッケージには白い髪の毛を炎のように逆立てた猫目の少年が描かれている。
戦いの記録を収めた、書物とは違う一風変わったその媒体は、混沌の産物である悪魔城に度々現出して、伯爵とシモンをその世界に夢中にさせた。収集しては記録を確かめ、クリアに向けて共に情熱を傾けるのである。
「君を待ちきれずにひとりでプレイしたんだが、内容を見るにこれは外伝といった戦いの記録でな。この本の世界と同じ、数多ある世界のひとつの伝承なのだろう。一万年ぶりに目覚めたわたしの息子が、魔界を乗っ取った強大なる魔物から魔王の座を取り戻すために戦うという内容で」
「一万年?」
シモンは途方もない数字に宙を見上げて首を傾げた。その年月とカセットに描かれている猫目の少年の似姿をアルカードと照らし合わせて、これまでの伯爵の言葉を理解した。いつのまにかいたもうひとりの息子、どこか別の世界の、遙か未来の物語。伝承をかたちにした組織は、正史と伝えられる戦いの記録を起こした組織と同じところだった。まったくの架空の話ではない、信頼できる筋の品なのだろう。伯爵はかわいらしい説明書をめくりながら感慨深いようにこう言った。
「復活と眠りを繰り返しているあいだにこんなかわいい息子が生まれていたとはな。どこかのわたしはこの子と親子関係にあるのだ。それか、もしかしたらわたしが覚えていないだけで、今もこの城の一室で一万年の眠りについているのかもしれぬ。わたしがわたしでいるうちに再び会うことは叶わなくなってしまったが、この記録を見るに元気でいることがわかって――安心した」
そう遠くない未来に魔王は完全に滅ぼされる。ゲームの中のもうひとりの息子は、偉大な父の座を守り、受け継ごうと、強大な敵に対し奮闘していた。
「プレイしてもいいか」
「明るい雰囲気だが歯ごたえのある内容だぞ。心して挑戦したまえ」
軽妙な音楽がテレビから流れる。シモンはその日のうちにクリアすることはできなかった。また時間が合うときに――そう約束してふたりは別れた。
約束の日はそれからなかなか訪れなかった。伯爵が調子を崩したのである。目に見えての外傷や疾患ではなく、気鬱に近い無気力さが伯爵の胸にたまっていた。一時的なものだろうと考えた青年は、大事にするよう見舞いの言葉をかけて帰ったのだが、症状が変わらぬまま一週間も経つと、図書館にこもって気鬱に関する書籍をあたるようになった。床に伏せって身動きもせずに天井を見つめるだけの彼を、少しでも楽な心持ちにさせられるように。
シモンは魔界の医学と自身の薬草学の知識を合わせて彼に効果がありそうな薬を処方した。
竜の眼肉、魔獣の胆嚢、甘草、木香、ラベンダー。それらを粉にして蜜蝋で固めた丸薬を勧めたのである。
「吸血鬼に効果があるかね」
「少なくとも害はないように作った。試すだけ試してみてくれないか」
服用して三日が経っても効果は見られなかった。ベッドに横たわる彼にシモンは図書館で見つけた書籍の内容を話して聞かせた。
「ウィンチェスター家の話を知っているか? 娘や夫を亡くして悲観に暮れたサラ・ウィンチェスター婦人が、相談に訪れた霊媒師の助言に従い、38年ものあいだ屋敷を増築し続けたという話なんだが――」
伯爵が興味を持ちそうな話だった。銃の製造によって莫大な財を築いたウィンチェスター家。娘と夫を立て続けに亡くしたサラは、ある霊媒師のもとを訪れる。霊媒師は告げる。ウィンチェスター家が代々製造してきた銃によって多くの命が奪われてきた。一家はその人々の呪いを受けているのだと。アメリカ西部へゆき、銃によって命を落とした人々の霊魂のために家を建て続けなさい。もしも建設を止めたらあなたは死ぬでしょう。サラはカリフォルニア州に移住して屋敷の建設工事を開始した。1884年のことである。
「最も高く建設されたときは7階建てだったらしい。部屋を作っては壊し、また増築して、38年のあいだでのべ500を超える個室を作ったそうな。現存しているのは160の個室、47個の暖炉、一万枚の窓ガラス。クローゼットが隣の部屋に続いていたり、床に窓がついていたり――高層階のドアをうかつに開けると外や階下の部屋に落下するという非常に危険な作りになっていてな。ガイドなしには歩けない迷路屋敷だが、そんな珍しい建築物だから、今では観光名所となっているそうだ」
ふだんの伯爵ならさらなる逸話や書籍を尋ねようとするだろう。彼は無言だった。目を閉じて、静かに寝息を立てている。その寝顔はいつもより頬骨が浮き上がって見えた。肉が落ちたのだ。シモンは伯爵の頬に手を添えた。
「おやすみ、ヴラド」
伯爵が目覚めたのは三日後のことだった。ちょうどその時寝室を訪ねたシモンが、武具の音もうるさくベッドに駆け寄った。「起きたか。起きたんだな」
強い眠気が残っていたが、青年に手を取られたので、伯爵は下まぶたに力を入れた。手の感触はあたたかく、いたわりに満ちていた。
「戦いを終えてきたのかね」
「あぁ。探索を終えたあとにいつもここを訪ねていた」
「起きたらこちらから連絡するものを。充分な休息を取っていないだろう」
シャワーを浴びてきてくれ、魔物の血の臭いは起き抜けにはつらい。
言われるままに身を清めたシモンは、バスローブをまとい、横たわる伯爵のもとに腰掛けた。伯爵の視線は床に置かれたシモンの武具に向けられていた。
「聖水を切らしているようだな。火を入れたから、ここで作っていくといい」
ばかなことを、そう言いたげにシモンは首を振った。
「もうここでそんなことはしない」
関係ないさ。関係などあるものか。そう呟く伯爵の声はずいぶんと年老いていた。シモンは伯爵の手を取り、胸に当ててこう言った。「棺まで行こう。私が運んでいくから」
泣くような苦鳴を喉にこもらせて伯爵は左右に首を振った。
「今棺で眠りについたら二度と目を覚ませなくなりそうなんだ」
そう言って伯爵は咳き込んだ。胸をさするシモンに手を貸してもらい、ベッドから起き上がると、小型の冷蔵庫から飲み物を取り出した。トマトジュースだ。グラスに注いだそれを傾けようとしたとき、ふと伯爵は思い出したようにこう言った。
「あの子もよく眠る子だった。一万年の眠りから目覚めたあとのジュースはさぞおいしいものだったろうな――」
一万年の眠りから目覚めたあの少年は今の伯爵と同じように冷蔵庫からトマトジュースを取り出して――。
シモンは伯爵の手首をぐっと掴んだ。確かな力はグラスを置くよう促している。なにをするのか、目線でそう尋ねる伯爵にシモンは怖いほどのまじめな顔でこう言った。
「お前が変調を来すようになったのは、私が見るかぎりそれを飲み始めてからのことだ――しばらくそれを断って様子を見たほうが」
「なにをばかな、これはただの嗜好品だ」
「やめてみてくれ、頼む。関係がないとは思えないんだ」
あまりに真剣なまなざしだったので、伯爵は気圧されるようにしぶしぶとグラスを置いた。かわりに水を取り出して、シモンのグラスにもとくとくと注ぐ。ふたりでゆっくりと飲み干して、伯爵はため息をついた。「喉が渇いた」
鬱屈とした気持ちをさらに重くするような雨が静かに降り始めた。
なにも力が入らなかった。気分と同じく身はぐったりと重く、伯爵は息をするのもつらそうにベッドに横たわっていた。長い時が流れて、雨の音に混じり、柱時計の鐘の音が10回響き渡った。シモンは添い寝をする体勢で伯爵の頬をなでていた。弱々しい声が枕辺にこもる。
「帰らないでほしい」
「うん、帰るつもりはないよ」
シモンは両手で伯爵の頬を包み込んだ。見つめ合い、キスをする。そっと顔を離し、角度を変えて、二度三度。やわらかな唇の感触に、伯爵は今にも泣きそうになって眉を下げた。
「このままでは城も消えてしまうな」
「大丈夫だよ、お前はきっと気力を取り戻せるよ」
「わたしが眠りについたら君もこの世界に留まれなくなるのだろうか。もしも一緒に本の記録から消え去るのなら、今のうちに皆に別れを告げたほうが」
「ヴラド、そんなことにはならないから――大丈夫だから」
「もうすぐ終わりのような気がするんだ」
嗚咽にも似た、消え入りそうな声を上げる彼を、シモンはかたく抱きしめた。
肩甲骨がはっきりとわかる肉の薄さに不安を感じた。中が空洞の老木のようだ。ほんの二週間でこんなに体力が落ちるなんて。
伯爵の頭を胸に抱いて、答えを求めるように瞳を閉じていると、自身のこめかみに音が響いた。熱く流れる血潮の音。赤い鼓動の、生命の音。
シモンの瞳は決意を込めて開かれた。駆け出すように身を起こし、床に置いた武具に手を伸ばす。ナイフを収めた皮の鞘を掴んだところで、その手は見えない力に弾かれた。ナイフはシンプルな音を立てて床に突き立った。伯爵がベッドから身を乗り出し、指先から魔力を飛ばしたのだ。その表情はまれに見るほどに恐ろしく、こわばり、鬼気迫っていた。
「戦いで流されたものならいざ知らず――悲観から分け与えられる君の血の味など覚えたくはない」
「じゃあ、どうすれば――」
シモンは片手で顔を覆ってうつむいた。ナイフを弾かれた手首が痛んでいる。伯爵はベッドから降り立ち、離れたところにナイフを置いた。ふっと息をつき、癖になった動作で冷蔵庫を開ける。「落ち着くことだ。わたしも少々悲観的になりすぎた」伯爵はシモンにグラスを差し出した。「飲むといい。君の体には良く効くだろう」
いつも飲んでいる水だった。特別な薬でも溶かしてあるのかと尋ねると、伯爵は「薬とは違うが」と聞かれるままにこう答えた。
「水素水と言ってな。健康に良い水だそうだ。体に溜まった老廃物を排出するとか」
飲める水ならどれもそんな効果があると思うが――シモンはグラスに口をつけた。なんの変哲もない水だった。なんでも生まれるこの城だ、新しい井戸でも見つかったのかと尋ねると、伯爵はいいやと首を振った。
「あれはそう、二週間前のこと――」
その機械は城の片隅で静かな光をたたえていた。クローゼットのような長方形の鉄の箱。あちこちいじると機械が動作し、中から水が生まれ出た。どうやらスイッチを押すと水が出てくる仕掛けらしい。刻印を見るとあのゲームを作ったところと同じもの。縁を感じてそれを拾ってきたのだという。
文献をあたると遙か未来に作られたもので、機械から生み出されるそれは、水素水と呼ばれるまったく新しい水ということだった。
「君もわたしも健康になるならと思って、食事時にいつも出していたんだ」
健康になった感じはあるか? シモンは首を振り、特に変わった感じはないと答えた。
「そうか。まぁいずれ効果が出るだろう。高値で取引されていたようだからな」
シモンは驚いて水と伯爵を交互に見た。「水に金を取るのか?」
「そうらしい。発汗が良くなるとか、便秘を解消するとか、様々な効能をうたって販売していたらしく、実際に調子が良くなった声もあったそうだから――」
シモンは間違いを正すように慎重に首を振った。薬草学に通じている彼は水に対しても人体に与える影響というものを知り尽くしていた。
「ヴラド、特別に健康になる水など人が作り出せるわけがない。飲用に適した温泉ならまだしも、機械から出るような、そんな曖昧な効能をうたったものなど――」
「しかし刻印にあった日付を見るにあれは未来の産物だから……今よりもはるかに技術が進んだ世界なら健康に良い水というのも作れるのでは……」
「食事時にいつも出していたと言ったな。お前もこの水を飲んでいたのか」
「うむ」
正邪を判別するシモンの直感が危機を告げていた。なんとしても今ここで白黒をつけなくてはならぬ。しかしこれは確かに未来の産物で自分はその時代の知識もない。どうしたら彼を説得できる――。
光の導きのような閃きが働いて、シモンは武具の荷物入れからロザリオを取り出した。伯爵は嫌な顔をして目をそらした。なにをするつもりだと問う伯爵に、シモンは冷厳な声で説明する。
「祈りを捧げるときに欠かせぬ聖なる道具だ。聖性の宿ったこのロザリオは正邪を見極める際にも力を貸してくれる」
そう言ってシモンはグラスの水にロザリオを浸した。
「真に健康に良い水、人のためになる水なら、そしてもしくは適正な手段で取引されている普通の水なら、これは聖性を帯びるだろうが、そこに邪な念が宿っていたら――」
なんのことだと伯爵は薄目で様子を伺っていた。テーブルに置いたグラスはロザリオを沈ませてしんとしている。なにをおかしなことをしているんだ――そう文句を言おうとしたとき、グラスの水が変化を見せた。それはぶくぶくと泡立った。細かい泡はやがて大きな泡となり、グラスを激しく揺るがした。驚き目をみはる伯爵の前で、水は瘴気のような妖しい影を立ちのぼらせた。沸騰、そして怨嗟にも似たうなり。「これは――」身を乗り出そうとする伯爵をシモンが押しとどめて、背中でかばったとき、グラスの水は爆発した。
粉々になったグラスが散らばり、水がしゅうしゅうと蒸発するテーブルの上で、ロザリオは傷ひとつなく輝いていた。
「なっ、なっ、」伯爵はシモンの後ろで腰を抜かしていた。わななく彼にシモンは「やはり」と確信に満ちた声でこう言った。
「不透明な効能をうたって利益を得ていたその邪な念と、ロザリオに宿る聖性が反発を起こしたのだ。ただの水がこのような反応を起こすはずがない」
オカルティズムな判断方法だったが、たしかに普通の水や体に良いものとされている水がロザリオを浸したくらいでこんな強烈な反応を起こすわけがない。
「すると君の考えでは」
「人々の邪悪な祈りで蘇ってしまうお前のことだ。人の邪な念が満ちたこの水を飲み続けて影響を受けないはずがない。さらなる力を得るか、逆に悪影響を受けて力を失うかするだろう。最近のお前を見ていたらどちらの影響を受けたのかは一目瞭然だが」
人々のあいだに流通するうちに、水はその性質を変えたのだろう。
伯爵が二度と活躍できなくなるほどの邪な念を、その成分に宿すようになったのだ。
不可解な状況が晴れるように、雨はいつの間にかあがっていた。
数日後。
月明かりが射す青い天守の窓辺で、魔王と狩人は伝承に語られる壮健な姿で話をしていた。
「息子に水素水のことを尋ねてみたら、『あのようなもの』と怪訝な顔で注意を受けたよ」
水素水が発売される時代からさほど変わりのない、近未来の知識を持っているアルカードは、その商品の信憑性のなさを伯爵に重々話して聞かせたのだった。親が詐欺に遭わないように注意をする息子の立場で。
販売されている水素水の多くは国の定める安全性や有効性の基準を満たしておらず、健康効果は実証されていないのだと、厳しく、心を砕いて説明したのである。
これまでのことに納得いった伯爵の表情はとても清々しく、気力に溢れて見えた。水素水を断った伯爵の眠りは健やかなものに変わり、肉体も元の美しい肉付きを取り戻したのである。
ふっと穏やかなほほえみを浮かべて、シモンは伯爵の手を握った。見つめ合い、口づけを交わす。額をそっと合わせて、ふたりは親密な声で囁いた。
「遅くなったが、これで約束の日を迎えられるな」「うむ」
テレビから軽妙な音楽が流れている。ゲームを収集した趣味の部屋で、ふたりは戦いの記録を確かめていた。ゲームタイトルは『悪魔城すぺしゃる ぼくドラキュラくん』。何度目かのコンティニューのあと、ふたりはエンディングを迎えた。宇宙帝王ガラモス・キングを討ち果たしたドラキュラくんが、大魔王の座を受け継ぐのを見届けたふたりは、歓声を上げてハイタッチをした。年齢に見合わず、ゲームクリアに関してはふたりとも素直に喜びを表すのだ。エンディングロールをしみじみと眺めていると、最後の最後で、ふたりはきょとんとした表情になった。そこに表れたメッセージ。
『でも うかうかしてたら ムチつかいのおにーさんが やっつけにくるかもしれないヨ。』
ふたりは顔を見合わせた。どちらからともなく笑い声がこぼれる。
「一万年を過ぎても君の一族や親類は健在のようだな」
「私も安心した。そうか、期待させる終わり方だな」
達成感を胸にふたりはスイッチを切った。カセットを箱にしまうとき、シモンはある記号をじっと見つめた。この記録を作った組織のロゴマークである。表面に記載されたそのマークを見て、シモンはぽつりとこう言った。
「こんな良いゲームを作るところが、なぜあんな水を売り出したんだろう」
伯爵も同じことを思っていた。考えてもわからないので、伯爵はテレビを消した。
「また新たな記録を生み出してほしいな。熱意と誠意に満ちたおもしろいゲームを」
うむ。そう答えて伯爵は立ち上がった。伸びをして、首をまわす。あぁ喉が渇いた。もう一杯、あれを飲もうかな。
冷蔵庫からトマトジュースの缶を取り出した伯爵に、シモンは眉をしかめながら「飲み過ぎじゃないのか」と注意した。見るかぎりこれで5杯目だ。
「食塩が入っているタイプじゃないか。無塩でも野菜自体に含まれる塩分があるんだから、そんなにごくごく飲んだら人でなくとも悪影響が」
「吸血鬼になにを言う。塩分を多量に含んでいる血液を糧としているのだぞ。聖別されていない塩をいくら摂ったところで痛くもかゆくもないわ」
ジュースを手に伯爵は窓辺に行った。空気の入れ換えを行おうとしたとき、月明かりに照らされたその姿を見て、シモンはこわばった表情になった。乾いた声音で伯爵に尋ねる。
「お前、そんなに肌が黄色かったか?」
月明かりのせいではないようだった。いつもの白蝋のような神秘的な肌の色味が、まだらに黄色くなっていたのだ。白地に広がる黄色い模様――カレー皿に残るターメリックのような色だった。
あとでアルカードに尋ねたところ、肌が黄色くなったのは、トマトジュースに含まれるカロテノイドが原因ではないかと告げられた。美白の効果もあるトマトジュースだが、成分に含まれるカロテノイドを過剰に摂取すると、副作用として肌が黄色くなる柑皮症という症状が現れるのだと。体に悪い病気ではなく、治療も簡単で、カロテノイドの摂取をやめれば自然と肌の色も元に戻るのだが、そんなことは知らないふたりは大騒ぎになった。鏡で肌の症状を確認することもできない伯爵は、黄色い肌を青ざめさせて身も世もなくうろたえたのだ。
「もう寝る! 百年眠りについて誰にも会わない!」
「落ち着いてくれ、きっと治療法があると思うから――」
「なぜ次から次へとおかしな症状に見舞われるんだ。ふだんから苦手なものが多くてうんざりしているというのに、一体わたしがなにをしたというんだ。吸血鬼は地球にいてはいけないと言うのか! 死神! 死神はどこだ! あいつめ、いつもわたしが苦しんでいるときに留守にして――」
ばたばたと騒がしい趣味の部屋、その階下のある一室へ振動による埃が舞い落ちた。灰色の細かいちりがパラパラと小さな棺桶に降り積もる。コツコツと続けていた百年ぶりの掃除に邪魔が入って、死神は呆れたように階上を見上げた。棺に降りかかった埃をはたきで払う。死神は部屋の管理を担っていた。遙か遠い未来にも悪魔城を存続させるこの棺の主が休む部屋は、何者にも秘密にして守らなくてはいけないのだ。掃除は完璧とは言えないが、呼び立てを受けたので行かねばならない。死神は三角巾を外して、名残惜しい様子で棺の主に声をかけた。
『おやすみなさいませ、ぼっちゃま』
棺の中で寝ている白い髪の少年は、階上の騒ぎを感じて、うるさそうに顔をこすった。しばらくむずがっていたが、なじみのある死神の声を聞いて、安心したように寝息を立てた。むにゃむにゃと呟き、寝返りを打つ。
狭い棺の中で器用に身を丸ませるその姿は、目元の表情とあわせて、まるで長い眠りにつく猫のようだった。
終
16/06/07(火)
なんだか色々とギリギリな話になりましたが、フィクションとしてご容赦頂けると幸いです。
実際の各関係者、企業、団体様とはなんの関係もありません。
水素水にロザリオを浸しても爆発しません。
ウィンチェスター家の話は伯爵様が好きそうだなと思いました。
うちんとこの伯爵様は長年の戦いと眠りでドラキュラくんに関する記憶が曖昧になっているという設定です。また、やっぱりアルカードとは別人なのかなと思いまして。同一人物という設定の作品も楽しく拝見させて頂いています。
『悪魔城すぺしゃる』、作品としては外伝ですが、一万年後にもちゃんと悪魔城はあるんだなと思うと安心しますね。