青年との久しぶりの逢瀬だというのに、古の城主は私室にこもって縫い物に没頭していた。
ストールの端にけしの花とチューリップのモチーフを赤い糸で編み込んでいる。
トランシルヴァニアの伝統刺繍、イーラーショシュだ。ボタンホールステッチで密に刺すことによって、絵の輪郭を縁取りしたようなエッジのきいた仕上がりになる。
亡き妻から習い覚えた刺繍の腕前は100年の復活ごとにめきめきと上達し、製作する様々な品は展覧会に出品しても恥ずかしくないほどの出来になった。そんな彼の刺繍熱を再び呼び覚ましたのは、衣類の破れ目をそのままにしようとした、年若き狩人の危うい態度だった。
「シモン、スパッツが破れているぞ」
伯爵から向かい合うかたちでソファに座っていた青年が、うぅんと伸びをしたところでその破れ目に気づいた。外側ではなく内腿の部分がぱっくりと大きく裂けている。
たくましい体を持つこの青年は、敵の攻撃を受けるよりも、自身の肉厚で衣類にダメージを負うことが多い。今回も股ずれの一種で寿命を迎えたのだろう。
肌の露出に気づいたシモンは「あぁ、すまない」と言って脚を閉じた。見苦しいものを見せたというように「そろそろ捨てようと思っていたんだ。替えの品を買わないとな」と苦笑した。帰りに店に寄るつもりらしい。
「その格好で出歩くというのか?」
伯爵は返事を待たずに、「いかん、いかん」と首を振った。自分も青年が脚を開くまで気がつかなかったが、何人たりとも、この狩人のむっちりとした内腿を、その色味を見せるわけにはいかなかった。黒地から覗くまぁるい肉色は伯爵を動揺させるには充分の破壊力があった。あそこはわたしだけが見ることのできる秘密の色。「普通に歩いていればまず気がつかれないと思うが」と言う青年の言葉を無視して、伯爵は裁縫道具一式を取り出した。
そういったことがあって古の城主は裁縫の楽しさを思い出した。
青年の下半身を裸にさせてゆっくりと縫い物をしたのはほんの二週間前のことである。
シモンは恥ずかしそうに腰に毛布を巻いて、伯爵が縫い終わるのを待っていた。今も待っている。あの時の色気のある表情とは違って、どことなく不満のこもった、退屈そうな顔で。
「お祝いを終えて、ようやっと会えたというのに、お前は縫い物にかかりきりなんだな」
青年にしてはめずらしく、率直に文句を言った。
戦いの記録であるゲームソフトの発売日、その30周年祝いで、ふたりは皆とともに盛大な宴を開き、その主賓として、忙しい日々を送ったのだ。
あの日だけは敵味方関係なく、それこそ本の世界でだけというような、ありえないほどに豊かな交流を交わすのだ。準備や後片付けも例年の倍はかかり、ふたりは一時の休息を経て、久々のゆったりとした時間を過ごしていた。それは片方にとっては望むものではなく、文句の言葉を口にしてしまうほどの手持ちぶさたな時間だった。
なんのために縫っているのか教えてもくれないし、やめようともしない。
気を利かせて帰ろうとすると、気難しい咳払いを喉の奥でこもらせて、退室を留めさせる。
それならばとかまおうとすると、迷惑さを隠しもしないで睨むのだ。
つまり彼が望むのは、君にはかまわずに裁縫をするが、ひとりになるのは嫌だからここにいろという、なんとも身勝手なものだった。
至極最もな不満を受けた伯爵は、こまごまとした裁縫道具からいくつか取り出し、青年の目の前に並べた。
ベージュ色のリネンとコットンの赤い糸、そしてシェニール針。
伯爵はガラスペンを取り出して、先端に青いインクをつけた。
「君も裁縫をやってみればいいんだ」
それなら同じ時間を過ごせるぞと言いながら、伯爵は手慣れた様子で、布に図案を描いていった。
そんなわけでシモンは鳥とりんごモチーフのバゲットケース(パン入れ)を縫うことになった。
刺繍が終わったら細かい部分は仕上げてやると伯爵に言われたのだが、30㎝長ある布にりんごの葉を縫ったところで、早くも気力が萎えてきた。
傷の縫合や衣服の繕いとしての裁縫技術は身につけているが、こういった彩紋だけを縫うのはどうしても根気が続かない。
気力だけならまだしも、シモンは体型的にも問題があった。
細かい作業をするために前傾姿勢でいるのだが、分厚い胸板に阻まれることによって、脇や腕が圧迫されると、次第に息苦しくなってくる。
そしてイーラーショシュ定番の赤一色の糸がシモンの視界をチカチカとさせた。
ただでさえ目を酷使する作業が、刺激の強い色を長時間見続けることによって、今までに感じたこともない疲労感を覚えさせたのだ。
こんな大変な手仕事を黙々とこなす女性達はなんとすごいのだろう。
幼い頃、結婚式のときに見た晴れの日の衣装、あれも薔薇や螺旋模様が密に並んだすばらしい刺繍だったっけ……。
苦痛の色がにじむシモンの様子を見て、伯爵はふっと仕方ないように息をついた。
慣れない作業でだいぶ目が疲れているようだ。狩人が目を悪くしては命に関わるな――そう思った伯爵は「無理をしないで休憩したまえ」と声をかけた。「視力が落ちるかもしれん」
自分でも目の疲れに不安を感じていたシモンは、伯爵の言葉を受けて堂々と休憩することにした。人間向き不向きはあるものだ。戦いに支障を来すようなことはするべきではない。そう思ってソファに寝転がり、目をつむった。よほど嫌だったのか、横になる前に裁縫道具一式を遠ざけて。
シモンは長く深く息をついた。
自分と違って、彼は手芸だけでなく、ほんとうに様々なことを習熟している。
種としての有閑を慰めるために興味のあることはひととおり試したのだろう。
馬で駆けたり、城を増築したりと、野外(?)で大胆に楽しむ趣味のことは知っていたけれど、刺繍という繊細で根気の要る作業も好きだとは意外だった。
でもなんとなく彼らしい。
城の増築よりも刺繍の一針のほうが自分が手がけている感じがして好きなのかもしれないし、どちらも物作りの楽しさを味わえるだろうから。
一度決めたらどんなことでも最後までやり遂げる性格は、根気のいる創作活動に向いているのかもしれない。
それが原因で作業中はほとんどまわりを顧みることはないのだけれど……
シモンはまぶたをもみながらそんなことをつらつらと思った。
シモンが横たわっているあいだにも、伯爵は黙々と作業に没頭していた。
その様子をちらりと見て、シモンは疲れたように目元を片腕で覆った。
一緒にできることがあればいいのにな。
なんでもとは言わないけれど、できることなら共に楽しみたい。
ヴラドが刺繍に夢中になるずっと前のこと、あれは真夏の盛りだったか――シモンはある夜の夏の光景を思い出した。
青空を探しに一台のピックアップトラックに乗って旅に出かけたことがある。
狂気の画家が支配する世界で手に入れたその車は、配下にも手入れの仕方がわからない未来の産物だったので、結局伯爵自らがメンテナンスを行ったのだ。
旅を終えて砂埃まみれになったその車を、ふたりは水洗いすることにした。
この城主の手にかかれば水道を引くのも造作ないこと。
ホースからじゃばじゃばとあふれ出る水を見て、ふたりはわけもなく気分が高揚した。
マントも鎧も脱ぎ捨てて、サンダル履きの身軽な格好で車を洗う。
スポンジを手に取り、カーシャンプーで泡立てて、むらなくこする。
シモンは特によく働き、ボンネットに身を乗り上げて、窓ガラスを綺麗にした。
豊かな胸は泡だらけになり、たくましい腕は洗剤のぬめりで虹色に濡れ光った。
月明かりを受けてこの美しさなら、太陽の光を浴びた青年はどんなに健康的で、輝かしく、エロチックに見えることだろう。
伯爵はしばらく車体をこするのも忘れて、泡で濡れそぼった青年の、その透けた胸元に見入っていた。
タンクトップはぴったりと肌に張り付き、淡い色の突起を浮き上がらせている。
伯爵はホースで水をかけた。
車体の泡を落とし、片側にまわりこむついでに、シモンにも水をかけた。わざとである。
「こら、なにをする」と声を上げるシモンに「洗剤は肌を痛めるぞ。痒くなるのを防いでやってるんじゃないか」と悪びれずに言った。
そして青年のタンクトップを胸元から引っ張って、その谷間にホースを入れた。
わぁきゃあと騒ぎながら、互いに水を浴びせることに夢中になった。
ホースを取り合って先端をつぶしては、勢いのついた水流を顔面に浴びせる。
シモンは胸元にホースを突っ込まれたお返しに、伯爵の膝までまくりあげたスラックスに水の管をねじ込んだ。
尻が水浸しになる衝撃にわめきながら飛び跳ねる伯爵を見て、シモンは大声で笑った。
最終的にはホースを奪われてなるものかと、至近距離でホースをつかみあい、体の合間で水流の主導権を争った。
互いの胸元に挟まれるかたちで、じゃばじゃばと水を噴き上げるホース。
早口に小さくののしり合う声は、お互いの距離に気づいたように、目と目が合って、しんとなった。
最初に熱を感じたのはどちらだったか。
見つめ合う視線に変化が生じた。
ホースをつかむ手が重なっている。
自分のほうへ引き寄せようとしては、力をゆるめて、互いの胸元を行き来させる。
あふれ出る情愛とひとときの切なさ。
甘くふざけ合うまなざしを絡ませて、かたちばかりの奪い合いをしながら、ふたりはキスをした。
絶え間ない水音が今も耳に残っている。
ボンネットに寄りかかり、ホースを手放して、満天の星空の下、ふたりは冷えた体をあたためあった。
寝息を立てるシモンを見て、伯爵は縫い物の手を止めた。
魔力を飛ばし、暖炉に火を入れると、寝床から毛布を持ってきて、青年を起こさないよう、肩口まで丁寧に毛布をかけた。
そして椅子に腰掛け、再び刺繍に没頭した。時計の音を気にするように、前よりも早い手つきで。
その日は結局、伯爵の城に泊まることはなかった。
長時間の刺繍で疲労を覚えた伯爵が「すまないが今日は休みたい」と、夕食の席でシモンに告げたのである。
「あぁ、それならすぐに帰ったのに」と眉を下げて言うシモンに対し、伯爵は
「散々付き合わせて夕食も振る舞わずに帰せるものか」と、力強いながらもしょぼしょぼとした目つきで言い、一度きつくまばたきをした。充血している。眉間をぎゅっと指先で押さえて、伯爵は軽く頭を振った。「少し休んだら送っていこう。遠慮はさせないからな」
こうと決めたら曲げないのだ。それをわかっているので、シモンはステーキ肉を頬ばりながら「うん」と返した。
秋の夜空はよく晴れていた。もう少ししたら息も白くなるのだろう。
伯爵の歩調に合わせていつもよりゆっくりと歩いていたシモンは、遠目に映る、狩人たちの居住区の明かりを見て、ぬくもりを感じたように息をついた。
「やっぱり良いな。家の明かりというものは」
あれは暖炉か、それともシャンデリアの明かりか。
小窓から覗く小さな明かりは種々多様な燭台の炎なのだろう。
月明かりのもと、城のほのかな明かりは、時折静かに揺らめいては、あたたかな色合いを夜闇に美しく浮かび上がらせていた。
「ロウソクの明かりも好きだったな、君は」
「あぁ、ロウソクは良い。戦いが終わってしばらく経ったある日、家々のロウソクの明かりが増えていくのを見て、実感したものだ。これから穏やかな暮らしが始まるのだと」
人々の豊かな暮らしを、世の光を象徴するものとして、青年はロウソクの明かりが好きだった。
ほのかに、やさしくあたりを照らし、暗闇の中にある人に、安らぎや喜びをもたらす小さな光。
その光を潰えさせようとした存在と、今では並んで夜道を歩いている。
シモンは城門に来たところで「少し休んでいかないか」と伯爵に声をかけた。
こちらも夕食の席の彼と同じく、こうと決めたら曲げない意志の強さで。
伯爵は招かれるままにラウンジのソファに腰をかけた。
お茶を淹れようとするシモンをソファに押しとどめて、伯爵は見えないように外套の下に携えていた紙袋を取り出した。
ワンポイントのリボンが飾られている。
伯爵はそれを無言で青年に差し出した。
シモンは贈り物を前に驚いた表情をしていたが、何も言わずに受け取って、中身をあらためた。
不思議な力に導かれるように開いた紙袋の中には、伯爵が今日まで編み込んでいたストールや、手袋、鎧下のほか、青年が途中で投げ出したバゲットケースの完成品が入っていた。
幾何学調の植物模様、左右対称形の鳥と矢羽、太陽を思わせる大輪の赤い薔薇……
どれも緻密な美しい刺繍が施されていて、その力強い縫紋(ぬいもん)にはなんらかの意味が込められていることが見て取れた。
「魔除けの印は縫えなかったが、かわりに身体能力を高めたり、幸運を呼び寄せる印をそれぞれに縫い上げてみた。これからも君の健闘を願っている」
遅れたが、誕生日おめでとう――。
心からの祝福に満ちた声だった。
まなざしも、優雅に腰掛けるその姿も、穏やかな慈愛に満ちていた。
「あぁ」シモンは贈られた品々を手に取り、感嘆の声をもらして顔を上げた。
なによりもあたたかい灯を目にしたように、伯爵を見つめるまなざしがじわりと潤む。「私はお前のしていることにも気がつかずに呑気な振る舞いをして」
「当日までに用意できなかったわたしが悪い。許してくれ」
「許すも許さないも――あぁ、ありがとうヴラド」
ふたりは抱擁を交わした。
表情に、心に、ほのかに広がったぬくもりを全身で共有する。
肩口からはまだ秋の風の匂いがしたが、互いの思いを込めた頬ずりを交わすうちに、それは嗅ぎ慣れたあたたかい匂いに変わっていった。
嬉しさで満たされた体を解き、改めて彼に贈られた品を見つめて、シモンはその見事な出来映えにため息をついた。
「それにしても素晴らしい刺繍だ。お前の技がこんなに凄いものだとは――」
「長い時を忘れるのにぴったりの趣味が、続けていくうちに人より上手くなってな――……見せる相手もいないから、こんなときにしか披露できないのだが」
「他にも作品があるんだろう? もしよければ、見せてほしいな」
「見たいのか? ――本当に?」
伯爵は驚いたように目を見開いた。
青年の気持ちが嘘偽りでなく、興味に輝いているのを見て、伯爵は今までに感じたこともない喜びを覚えた。胸が躍るという気持ちだ。
イーラートソクのクッション、クロスステッチのタペストリー、カウント刺繍の敷物――見せる機会のなかったトランシルヴァニア伝統の刺繍作品をこの愛しい青年に披露することができるのだ。
きっと、きっと青年を驚かせ、楽しませることができるに違いない。
今以上の賛辞や感嘆の言葉が聞けると思うと、伯爵はいてもたってもいられなくなった。
すっくと立ち上がり、伯爵はシモンの手を引いた。
え、と驚くシモンに、伯爵は目の疲れも忘れてこう言った。
「ならば行こう。大丈夫だ、今度は竜に変身して君を乗せて行く。ひとっ飛びで城に着くぞ」
「え、え、今から?」
「誕生日プレゼントを用意するためとはいえ、君をほうっておき過ぎたからな。埋め合わせをしよう! 嫌と言うほどかまってやる、遠慮することはないぞ」
贈り物を元通り紙袋に詰め込んで、伯爵はシモンを連れて外に出た。
青年はわけもわからずにしっかりと紙袋を抱えている。
「急すぎるだろう」「明日にしないか」というシモンの声も伯爵には聞こえなかった。
これから過ごす時間を思って、伯爵はひとり、期待と喜びに胸をふくらませた。
まずは空を楽しませてあげよう――それから、そうだ、気に入った作品があれば贈り物に加えて、彼の名前も縫い取ってあげなくてはな。ベッドの上でも誠心誠意愛を交わして、何時間でも可愛がってあげるんだ。あぁ、力がみなぎってきたぞ――。
こうと決めてしまった友達思いの竜公は、古の城がそびえ立つ方角の、美しい三日月を見上げて、大やかな羽を広げるのだった。
終
16/10/28(金)
約一ヶ月遅れの誕生日話です。
幽閉生活での手慰みに刺繍を習い覚えたとされるヴラド公の話を聞いて、いくつか本をあたりまして……
それらしい記述はほんの少しで、曖昧ではありましたが、でもその逸話はおいしいなと思い、誕生日話に盛り込みました。
モデルの人物のエピソードをどこまで悪魔城世界の伯爵様に引用していいのかわかりませんが、なんだか伯爵様だったらのめり込んでやりそうだし、リサさんに教わっていたらと思うとかわいい気がして。
トランシルヴァニアの伝統刺繍を縫っていたのかどうかもわからないのですが、ほんとうに力強くてかわいい刺繍なので、ぜひとも伯爵様にちくちくしてて欲しいなと思いました。