魔王とネズミ

 古の城の主は思念によって私室に呼び集めた夜の生き物たちの姿を見渡した。
 コウモリ、狼、キツネに梟、蛾がいることをそれぞれ確認したが、いつも真っ先に駆けつけてくる小さな獣の姿が見当たらない。
 おかしいなと頭をめぐらせると、その頭頂部になにかが落ちてきた。天井の壁の穴を通って必死に駆けつけたのであろうネズミがシャンデリアから落下したのだ。
 バランスを取ろうとして慌てて頭の上に駆け上るその灰色の生き物を、伯爵はそっと手でつまんで机の上に置いた。
 怒る様子も見せずにネズミの顎の下を指でくすぐっている。
 
 古来から棺での眠りを護る獣として、伯爵はネズミを珍重してきた。主の眠りを脅かすものには地面を埋め尽くす群れとなって侵入者に襲いかかる。かわいらしい容姿に秘めた攻撃性と、なにもかもを囓り尽くす獰猛な部分が伯爵に気に入られており、多少の無礼は見て見ぬ振りをされるのだ。そういえば壁の補修作業をしたばかりだったなと、伯爵は今回の遅刻も許すことにした。
 
 さてと伯爵は集まったものたちを見渡した。
 狼、コウモリ、ネズミに梟、蛾やキツネといった生き物が伯爵のことを見つめている。
 伝説の吸血鬼である悪魔城の主は、その神秘的な能力のひとつとして、自分より下位のもの、夜に属する生き物たちにあらゆる命令を下すことができるのだ。
 主の用件は手紙を届けさせることだった。
 自分と同じ時代にその名を馳せたひとりの狩人に散策の誘いを綴った手紙を届けるのが今回の招集の目的なのだが、無事に完遂できるものはと、伯爵はしばしのあいだ考えた。考えるふりをしていた。最初からこの役目を負わせるのはコウモリが適任と考えていた。獣たちが病気でもしていないかと様子を見る目的でもあったのだが、指示を受けるのを心待ちにしている獣たちのくりくりとした目で見つめられるのが伯爵にはとても快く、こうして誰を選ぶか考えているあいだ、獣たちのピュアな視線を集めて楽しんでいたのだった。
 
 ひとしきり満足したあと、コウモリに手紙を託した伯爵は、招集した獣たちにそれぞれ丁寧な愛撫を返して、解散を告げた。
 棺に戻った伯爵は狩人からの返事を待つあいだ、期待を胸に眠ることにした。
 思い起こすのは散策の目的の地である美しい湖のことだった。
 領土拡大のために周辺地域の地理を把握しようと、この本の世界の記録外の土地を探索したときに、カシの木々が群生する森の中で広大な湖を見つけたのだ。
 三日月が銀の小舟のように映る蒼黒の湖面を年若き狩人とともに眺めて、その光景の美しさを分かち合いたいと思っていた。
 コウモリが持ち帰る手紙にはなんと書かれているだろう。
 きっと簡潔な文章で快い返事が綴られていることだろう。
 あぁ出発の日が楽しみだ。
 
 手紙には簡潔な文章で断りの返事が書かれていた。
 
『すまないが早急に対処しなければいけないことが起こったのでともには行けない』

 返事を読むやいなや伯爵はマントを翻して城を出た。
 狩人たちが集う別の城に到着した伯爵は、シモンを見つけるなり「どういうことだ」と説明を迫った。「見ての通りだ」とシモンは手をひらめかせて食料庫の惨状を伯爵に見せた。
 なじみの深い狩人の血の匂いを追って夢中でたどり着いたそこは、城内で集めた食料を保存している貯蔵庫だった。
 パンはすかすかの穴だらけ、ワイン樽からは細かい噴水があふれ出し、肉は無惨に食いちぎられたうえに異臭を放って見るかげもない。チーズは欠片があるばかりで、棚に空洞を生んでいる。豆も穀類も袋を破られ、米はちりぢり、野菜はばらばら、調味料入れの瓶はほとんどすべてが割れていた。
 
 柱に残った歯形を見て伯爵はむうと眉をしかめた。ネズミの仕業だった。シモンが床に散らばったレンズ豆をちりとりとほうきでかき集めながら重い息を吐いた。
 
「大量に増えたネズミによる被害が深刻なものとなっていてな。皆と害獣を駆除するべく対策を練っているところなんだ。すまないが、この件が解決するまで遊びには行けない」

 ジョナサンとリヒターが木材を抱えて戻ってきた。ネズミの侵入を防ぐための補修作業をするのだろう。シャーロットとヨーコは食い荒らされていない食料を分別している。残りの面々は掃除に従事しており、風魔はネズミ用の毒餌を作っていた。ネズミ取りの罠を仕掛けることも検討されたが、ひとまずは穴を塞いで毒餌をまくことにしたという。
 話を聞いた伯爵は困惑したように眉を下げた。
どうりで最近ネズミたちが丸々としていると思ったら、そうか、貯蔵庫に目をつけたのか。それにしてもそんなに増えているとは知らなかった。
 シモンとともに遊びに出かけたいが、解決が難しそうな問題だ。彼と親しくなる前ならこの災禍も快い気持ちで眺めていたことだろうが、今はそうもいかない。
 なによりネズミたちが毒の餌で殺されるかもと聞いては自身がなにも行動を起こさないではいられなかった。
 
 シモンと別れた伯爵は城の裏手の雑木林に移動した。
 ようするにネズミたちを食料庫から遠ざければよいのだな。
 そう考えた伯爵は、瞳をとじて、ある力を働かせた。
 城全域に及ぶほどの思念は、物陰に潜んでいた小さな獣たちをざわめかせた。壁や天井、棚や地中からその姿を次々と現していく。
 灰、白、茶、そして黒――色とりどりのネズミたちは脇目もふらずに城の裏手の雑木林へと駆けてゆく。
 伝説の吸血鬼としての(小指を動かす程度の)能力である『自身より下位の獣たちに下知する力』を働かせ、伯爵は城のはなれに大量のネズミたちを呼び寄せた。おぞましいほどの数だった。
 城の廊下に誂えた赤い敷物をまだらに染めればこの長い列に似たことだろう。小さな獣たちに親しみを感じている伯爵も思わず総毛立つような無数の暗いうねりが耳障りな鳴き声とともに足元に大量に集まってきた。
 伯爵が唇の前に品良く人差し指を当てるとネズミたちはぴたりと鳴き声を止めた。
 皆が行儀良く伯爵を見上げて指示を待っている。
 その数に驚きはしたが、やはり一匹一匹はかわいい存在だ。
 伯爵は狩人に気づかれないようにと、人差し指を唇に当てたまま、大股で歩き始めた。
 ネズミたちはそのあとをついていく。
 まるで心を操る音楽に誘われているようにネズミたちは伯爵に連れられてその地をあとにした。
 
 伯爵は本の世界の様々な場所にネズミたちを放逐した。
 狩人たちの食料庫でなくとも、この世界には無限に生まれる食料があちこちに点在している。
 壁を壊せば肉が出るようなところだ、飢えることはない。
 狩人に屠られた魔物も、この小さな獣たちがきれいに掃除してくれることだろう。
 狩人たちの食料庫には今後近づかないことと言い渡した伯爵は、満足したように自身の城へと帰っていった。
 これで二、三日もすれば今まで通り喧噪に満ちた日常が戻ってくることことだろう、そう考えて棺で眠りについた。
 
 三日後、再び狩人のもとを訪れると、以前に会ったときよりも厳しい顔をしたシモンが重々しい様子で出迎えた。湖の件を尋ねようとする伯爵に対して、シモンは「すまないが」とため息まじりに首を振った。
 
「食料庫の被害は不思議とぴたりと止んだんだが、ネズミたちが散らばったのか、探索する地の貴重な食料が食い荒らされるようになったんだ。これでは戦いもままならない――事態は今までよりも深刻なものになった」

 なんとかネズミの害を減らそうと皆で対策を練っていてな――そう聞いた伯爵はいつもより顔色を悪くして、別れの挨拶もそこそこにその場を立ち去った。
 
 まずいことをしたものだ、とにかくあちこちに放逐したネズミをまた集めなければ――しかしそれからどうしたものか。
 
 伯爵は図書館でネズミに関する本を読みあさった。
 どれもこれも食害や病気に関する深刻な被害を記したものばかりで、はるか未来の時代では生体実験に使われたり、地雷という兵器の発見、駆除に活用されているといったことが書かれていたが、この世界で役に立ちそうな情報は見当たらなかった。とにかく人にとっては害でしかない生物だから、徹底した駆除が望まれると。
 ネズミ退治が印象的なある伝説を記した本を読んで伯爵は苦悩した。
 
 ドイツのとある町でのこと、深刻なネズミの被害に悩まされていた市民は、町を訪れた奇妙な男にネズミ退治を依頼する。自らを『ネズミ捕り男』と称したその人物は、笛を取り出し、謎めいた音を吹き鳴らした。音楽が町中に響き渡ると、すべての家々からネズミたちが走り出して男のまわりに群がった。笛吹き男はネズミたちを不思議な笛の音でヴェーゼル河まで誘い出して、一匹残らず溺死させた。しかし市民は男との約束を破り、報酬を支払わなかった。男の怒りを買ったハーメルンの町は、その後、ある悲劇に見舞われる……。
 
 伯爵は本を閉じた。
 河ではないが、模倣できるような広大な湖を最近見つけたばかりだ。
 肩を落とした様子で図書館を出た伯爵は、あちこちに放逐したネズミたちを再び自身のもとへと呼び寄せた。
 ネズミたちはいつもと同じように、くりくりとした黒い目でこちらを従順に見つめている。餌に困っているのか、数が減り、体躯はひとまわりほど小さくなっていた。
 伯爵は眉を下げた。よかれと思ってしたことが、ネズミたちにとっては厳しい環境に差し放しただけのようだった。そして今からもっと惨いことをするのだ。
 伯爵は森の中へと入っていった。ネズミたちはあとに続いていく。
 どんな魔物よりも狩人たちに壊滅的な被害を与えるであろう恐るべき小さな生き物たちを引き連れて、伯爵は森に、その中心にある広大な湖へと歩みを進めていった。
 
 城を水上に建設しても悠々と船を渡せるだろうその場所で伯爵は立ち止まった。後ろを振り返ると山々を彩る豊かなアカガシの森が広がっている。足元にいる忠実なネズミたちは、伯爵の指示を待ち疲れたのか、落葉とともに地面を埋め尽くすどんぐりを夢中になって囓っていた。
 湖に視線を戻した伯爵は、三日月が映るこの雄大な景色をともに分かち合いたいと思った狩人のことと、後ろで必死に木の実を食べるネズミたちのことを考えた。

 二度とこの地を美しいなどと思えなくなる行為をするべきか?

 風が吹いて、湖上の三日月が揺れた。
 伯爵は肩越しにネズミたちのほうを見やって『行け』と命令した。もう指示は聞かなくてよいとも。
 ネズミたちは音も無く立ち去る伯爵の後ろ姿を見ながら、丸々とした木の実を囓り続けていた。
 
 激しい足取りで自身の城へと戻った伯爵は机に向かうなり新たな増築に関する計画書を作図した。
 古来から棺での安眠を護る獣だ、この天守で飼い慣らすためのスペースを作ろう――死神になんと言われようとも無理やりにでも設置するのだ、少しくらい無茶な増築をしてもあのネズミたちを全員入れられるほどの部屋をこの天守に――。
 
 無謀な計画は伯爵の頭を大いに悩ませ、三日三晩の魂を削る考案の果てに、伯爵は死神の看護を受けた。机に突っ伏して意識を失っているところを死神に発見され、棺へと運ばれたのである。
 
 体調が回復した伯爵はひとまず狩人たちの様子を見ようとシモンのもとを訪れていた。無謀な計画書を見た死神にこっぴどく叱られ(無理を心配した死神の計らいにより)、気分転換にと外出を勧められたのである。
 久しぶりに見る狩人の顔は晴れやかだった。その後どうだと尋ねると、あぁと気分良くシモンは答えた。
 
「探索のたびにあちこちにまいた毒餌が効いたものか、食害がぴたりと止んでな。今では足音ひとつ聞こえない」
「姿を見ないのか」
「影ひとつも」

 だからようやく誘いを受けられるよ――そう笑顔で話すシモンに、伯爵は「すまないが――」と視線を斜に落とした。
 
「病み上がりなもので――気分がすぐれない」

 ふらふらと歩く伯爵の背をシモンは慌てて追って、その頼りない体を支えた。気遣いにも無反応で、伯爵は凝り固まった視線を空に彷徨わせて、ぐるぐると考えを巡らせていた。
 
 城に戻ったであろうネズミたちの死骸は魔物に食われたか、それよりもっと小さなものたちに清められたか――悪魔城へと帰る道のりは普段よりずっと遠く、うら寂しく思えた。
 踏みしめる落ち葉の音ももの悲しく感じられて、自然と顔は俯いてしまう。月明かりの中、小さな影が目の前を横切り、真向かいでぴたりと止まった。灰色のネズミだった。
 
「あ、こんなところに――」

 シモンが軽い驚きの声を上げるうちに、その小さな影は森の至るところから落ち葉の擦れる音を立てて、伯爵のもとへと集まってきた。灰、白、茶、そして黒――以前よりも数多く、初めて見るほどに丸々と肥えたネズミが、伯爵の前に整列していく。
「わ、わ、」と動揺するシモンをよそに、伯爵は次第にはっきりとする意識のなかで、ある答えが静かに展開されていくのを感じていた。ネズミたちに目を瞠りながら、その答えを確かめていく。
 まだらの絨毯のように密集するネズミたちは手に手に木の実を抱えていた。あたりはカシの木に囲まれた森の中。城の中よりもはるかに広大で、本のはじめに戻るごとに蘇る尽きない食糧が生い茂る場所。
 先頭のネズミが後ろ足で立ち上がり、伯爵の顔を見つめた。その姿は代表として伯爵に敬礼をしているようだった。小さな黒い目を見て、伯爵は今までよりも深い、自身に向けられる思慕の念を感じ取った。城の中よりも快適な生活圏に導いてくれたことへの感謝の気持ちだった。
 
 伯爵が軽く手を払うとネズミたちは潮が引くように森の中へと消えていった。ぽかんとするシモンから身を起こし、しゃんと姿勢を正した伯爵は、シモンのほうを振り向き、清々しい気分でかねてからの思いを口にした。

「さぁ、湖を見に行こう」

 終
 17/12/5(火)

 小説『吸血鬼ドラキュラ』でドラキュラ伯爵が棺で眠っているときに、ネズミの大群が現れて侵入者に襲いかかるシーンがあるんですね。結局犬をけしかけられて追い払われてしまうんですが。
 そこのところから古来から棺での眠りを護る獣という話を膨らませました。自身より下位の生き物を下知するというのも同じ小説に描かれているシーンです。
 伯爵様とネズミ、『今日の使い魔』という絵だけでは物足りなかったので小説も書いてみました。
(その後森の生態系はかなり乱れると思いますが、きっと伯爵様がきちんと管理してくださることでしょう)