とても明るい月明かりのなか、シモンはこちらを見下ろす人影と目が合った。
涙で顔をくしゃくしゃに歪ませながら、シモンはその人影に文句を言った。
「離れないと言ったのに――お前ときたら、なんにも、全然、信じようとしてくれない――」
ベッドに横たわる青年にかがみ込み、伯爵はその身を抱いた。「すまない、すまない――」シモンは抱き返し、額や目元をこすりつけて、鼻をすすった。
「諦めるつもりはないが、もういい、お前がそんなに信じないのなら――聖鞭からの信頼を取り戻せず、私が元の世界へ帰るものと思っているのなら、形見の品をくれてやる」
シモン、そんなつもりはと弁解しようとする伯爵を無視して、青年は「指輪は持っているか」と尋ねた。前に会ったときに渡した、名前を彫った金の指輪のことだ。当然、伯爵は大切に指にはめていた。
シモンは体を起こして、乱暴に衣服を身につけたあと、「一緒に来い」と伯爵に言った。
あまりの勢いに、伯爵はびくつきながら部屋を出て、シモンのあとを追った。
着いた先は24時間営業の道具屋だった。
「いらっしゃい」とたくましい声が出迎える。
店の奥には明朗かつ鋭い目つきをした禿頭の男がいた。
髭の生えたがっしりとした顎だが、中年と呼ぶにはまだ若く、どこか人懐っこい明るさがある。
鍛え上げられた立派な体躯の、暗緑色の戦闘服に身を包んだ彼は――とある偶然から蒼真たちと関わりを持った、35歳、退役軍人のハマーだった。
彼もまた本の世界へと喚ばれたのだ。
表には出ないが、こうして狩人たちを助ける立場で己の役割を演じていた。
長所として物事を深く考えない性格の彼は、本の世界でもそれなりに皆と楽しくやっていたのだが、ただごとでない様子で入店してきたシモンを見て、その迫力に肝を潰した。
「指輪を貸せ」
シモンは後ろにいる伯爵に手を差し出した。勢いに飲まれた伯爵は薬指から金の指輪を外し、その手に渡した。シモンはハマーに向き直り、こう言った。
「この指輪に追加のメッセージを入れてほしいんだ」
「あ、あぁ、かまわねぇが――なんて入れるんだい?」
そこで急に沸騰したお湯がぬるま湯になったように、シモンの沸き立つ感情は静まりを見せた。
「紙とペンはあるか」口で伝えるのが恥ずかしいのだろう。差し出されたメモ用紙にためらいながら文字を書く。
そのメモを見たハマーは、シモンと指輪を渡した人物を見比べて、まぁ人それぞれだし、踏み込むのは野暮ってもんだなという表情で、メモと指輪を受け取った。
おおらかな気質のハマーは、青年の後ろにいるのが古の時代の悪魔城の、その城主であることを知らない。
シモンのそばにいる彼を見て、妖しい人物だなどと、まして狩人たちの敵だなどとは思いもしないだろう。
ふたりはどこからどう見ても単純な敵同士とは思えない、長い時間の果てにある友愛の雰囲気を醸していたのだから。
彫金工具を取り出したハマーはシモンに向かい、大事なことに気がついたように「そうだ、いつものアレ、振っていくかい」と尋ねた。
伯爵が片眉を上げた。
どんな時でも携帯することを忘れない、青年の腰に下がる聖鞭が、ひやりとした冷気を発したのである。
しかしシモンは気づかず、答えにくいように伯爵のほうをちらりと見た。「いや、その」
なにか重大な答えがここにある――そう確信した伯爵は「かまわぬぞ。わたしに気を遣わず、いつもと同じようにしてみたまえ」と、腕を組みながらシモンに伝えた。
「でも」
「いいから」
「そうか?」
そうか、と呟いた青年の顔は嬉しさに満ちていた。
シモンはとある一角に移動した。壁を見上げて、手を伸ばす。
そこには神秘的な輝きを放つ一条の鞭がかけられていた。
「龍の髭で作られたっていう鞭さ。非売品だがね、いつも薬やら装飾品やらよく買ってくれるから、待ち時間のあいだの暇つぶしに振ってもらってるのさ。なんでもすごく良い音がするとかで、シモンさん、気にいっちまってな。ここへ来るたびに良い音を鳴らしていくんだ」
俺には良さがよくわかんないんだけどなと、ハマーの言葉をあとにして、伯爵はシモンに続いて店を出た。
広々とした廊下で風がさざめくような音がする。
シモンは“わくわく”といった顔で鞭の先端を地面に滑らせていた。
そして軽く手首をまわし、狩人らしい独特のフォームで鞭を前方に振り下ろした。
その美しい炸裂音。
滝を上り詰めた鯉が龍に変生したかのような、一瞬のみずみずしい旋律があたりに響いたのである。
風を受けたようなさわやかな顔をして、シモンは感嘆の声をもらす。「素晴らしいだろう?」
この世のものと思われぬ鞭の一閃を生むたびに、青年の腰に下げた聖鞭は色を無くし、冷たい輝きを帯びていった。
「こんなに綺麗な音ははじめてだ。すっかり夢中になってしまってな、毎日ここへ来るのが楽しみでしょうがないんだ。さっきはお前のいる前でと思ったんだが、やはりこの鞭の魅力には勝てなくて――」
伯爵はシモンの様子を川を眺めるような淡々とした面持ちで見つめていた。
もともと鞭を振る行為に並々ならぬ興味と情熱を持っている彼だ。
聖鞭のほうでも彼のことを大いに気に入っていたことだろう。
それがほかの鞭を褒めそやし、夢中になってしまったとなれば、聖鞭があんなに暗い色をしてしまったのにも納得がいく。
聖鞭は嫉妬していたのだ――件の鞭と、青年に。
そうして狩人に力を貸すことを少しずつ拒否しだした。
毎日別の鞭を振るう青年に思い知らせるように、彼を拒み、威力を内に封じ込めるようになったのだ。
今まで悩んでいたこととはなんだったのか。考えてみれば、会う会わないの問題ではなかったのだ。
自分達の関係が原因だったら心通わした時点で鞭は青年を拒んでいただろう。
性交に至った瞬間に翳りを帯びていただろう。
そんなことは鞭はとうの昔に許容していたのだ。
聖性が失われただの祈りが足りないだの、あぁほんとうに――ほんとうに、ばかばかしい。
「シモン、その鞭が気に入ったかね」
「あぁ、とても」
「聖鞭よりも?」
シモンはゆっくりと鞭を下げて、伯爵の言葉の意味するところを探ろうとした。
伯爵の目線は腰に下げた聖鞭に向けられていた。
そこではじめて聖鞭の変化に気がついたのだ。
仄昏くくすんだ色はそのまま鞭の気持ちを表していた。
恥じるように、慌てたように、申し訳ないように頬を赤らめたシモンは、色々と考えた末にこう言った。
「聖鞭のほうがどんな鞭より大事だ。――もう、この鞭を振るのはやめるよ」
すまなかったと、シモンは聖鞭に対して、心から素直に謝罪した。
聖鞭のくすみがほんの少し取れたように明るくなった。
すぐにというわけにはいかないだろう。
ほかの鞭と離れたことをこれからの毎日で少しずつ証明しなくては。
素晴らしい音を鳴らすあの鞭を振れないのはひどくつらくて、残念だが、聖鞭には――世界と、ふたりのこれからには――代えられなかった。
店の中から青年を呼ぶ声がする。完成したのだろう。
「そこで待っていてくれ」と言い残し、シモンは龍の髭を携えて、店の中へと戻っていった。
伯爵は壁に寄りかかり、虚空を見上げて、ふっと優雅に息を吐いた。
形見の品か。もうそんなものは必要ないだろうが、でもどんな言葉を彫ってくれたのか、興味はある――そんな思いで、燭台の炎を見つめていた。
店の戸が開いた。
シモンは手の中に握りこんだものへ少しだけ視線を落とし、困り顔のまま、「ほら」とぶっきらぼうに指輪を渡した。
伯爵はそれを受け取った。内側に彫られたメッセージを読む。
『我が友ヴラドへ――永遠の愛をこめて』
温みある笑い声が喉の奥からこぼれ出た。軽やかに、とても美やかに。
凝った言葉ではないだろうと思っていたが、こうまで素直に愛を向けられると、くすぐったくてしょうがない。
あぁ彼はなんといとおしい存在なのだろう。胸があたたかく、心が豊かになるようだ。さみしさは消え失せ、残るのはよろこびに満ちた愛、愛、愛。
伯爵は金の指輪をはめた。その指にキスをして、恥ずかしげに佇む青年に愛に満ちたまなざしを向ける。
耳元に顔を寄せ、「ありがとう、シモン」と囁いた。「形見としてではなく、愛の証として貰うよ」
ふたりは抱き合った。
そこは店の前だったので、かたく口づけるふたりの姿が窓から見えた。
ハマーはきれいな頭に『これは参った』というようにぺったりと手のひらを乗せた。
「でも、まぁ、よく似合ってらぁ、あのふたり」
窓の向こうでメッセージを彫り上げたものが『このサービスは当たりだな』と確信を持ったことを、愛に包まれたふたりは知らない。
彼らの抱擁は熱烈で、特別な日のような清らかさに満ちていて、誰にも咎められることのないよろこびにあふれていた。
肩にまわしたすらりとした手指、そこに光る金の指輪。
幸せな結末をもたらした愛の指輪が、ふたりの心のように明るく、くもりなく、永遠を思わせるように美しく輝いていた。
終
14/05/11(日)
質より量という感じのアダルト話になりました。
もとは夢の中であれこれというだけの、もっとシンプルな話だったのですが、頭の中で考えるうちに、こんなに長くなってしまいました。
最後まで読んでくださった方、ほんとうにどうもありがとうございました。
そしてHoDにハマーさんが出て欲しかったなという思いをそっと話にこめました。
少しでも楽しんで頂けたら嬉しく思います。