Earworm

 ほんのひととき、楽しい時間を過ごそうとしただけなのだ。
 彼と一緒に美しい音楽を聴いて、穏やかな気持ちを共有できたらと。
 数日間に渡って彼を苦しめようなどと画策したわけではないし、当の災難に巻き込まれた古の城主も、そのことはよくわかっている。
 しかし一度訪れた神経を衰弱させるそれは片時も我が身を離れることなく、伯爵は今日も棺の中で手を組み、金色の瞳をぱっちりと開けては、あの日の軽はずみな行動を後悔し、青年への思いを複雑なものにするのだった。

 その日、シモンは一枚のCDを持って古の城主のもとを訪れた。
 時代を超えた品々を現出させる悪魔城で、未来の道具が手に入るのは珍しいことではない。伯爵は未来世界の最先端機器をいくつも所有し、秘密の部屋をそれ専用の趣味の場所として設けている。オーディオルームもそのひとつだ。

「日本語で”リラクゼーションCD”と書かれてあるらしいんだ。シリーズものらしくて、これはVol.1と記されている。残念ながらセットでは見当たらなかったんだが――もしよければ、お前と一緒に聴いてみたいと思って」

 伯爵は友の申し出に快く応じて、地下のオーディオルームへと案内した。
 プラチナゴールドに輝く音楽機器と最高級品のスピーカー、それに快適な座り心地の革張りの椅子が清廉な空気とともにしんとしている。

「やってみるかね」
「あぁ」

 シモンは単純な機器操作を伯爵に教えてもらったことがある。自分でいじるのはこれが二度目だ。
 青年は記憶をたどるような動作で音楽を再生した。

 ――もしもシモンが音楽機器の操作に明るくなく、伯爵がCDをセットしていたならば――CDの盤面をチェックできていたのなら、今のような地獄の苦しみを味わうことはなかったのかもしれない。
 その盤面にはリラクゼーションの他にこう書かれていた。

『世界のパワースポット 霊峰の川の流れ Vol.1 アダムスピーク』

 リラクゼーションCDにはよくある、川の流れを録音しただけのそれは、伯爵を大いに苦しめた。
 普通の川の流れだけでもきついのに、聖なる山として名高いアダムスピークの川の流れは吸血鬼にとって大敵そのものだった。
 聖性の強いさらさらとした音が聞こえてきたとたんに、伯爵は耳を塞いで、のたうちまった。

 慌てて立ち上がり、停止ボタンを押そうと手を伸ばしたシモンは、軽いパニックに見舞われたのか、一時的に機械の操作を誤ってしまった。
 どこをどう間違えたのか、ボリュームのつまみを回してしまい、部屋を大音量で包んでしまったのである。
 最上の音楽体験を約束するスピーカーから聖なる川の流れが迫り、伯爵を押し潰していく。
 悶絶し、絶叫する様を見てさらに慌てたシモンは、手当たり次第にボタンをいじった。
 高級品であるがゆえにぱっと見ではどれがどのボタンかよくわからない。
 リピート、シャッフル、早送り、どれをやっても音楽は止まらない。
 最後にイジェクトボタンを押して強制的にCDを吐き出させたシモンは、おそるおそる後ろを振り向いた。
 そこには高級な椅子に頭をもたれてぐったりとしている伯爵の姿があった。

 以来、伯爵のとがった耳には聖なる川の音が絶えず流れるようになった。
 人間でも濃い音楽を聴くと何日間か耳について離れなくなることがある。イヤーワームと呼ばれる現象だ。
 絶えず思い起こされる旋律として頭にこびりつくそれが、快感もなにも生まない苦手な音であったなら――地獄だ。
 なにをしていても気が休まらず、集中できなくなるうえ、思考は途切れがちになり、夜も眠れない。

 眠れない――伯爵の場合はそれが顕著に表れた。

 棺に横たわっても川の流れが邪魔をして、寝付くことができなくなってしまったのだ。
 目の下のクマは日に日に濃さを増し、頬は少しずつこけていった。

 そんなふうになってしまったのを見て、なにもせずにいるシモンではない。
 別のCDを聴かせて川の流れを伯爵の脳裏から追いだそうとしたり(ポップン音頭)、気を紛らわせるために一発芸をしたり(溶けた蝋を垂らして絵を描く)、薬草を調合して即席のアロマポットを作ったりと(これは臭いからやめろと言われた)、とにかく色々とがんばったのである。

 しかし伯爵の脳裏に流れる川はいっこうに干上がることがなかった。
 戦いも生彩を欠き、ノーマル並みの体力しか保てなくなった。
 そしてシモンは今晩も、眠ろうと努力をする伯爵のもとを訪れたのである。

「もう来なくてよいものを」ふらふらとした口調で伯爵はそう言った。
 伯爵は棺に横たわろうとしたが、蓋にかけたその手をシモンにしっかと握られた。

「私の責任だ。お前が安眠できるようになるまで、そばにいるよ」

 誰も来ないように見張っている、もし誰か来ても帰ってもらうように言うから、安心して休むといいと、シモンはその場にどっかとあぐらをかいた。
 その背中にはなんと言われようとも責任を果たすという男の覚悟が現れていた。
 伯爵は諦めた様子で「好きにしたまえ」と呟き、棺の蓋をしめた。
 川はさらさらと、時にごうごうと音を立てて流れている。
 あぁ、今日も一日同じ音につきまとわれた――うんざりした様子で伯爵は目をとじた。

 暗闇のなか、なにか聞こえる。
 青年の話しかける声だ。「まだ川の音が鳴っているのか?」
「ずっとな」と伯爵が答えた。

「つらいだろうな――ほんとうに、すまない」
「何度も聞いた。もう謝るな」
「あの――気を紛らわせるかと思って、いくつか詩を覚えてきたんだ。緊張をほぐせるかどうかわからないが、下手な詩の暗唱を聞いて、少しでも笑ってもらえればと思って――」

 友人の詩の諳誦を笑うつもりなどないが――「聞かせてくれ」と伯爵は誠実な声音でそう言った。咳払いが聞こえる。

『眠たい小鳥たちがそのねぐらに集まり、枝の中にそっと隠れる――さあ、お寝み』

 詩聖と謳われたミハイの詩だ。
 題名は『眠たい小鳥たち』。
 安寧を願う気持ちを幻想的に歌い上げた穏やかな詩――選択は悪くない。
 声も静かで聞き取りやすく、落ち着いている。良い声だ。

『黒々とした森が静まり、聞こえるのは森のため息だけ、庭の花々も眠る――
静かにお眠り』

 伯爵は瞳を細めて詩に聴き入った――聴き入ろうとした。

『葦の中で――』

 (いや、蓮の中でだったかな? あれ?)

『――寝るために白鳥が水の上を過ぎてゆく――妖精たちが』

 (間違えた、)

『天使たちがおまえを見守るように、安らかにお眠り』……

「シモン、シモン」伯爵は耐えきれないように声を荒げた。「ちゃんと覚えていない詩をひとに聞かせるんじゃない。正し正し諳んじられてもこちらは疲れるばかりだ」

「すまない。あの、じゃあ、横笛を持ってきたから、なにか音楽でも」

「もういい」「しかし」「黙っててくれ」「あの、少し聴いてみてくれたらきっと」

「吸血鬼の眠りに音楽などいらぬ!」勢いよく棺の蓋を開けた伯爵は、いい加減に帰らせようというように、きつめの口調でこんなことを言った。

「なにを吹こうが川の流れが消え去ることはあるまい。どうせそれも未完成で、途中途中で音を外すのだろう。耳障りな音楽などもう二度と」

 言ってから後悔した。
 心の傷がはっきりとわかるような顔のシモンを見て、「いや、その」と伯爵は口ごもった。
「……皆も心配しているだろうから、早く帰りたまえ」

 沈黙のあいだにも川の流れは清らかに響いた。
 忌々しい。伯爵は口髭を震わせて、静かにうつむいた。
 こんな空気を招いた聖なる川め。青年はなにも悪いことをしていないのに、彼に対してひどい言葉を吐いてしまったではないか。
 お前がいつまでも立ち去ろうとしないから、わたしは――。

 青年の立ち上がる気配がする。川の代わりにここを去るのだろう。
 やけになって、顔を隠すように棺の蓋に手をかけた伯爵は、まわりこんだシモンにその動作を押しとどめられた。
 見上げると青年は眉を下げて微笑みながら、遠慮がちに――しかし決して引かぬという決意をこめて、こう提案した。

「一緒に寝てみてはどうだろう」

「なに?」

「この棺、大人ふたりが寝ても大丈夫そうなくらいに広いなと前々から思っていたんだ。少し詰めれば共に横たわれる。軽く話をしていれば、そのうちにうとうととするのではないかと思ってな」

 伯爵はぱちぱちとまばたきをして「ばかなことを」とようやく言った。「棺は生きている者の寝る場所ではないぞ」

「嫌悪感は感じない。お前を寝かせられたらそれでいいんだ」

 そうこう言っているあいだに、シモンは片膝を入れてきた。

「いやいやいや、正気なのか、シモン」
「私のせいなんだ。最後まで責任を取らせてくれ。――お前が安らかに眠れないのは、つらい」

 余計な草摺や武具を外すシモンを見て、伯爵は徐々に観念したように横に詰めた。
 どうあっても青年は自分と共に寝ようとするのだろう。
 この歳で、しかも狩人に、添い寝をされるとは――伯爵は混迷と、少しの興奮を覚えながら、マントの端を引っ詰めた。
 シャツと黒の鎧下一枚になったシモンは、慣れない動作で伯爵の棺にもぐりこんだ。照れくさく思っているのか、頬を赤らめ、少しの汗を浮かべながら、もぞもぞと位置を整えている。
 ふたりしてごそごそと動いたあと、やはり大の大人ふたりでは狭かったのか、結局は向かい合いながら互いに横抱きにして棺に収まるかたちとなった。

「……蓋をしめられるか」
「うん」

 片腕で重い蓋を引っ張り上げたシモンは、ゆっくりと継ぎ目を探して、蓋をしめた。
 真っ暗ななか、わずかな記憶を頼りに、ふたりは見つめ合った。
 青年の体はあたたかく、伯爵の体は良い匂いがした。

「怖いかね」
「大丈夫だ」

 どっどっどっどっどっ。
 心臓の鼓動が聞こえる。
 激しく、せわしない音と、静かな息づかいが伝わってくる。
 伯爵は緊張をやわらげようと、シモンの背中を撫でた。
 お返しというように、シモンも伯爵の背中を撫でた。
 ふふと青年が笑った。

「こうしているときに誰かに蓋を開けられたらどうしよう」
「帰ってくれるように頼むのではなかったか」
「そうだな。しーっと指を当ててな。お前には目をつむってもらって、皆には『もう寝たところだから』と言おうかな」
「納得するものだろうか」
「深く追求しようとは思わないだろう」

 軽い会話を交わすうちに心臓の鼓動もだいぶ落ち着いたものとなった。
 非常に狭いが、密接している感覚はある意味心地よい。
 伯爵は背中を撫でる手を徐々に下半身へ下ろしていった。
 引き締まった腰回りから尻に移る。
 片尻をぎゅっと握ると、シモンが「こら」と言った。

「こんな狭いところで何をしているんだ」
「揉んでいるうちに眠気がやってくるかと思ってな」
「だからって――もう、遠慮のない奴だな」

 ん、と小声が漏れた。青年の頬は赤く染まり、とまどうような汗をかいた。
 伯爵はシモンを見つめたまま、脂肪と筋肉がたっぷりと付いた、見目も感触も最上級の尻を休むことなく揉み続けた。鼻息が荒い。こうなると無我夢中になってやめられなくなることをシモンも知っていた。

 気持ちいいが、揉まれるばかりではなんとなく悔しい。

 シモンはそろそろと手を伸ばして、伯爵の尻を掴んだ。変な声が上がった。
 動揺する伯爵以上に、シモンはそのあまりの心地よい感触に驚きを隠せない様子だった。
 少し掴んでこらしめるだけのつもりだったが、こんなにやわらかく、もっちりとした手触りでは、尻から手が離せなくなってしまう。

 自身の欲望に負けたシモンは、伯爵の尻を二度三度ゆっくりと揉み込み、次第に大胆な力を込めて、円を描いて揉みしだくようになった。
 やめろという言葉も聞こえないように、玉座しか知らないその高貴な尻を揉み続ける。

「シモン、ふたりして棺桶に入ってなにをばかなことをしているんだ。やめろ、やめたまえ」
「だって、お前の尻がこんなに触り心地の良いものだなんて知らなかったから――いやだ、やめたくない」
「君がそんな我がままを言うとは――」

 伯爵は戦慄した。いつも素直で聞き分けの良い、誠実な人柄のシモンが、欲望の赴くままに城主の尻を揉み続けている。
 清廉な狩人をこうまでさせる己の尻の破壊力におののきつつ、伯爵はなんとか青年の行為をやめさせようと知恵をしぼった。
 が、尻を揉み込まれるうちにだんだんと妙な気分になってきた。
 少し手荒いところがあるが、彼に尻を揉まれるのは、なんとなく気持ちがいい。ため息まで出た。彼も息を荒くしている。
 あぁこのまま尻を揉み合いながら眠りに落ちるのも、もしかしたら、悪くないのかも――。

 青い部屋の中、棺がガタゴトと揺れている。
 やがてしんと静まりかえり、黒い棺は動きをなくした。
 そしてすぐに蓋が跳ね上がった。「苦しい!」と叫び声を上げて。

 胸に手をあてて、はあはあと息をつくシモンの背中を、伯爵は『それもそうか』という気持ちで見つめていた。
 密閉された空間のなかで、酸素はすぐに尽きてしまったのだろう。やはり棺とは生者が入るものではないのだ。
 息をととのえて、やがて落ち込む様子を見せたシモンの背中へ、伯爵はそっと手を当てた。
 シモンが振り向くと、いつのまにか身を起こした伯爵と目が合った。青年の肩に手をまわした彼は、優しく見つめたあと、軽く触れるようなキスをした。

「休息を取るには棺が一番だが――ベッドでも寝られる」

 言葉の意味を理解したシモンは、伯爵の胸元に頭を寄せて、その身をぎゅっと抱きしめた。火照った体では寝られそうもない。

 伯爵の私室の広いベッドの上で、ふたりは互いの性器を愛撫していた。
 頭を交互逆にして、横寝の姿勢で男茎を咥えている。
 伯爵はシモンに脚を広げさせて、その合間に顔を埋めていた。
 たくましい太ももは伯爵が陰茎を強く吸い上げるたびにびくびくと震えた。
 尻間に指を入れて、空いた手で青年の足首をさすりながら、三点を同時に愛撫する。
 股間のあたりで切ないため息が漏れた。
 シモンは快楽に耐えきれないように時折顔を上げたが、それでも丁寧に愛撫してくれる彼を想って、何度も彼の男根を含み直した。
 しかし腿の内側は刺激に敏感だ。
 シモンは内腿をくすぐる伯爵の頭の、その淫靡な動きを感じては、「ふぅん」と鼻から抜けるような声を漏らした。

「できないかね?」
「でき、る――あぁ、や……は、くすぐったい……」

 シモンの愛撫はちゅ、ちゅ、と音が鳴る可愛らしいものだった。
 亀頭を口に含み、先端をつついては、裏筋に舌を這わせる。
 うまく咥えられないぶん、手でしごき、愛しているという気持ちを陰嚢へのキスで表した。

「ヴラド……あの……」
「なんだ」
「揉んでもいいか」

 少し考えたが、伯爵は「いいぞ」と穏やかに言った。
 おそるおそる触れた手が、やがて喜びいっぱいに尻をこねまわす動きに変化する。あどけない愛撫を感じながら、伯爵は彼へのどうしようもない愛を口舌に込めた。
 シモン。シモン。わたしの可愛いシモン。
 青年は身をよじらせて愛に応えた。

 正常位で青年の内をかき回している最中にも、伯爵は無言の訴えとも言えるまなざしで、尻への愛撫の――その許可をねだられた。
 しかたがないという表情で、伯爵はシモンの手を自身の尻へと導いた。
 シモンの頬がほころんだ。
 内奥を突かれながら、シモンは伯爵の尻をまさぐり、「ヴラド、すごく気持ちいい」と、息も荒く微笑んだ。

「それはよかったな」「ヴラドは?」「とても気持ちいい」「よかった」

 よかった、という笑みが天使のように――天使は彼にとっては敵だが、そんなことはどうでもよくなるくらいに――愛くるしかったので、伯爵は彼の体を抱きしめた。
 熱烈なキスを落として、腰の動きを早める。
 尻をつかむ手に力がこめられた。
 青年の顔がのけぞる。

「あ、あ、まだ、いきたくない」甘い時間が終わるのをもったいなく思ったのだろう。熱っぽい瞳で訴えるシモンに伯爵はこう告げた。「君が満足するまで何度でも応える――まずは、一度」

 声にならない嬌声を上げて、シモンは達した。
 甘く潤んだ瞳、熱い頬、汗の浮いたあたたかな体。
 腹を精液で汚して、シモンは後穴を締めた。奥に伯爵の情熱が注ぎ込まれる。
 なまぬるく、どこか心地よい腹痛を起こさせるいとおしいもの。
 全部を出し尽くしてもらいたいというように、シモンは伯爵の尻を揉み込んだ。
 いつまでも揉んでいたくなるような、極上の肌触りだった。

「まったく――魔王の尻を揉んだ人間なんて、おそらく君くらいだぞ」
「私だけに揉ませてくれたんだな?」
「まぁ、そう言いたかったんだ」

 ふたりは幸福に満ちたキスをした。
 舌を絡ませて、見つめ合ったあと、伯爵はシモンの膝を抱え上げた。「わたしもまだ満足していないぞ」
 前と同じ姿勢を取ったのは尻を揉まれる心地よさを知ったからか――伯爵はその後もシモンの愛撫を身に受けながら、青年とこころゆくまで愛し合った。

 シモンは伯爵の腕に抱かれていた。
 いつのまにか眠りに落ちていたらしい。
 添い寝をするつもりだったのに結局は自分が寝かしつけられている。
 シモンは恥じる気持ちで伯爵を見上げた。寝た様子もなく、川の幻も消えずにいるような気むずかしい顔をしていた。

「今も」
「あぁ」
「そうか」

 視線を落として、伯爵の胸元に頭をもたれる。
 シモンは眉を下げて、これからなにをすればいいのかを考えた。
 肩を抱く彼の手はとてもやわらかい。
 優しい彼を、なんとか眠りにつかせたい。どうすれば――。

 ふと、ここがどこであるかに気がついたように、シモンの目が静かに見開かれた。
 伯爵の脈のない体を抜けるように自身の鼓動が頭に響いている。
 シモンは一度眉をしかめて、それから思いきったように、しかしためらいがちに、伯爵の腕を抜けた。
 見上げる伯爵をそっと抱き寄せ、その頭を自身の胸に抱く。
 そうしてふたたび横たわった。
 彼をなにものからも守るように、大切に大切に、その身を抱いて。

 命の音が聞こえた。鼓動は規則正しく純粋で、単純さと複雑さが色濃く混じり合った血流の音が、伯爵の脳裏に響きわたる。
 あぁ、彼の音だと伯爵は思った。
 なんという熱さ、尊い鼓動、美しい流れだろう。
 伯爵はその音に深く聴き入るように瞳を閉じた。
 川の水が海に流れ込むように、もっと大きなものへと変化していく。
 やがて大気に満ちて、雲となるように、川の流れは無害なものへと移り変わっていった。
 清い流れはさらに尊い、聖なる命の流れに飲み込まれて、影も形もなくなってゆく。
 穏やかになれる、心地よい響き。
 あたたかな夜が彼を優しく包み込んでいく。

 伯爵の寝顔を見下ろすシモンの表情はとても満ち足りていて、安らかだった。
 安心を生む彼こそが深い安寧の中にいるようで、伯爵はそんな彼に抱かれながら、なにものにも邪魔をされない、数日ぶりの心地よい眠りに身をまかせていた。
 やがてシモンも静かに瞳をとじた。
 格子窓から薄い月明かりが射している。
 神秘的な紗のカーテンは彼らふたりを穏やかに包み、いつまでもその美しい光を降ろしていた。

 毎日毎晩の添い寝は伯爵の脳裏から完全に川の流れを追いだした。
 しかし新たに居着いたものがいる。
 シモンの横笛だ。
 元の静けさを取り戻して、余裕が生まれた伯爵は、「そういえば君の腕前はどのようなものなのかな」と尋ねて、あの時聞けなかった横笛を吹いてくれるようシモンに頼んだのである。
 最初は照れくさげに演奏を渋っていたが、結局シモンは、伯爵ひとりのために名もなき曲を披露した。

 それは素晴らしい音楽だった。

 観客ひとりだったはずが、切り株に座って演奏するシモンのまわりに、いつのまにか森の動物たちが集まりだし、なんということか、城の魔物まで警護を忘れて集まってきたのだ。
 皆が皆、警戒を忘れてシモンの横笛にうっとりと聞き惚れている。
 演奏を止めたときが心配になるような魅惑の音色はやがて調子を変えて、見たい夢を見させるような甘い音色を紡ぎ出した。
 終わり頃には動物たちも魔物たちも満足しきったような表情を見せ、それぞれがもときた道をたどって姿を消したのである。

 これで子供たちを連れ出せば有名な笛吹き男のようになるな――そんな軽い夢想をするうちに、はたとなじみのある感覚に気づいた。
 彼の奏でた音楽が耳について離れなくなったのだ。
 愕然として耳を押さえる伯爵を見て、シモンは困ったように笛をしまいながら、こんなことを提案した。

「もう少し、添い寝を続けようか」
「……頼む」

 三日月は鎌のように鋭い光を放ち、古の城は前途を表すように真っ黒い。
 とぼとぼと歩く伯爵の背中にシモンはそっと手を当てた。
 しばらく考えて、シモンは口を開こうとした。
「また私のせいで」と言おうとしたのだ。
 それを遮るように伯爵は「あぁしかし、君の演奏は素晴らしかったぞ」と、しっかりとした表情でそう伝えた。「できればまた聴きたいものだ」

 シモンは頬を赤らめ、うつむいた。
 そっと手を伸ばして、彼の手を握りしめた。
 伯爵もその手を握り返した。
 シモンの表情が申し訳なさから、自信に満ちた嬉しさに変わる。
 優しい彼のためなら毎日でも添い寝をしてあげようと心に決めて、シモンは伯爵と一緒に古の城へと帰るのだった。

 終
 14/06/02(月)

 蓮さんからのリクエスト『眠れない伯爵に添い寝をしてあげるシモン』を書かせて頂きました。
 リクとお時間頂きありがとうございます!
 先日頂いたミニドラシモへのお礼をこめたら、微妙に長くなってしまいました。
 そして今回、ドジっ子天使なシモンさんを目指しました。
 棺で共に眠るというネタは、すでに他の方が書いていらしたのですが、添い寝というリクを受けて、私もどうしても書いてみたくなり……。
 伯爵様のお尻はきっと揉み心地が良いですよね!
 そしてイヤーワームを解消したいです(今も頭の中ですごいことに)。

 文中の詩の引用元
 ミハイ・エミネスク 田中春美(訳)
 『世界名詩集大成 15
 北欧・東欧 (平凡社)』 所収