80P

 腕枕も、肩を抱かれる感触も、いまは気がかりが先にあって、心地が悪い。
 互いの表情には体を重ねても晴れることのなかった心の雲がありありと浮かんでいて、天蓋を見つめる目も、その顔を見上げる青年の眉のかたちも、気鬱の色を兆していた。しばらく押し黙ったあと、シモンは伯爵にこう尋ねた。

「なにか、してほしいことはないか」

 口髭を軽く動かしただけで、伯爵は返事をしなかった。肩を抱く腕をより深くまわして、心配することはないと、青年に伝える。情けない気持ちを胸に、それを慰めてくれる大切な相手に向けて、額にキスを落とす。シモンは目をつむり、伯爵の首筋に顔を埋めた。

「気が向いたら、いつでも言ってくれ」

 シモンはそう囁き、伯爵に深く寄り添った。胸にまわした手で伯爵の息づかいを感じながら、うとうとと眠りに落ちていった。

 その翌日。
 ひとり古の城の天守へと赴いたシモンは、玉座に深く腰掛ける城主を見た。斜めにうつむいた顔、力無く開いた長い脚。一瞬、鼓動が早くなったが、近づいてよく見てみると、彼は息絶えているのではなく、疲れたように眠りに落ちていたのだった。ほっと息をついて、シモンは静かに声をかけた。

「ヴラド、寝るなら棺かベッドに」

 まるで風邪を引くのを心配するような口調でシモンはそう言った。返事はなかった。少しためらったが、青年は伯爵の肩を揺すぶった。「ヴラド」呼吸は一定で、目を覚まさない。いよいよ不安になったシモンは、様子を見るために伯爵の顔をのぞきこんだ。気むずかしいような表情で目をつむっている。しょうがないなというように、シモンは息をついた。寝台まで運ぼう――身を屈めたそのときに、伯爵の口髭がかすかに動いた。「――」

 言葉をよく聞き取ろうとして耳を近づけると、伯爵の貴やかな唇は、ふたたび秘めやかに開き、なにごとかを囁いた。「――――」

 とたんに、シモンは眉をしかめた。遅れて顔を赤くして、「なにを言っているんだお前は」と、焦ったように顔を離した。むっつりと瞳をとじる伯爵はそれきり微動だにしない。「ふざけていないで、起きろ」怒った様子のシモンを無視して、伯爵はそっぽを向いた。顔を上げたものの、目はしっかりととじている。いい歳をした大人がおかしなことを――シモンは腹が立って、その場を立ち去ろうとした。すぐに、青年のたくましい背中にちりりとした痛みが走った。伯爵がどんな顔をしているか、見ないでもわかる。寂しそうに、傷ついたように、取り返しのつかないことをしたというように、こちらを見つめているのだ。
 シモンは昨夜のことを思い返した。ベッドを共にしても拭いきれなかった、ある恥ずかしいこと。いとおしい相手の、遠いまなざし。
 シモンは静かに肩をいからせたあと、息を抜いて、玉座を振り返った。慌てて目をとじる伯爵が、寝たふりを続けていた。そばへ寄り、耳をすませる。なにも言わないのを見て、シモンは声をひそめてこう尋ねた。「誰もこないだろうな」

 ん、と喉の奥で返事をして、伯爵は小さく首肯した。相変わらず目をとじたままの伯爵を見て、シモンは眉を下げて、仕方ないなというように、その場にひざまずいた。納得はしていない。しかし、心はつかまれていた。ひどく胸にくる、いとおしい相手なのだ。震える手で伯爵の股間をくつろげて、中のものを取り出す。うしろを振り返るのも怖いように、シモンは覚悟を決めて、伯爵の男根を口に含んだ。

 なまめかしい音を立てて、あやしい動きを繰り返す青年の様子を、伯爵は悦に入った表情で見下ろしていた。こらえようのない興奮と、少しの罪悪感、そして心を満たす征服欲とで、伯爵は非常な快感を覚えていた。高名なる吸血鬼狩人が、玉座の前にひざまずき、自身に奉仕をしている。なんという快さ。手すりはこのときのために誂えられたかのようで、大仰にかまえる手にも力がこもる。あぁ、彼の美しく光る金色の髪をこの指で梳きたい。もう少ししたら、もう少しこの強者の気分に浸ったら、彼の頭を、思いをこめて撫でてあげよう。伯爵はとろりとした目で青年の口淫を受けていた。達しを迎えたくはないというように、息をひそめながら。

 いっぽう、シモンは伯爵の一物を愛撫しながら、昨夜のことを思い返していた。
 ひとりで伯爵の帰りを待っていたとある晩。ベッドに腰掛けたときに少しの違和感を覚えた。寝台の下でなにかがへこみ、乾いた音を立てたのだ。ベッドの下を探ると、見慣れないものが出てきた。カラフルな表紙の薄い本。『80P』と題されたその本には、かつて思わぬかたちでめぐりあった、異なる世界の自分たちが描かれていた。見事な赤い髪をたなびかせる自分と、豪奢なローブに身を包んだ伯爵の姿。彼らについての伝記だろうかと興味深くページをめくったところ、最初の数枚でシモンは思わず本をとじた。なぜそうなったのか、理由も曖昧なまま、本に描かれているふたりは、淫靡な行為に耽っていたのだ。当然のように想い合い、キスを交わすふたり。部屋に誰もいないことを確認したあと、シモンはもう一度その内容を改めた。たしかに自分とわかる赤毛の青年は、玉座に腰掛ける伯爵の前にひざまずき、股間に顔を埋めていた。流麗なタッチで描かれたふたりは、激しいオノマトペを紙面にちりばめながら、次々と淫猥な行為に及んでいく。シモンは下半身に激しいうずきを覚えながら、やめられないようにページをめくった。ふと気づくと、すぐそばに伯爵がいた。本を見つけられたことにショックを受けて、それを読み耽っている自分に青ざめた興奮を覚えているような、複雑な表情だった。

「中庭に落ちていて――拾ったんだ」

 混沌の城ならありえることだった。時代の異なる物品を内部に生じさせるこの城なら。互いに混乱した頭で言い訳を重ねるうちに、伯爵の表情が重苦しいものに変わっていった。何度も目を通したであろう本を、一番見つけてほしくない相手に見つけられて、中身を読まれてしまったのだ。深く暗く落ち込む伯爵を、シモンは謝罪の言葉とともに、心から慰めた。黙って読んですまない。大事に隠しておきたい気持ちはわかるし、こういうのは健康的な欲求だと思うから――その……。

 慰めるうちに、本によって刺激されたうずきが互いの内に逆巻いて、気づけばベッドの中で激しく求め合っていた。しかし事が済んでも、気まずい雰囲気は正されることがなかった。伯爵の腕に抱かれながら、シモンは「なにか、してほしいことはないか」と尋ねたのだ。そのときはなにも言わなかったのに、今日になってこれだ。異なる世界の自分たちがしたことと同じことを求められるなんて。絵物語に描かれるようなのと同じ興奮が味わえるわけはないのに――でも、あの本では、たしかこうやって……。

 シモンは頬をすぼめて、きつく音を立てながら、伯爵の一物を吸い上げた。頭上からうめくような声が漏れた。見上げると、興奮しきった様子の伯爵と目が合った。いやらしい仕草を褒めるように、潤んだ瞳でこちらを見下ろしている。優しい手つきで頭を撫でられて、シモンは思わぬ幸福感に浸った。膝の痛みも忘れて、伯爵の快いところを刺激する。じゅぽじゅぽと、あの本にはそんな音が描かれていたけれど、実際にそんな音が出るものだろうか。シモンはうつろな目で、いつもとは少し趣の違う、複雑な味の愛涎を飲み下した。

 あのふたりのようになっているだろうか。本を読んで、お前はどんな気持ちでいたんだろう。私のことを必要としただろうか、それとも――……。

 心の中でそう問いかけながら、シモンはいとおしい相手に奉仕し続けた。やがて伯爵の腿が硬くなった。ぐいと顎を持ち上げられて、強引に顔を引きはがされる。そうだ、あの本でもこうして――シモンはその美しい顔に精子をまき散らされた。音はかすかなものだが、ふたりの頭の中にはファンタジックな擬音が何回も繰り返されていた。本で見たオノマトペを互いの脳内で再生しながら、射精の瞬間を絵物語と同じように再現しようとしたのだった。びゅくっ びゅるるっ どぷっどぷっ……。

 まだ勢いの衰えない男根で、シモンは顔中に精液をなすりつけられた。後始末をするようにと、再度亀頭を口に含ませられて、呆とした目のまま舌で清める。目元だけを優しく拭われたあと、シモンは伯爵にこう声をかけられた。「続きをしようか」そして軽々と体を抱き上げられて、瞬間移動で、伯爵の私室まで運ばれた。

「あんっ、あんっ、あ――」

 ふたりは真っ白いシーツに皺を打ち、寝台の上で乱れていた。
 シモンは伯爵の体に跨がせられて――これも本に描かれていた内容と同じだ――腰を振るように命じられていた。自然と本のなかの自分と姿を重ねていたのだろう、シモンはいつもより艶っぽく、あんあんと声を上げながら、夢中で上下に体を揺さぶっていた。刺激になれて、声も秘めやかなものに変わるころ、シモンはその手を握られた。手指を一本一本絡めるように、両の手をぎゅっと、やわらかく。シモンは全身に走る快感に打ち震えた。指のあいだは性感帯だ。特に青年は感度が良く、伯爵の大きくてなめらかな、やわらかい手のひらで握りこまれたら、いやが上にも気分が高まってしまうのだった。

「だめ、だめ――」きゅっと組み敷かれる無抵抗の指。甲をもまれて、青年は悲鳴を上げた。「あっ、あっ、そんな――そんな」悶えながらも、シモンは腰を動かすのを忘れなかった。散々に調教されたためだ。今までにも同じようなことをされて、腰を振るのを忘れたら、容赦なく尻を叩かれるか、きつい位置に突き上げられるかしたのだ。局部をしごかれず、尻の刺激だけで達するよう強要されて、無理だと思っていたことも、結局はできてしまうようになった。淫乱さを自覚させられたあと、それを褒められるように、事後はたっぷりと慰められて、シモンはいつしかそうされるのを喜ぶようになった。きつく責められたあとの褒められた記憶は、新たな官能の扉を開き、青年にあたたかな春の目覚めを促した。
 喜びをわかちあうようにつないだ両手は、もてあそばれるように握りしめられ、もみこまれて、快楽に翻弄される青年を哀れっぽく、滑稽に見せた。本の中のふたりはもっと楽しげに愛を深めていたが、慣れない様子の青年にとって、この行為はされたことのない辱めに思えた。指を握りこまれるたびにぞくぞくとした快感が背筋に走る。尻にかかる刺激が激しいぶん、ほうっておかれる乳首や陰茎に寂しさが募り――こらえきれずに、青年は哀願の声を上げた。

「お願いだ、触って――触って――」
「握りしめているじゃないか」
「そこじゃない。もっと――胸とか、その……」
「どこだ」
「……ここ」

 シモンは伯爵と手をつないだまま、自身のもとへ指を引き寄せた。予想とは裏腹に、伯爵は導かれるまま、青年の性器をしごいた。互いに指を絡ませながら、ふたりで青年の大切なところを愛撫する。やがてその刺激にシモンは顔を上向けた。「あ、あ、出る……っ」
 切ない声を漏らして、シモンは達した。涙を流しながら、びくびくと腿を震わせる。白濁にまみれた両手を見つめながら、シモンは徐々にとまどった表情を見せた。射精したのに、伯爵の指の動きが止まらない。
「あ、やめて、やめて――」きつくてたまらない、痛い、痛いと訴えるように身がすくむ。もう出ない。もうやめて。悲鳴を無視して、伯爵は青年の陰茎をしごき続けた。やがてシモンはもう一度、経験したことのない絶頂感に身を震わせた。背中がのけぞり、青年は透明な液を迸らせた。潮を吹いたのだ。漏らしたかのような錯覚に、シモンは「あぁ、あぁ」と泣き声を上げた。どうしようもなく打ち震えているあいだに、尻にあらたな刺激がかかった。自身の内に勢いよく注がれる伯爵の熱情。どくん、どくん。本で見たような鼓動そっくりの、愛に溢れた射精だった。
 ――またひとつ、体が淫らになってしまった。
 そう思いながら、シモンは肛門をすぼめて、伯爵の精子をいとおしく飲み込んだ。

 本に描かれたことをすべて再現したふたりは、幸福な気持ちでベッドに横たわっていた。互いを抱擁して、何度も何度も口づけを交わす。伯爵は青年を優しく慰めて、シモンも同じように伯爵を労った。いまでは指をつないで愛し合ったことが嬉しくてたまらない。信頼を深めたあとの会話は甘え声で、息もまなざしもくすぐったいものになるのだが、シモンは気がかりがなにも解決していないことを思い出して、ふと伯爵にこう尋ねた。

「いつ返しに行く?」
「なに?」
 本のことだと青年は答えた。「あの世界のものだろうから、やはりふたりに返しに行かないと――本人たちのことが描かれているわけだし、なにか重要な伝記のひとつなのではと」
「シモン、世の中には知らなくても良いことがたくさんあるものでな」

 あの本はうちで保管しておくと伯爵はきっぱりとそう告げた。納得のいっていない青年をなだめるように、伯爵はとっておきという表情で、ベッドの下から一冊の本を見せた。『160P』と題された、この前のよりも倍の厚さの、これまたカラフルな本だった。表紙には自分たちとそっくり同じ人物が描かれている。伯爵はページをぱらぱらとめくりながら、得意げにこう語った。

「これもすごい内容だぞ。君の結婚式に突如現れたわたしが、君をさらって城に囲うというものでな。囚われた君が大変いやらしい目に遭わされるのだ。まぁ最後には助けに来たセレナにわたしが容赦なくやられるのだが、そういうオチだから本編がすさまじくても読後は明るい気分になれて……」

 長く気持ちいい戦いだったというフレーズが実に爽やかで――おいシモン、聞いているのか。シモン。シモンったら。

 R-18と記されているその薄い本と、伯爵に背を向けて、シモンは呆れたように瞳をとじた。
 なんの目的で描かれた本なのか知らないが、あいつにあまり変な知識を与えないでほしいな――そう思いながら、深々とため息をついて、上掛けにもぐりこんだのだった。

 終
 14/02/20(木)

 蓮さんになにか良いシチュエーションはないですかとお尋ねしたところ、玉座で……とか、恋人つなぎで……とか、たくさんの萌えシチュエーションをお伺いできまして、大変ありがたく拝借した次第です。
 そしてドラシモの同人誌が欲しいです。ふたりが読んでいるのを私も読みたいです。薄いというよりもだいぶ厚い本。宝ですね……。
 まとまりがないですが、最後に、蓮さんどうもありがとうございました!