外套

 三日間会っていない。
 理由としては充分だが、毎日会っていたところでこの誘惑に打ち勝てたかどうか。
ベッドに横たわりながら、マントの持ち主のことを想い、シモンは胸に抱いた外套の匂いを深く吸い込んだ。
 雨が降っている。
 魔王を深い眠りに落ち込ませた暗い雨が、城全体を陰鬱な音で包んでいる。

 なじみの深い時代が雨にけぶる日々を青年はどう過ごしたか。
 古の城に赴いたシモンは、まず天守へと足を運び、棺のもとにひざまずいた。
 蓋を開けずに中の静けさを伺ったあと、しばらくそこにあぐらをかいて、やがて皆が集うラウンジに帰って行った。
 誰かとともに探索に加わることもあれば、皆に気遣われて、待機組として雑事を任されることもあった。火の扱いや料理の仕方を後進たちに指導するのも年長者としての大切な役目だ。ひとりの生活が長かったためだろう、あるものだけで手際よく夕飯をこしらえるシモンは、皆から実生活の腕前においても誰よりも深い尊敬の念を集めていた。

 教えるのは楽しく、やりがいもあったが、待機の生活が三日も続くと、シモンは段々に、そのたくましい腕がうずくようになった。
 日課として鞭振りや体作りを欠かすことはないが、実戦の感覚が鈍るようで、次第にわけもない倦怠感を覚えるようになった。もちろん、戦いが起こらなければそれでいいのだが、あまりに茫漠とした日々が続くと、いったいなんのためにこの世界に召喚されたのか、よくわからなくなる。体を使わないぶん、思考することにエネルギーを消費すると、結果的に不安が大きくなるのだろう。安寧を願う祈りは欠かさないが、顔すら見られないのは正直さみしい。
雨が降って、もう三日だ。そろそろ止んでもいいのではないか。

 古の空を見てひとり唇を噛みしめるシモンは、雨のなか、今日こそはという思いを抱いて、天守へと向かった。相変わらず、彼はしんとして、棺から起きようとはしなかった。十字の刻まれた蓋をなでながら、シモンはそっと呟く。
「待っている」
 そして立ち上がり、青い天守をあとにした。

 シモンは伯爵の私室のドアを開けた。部屋を眺めて、懐かしい匂いを吸い込んでから、皆のもとへ帰ろうと思ったのだ。せめて冷たい部屋の空気を嗅いで、心を慰めようと思い――そこで、いつもは外套掛けにかけられている立派なマントが、ベッドに放られているのを見たのだった。

 いつからここにあるのだろう。

 ベッドに腰掛けながら、シモンはそのマントに触った。冷たい。湿気を含んで重くなったのだろうか、彼が身につけていないというだけで、こんなにも悲しい手触りに思えるなんて――シモンは幽霊を抱くように、マントを我が身に押し当てた。そしてそのままベッドに倒れ込み、襟首の部分に顔を埋めた。鼻から深く息を吸い込み、匂いを嗅ぐ。脳裏に残る、彼の匂いがした。

 花びらだけではない、茎も葉も土の匂いもする、高貴な薔薇の香りだ。
 彼の外套からは鼻の奥に抜けるようなあたたかな匂いがした。その誇り高い香りは狼の毛並みや竜の巣を連想させる。危険を伴うが、誰が嗅いでもうっとりとするような特別な匂いだ。はじめは冷たく、次第にぬくもりを感じるようになるその刺激は、いずれ帰るべき場所の、ふっくらとした土を思わせる。太陽よりも月明かりに育まれた静寂の土地。腕に抱かれれば安心して瞳をとじるだろう、麗しき夜を体現した、常闇の国の主の香り。

 あぁ、彼に会いたい。

 シモンはマントに顔を埋めながら、切なさを刻むように、彼の名残の品を抱きしめた。しわになってしまうな、そんなことを思いつつも、抱擁をやめることができなかった。雨は変わらず降り続けている。彼の匂いに包まれながら、このまま寝入ってしまおうか――うとうとと瞳をとじて、そんなことを思う。
 青年は竜の片翼を抱くように、膝を曲げて、ベッドに横たわっていた。
「シモン」唐突に、ベッドの向こうから声が聞こえた。はっとして身を起こすと、部屋の続きからなる場所に伯爵がいた。彼はその身にまとった外套を翻しながら、青年のもとまで歩み寄った。「なにをしている?」

「起きたのか」嬉しさを向ける反面、抱きしめていたものを思い出して、シモンは慌てて外套を払った。見ると無数のしわが刻まれていた。厚い生地も抵抗を諦めたような、自身の想いの深さを見て、シモンは顔を赤らめた。うつむきながら「すまない」と言葉を落とす。

「なにを謝っている?」
「しわを付けてしまった」

 そんなことを気にするのかと、声には出さずに伯爵は片眉を上げた。
 彼はわたしのことを想ってベッドに横たわり、マントを抱いていたのだな――伯爵の胸に青年へのいとおしい気持ちがこみ上げた。同時にまだ少し残っていた眠気が覚めるほどの、はっきりとした欲望も胸にわいた。この状況を利用しない手はない。雨を受けて厭わしい気分になったマントだ、乾かすために広げておいたそれがどうなろうと構いはしないが、そうか、この青年はそれを大切な品と思っているのだな――それならば。

「そのマントは特別な品でな。一度付いたしわを伸ばすのは魔界の住人でも苦労する繊細な作りをしているのだ」

 青年の申し訳ない表情がいっそう深く暗いものとなった。

「ほんとうにすまない。できることなら私が預かってしわを消すよう努力する」

 そう青年が答えると、「そうか、それは好都合だな」と伯爵は無表情にこう言った。

「地獄の宰相であり、サタンの衣装係でもあるアドラメレクが直々に抽出し、織り込んだと言われるジョージ・ブランメルの涙が、この天鵞絨のマントをオパールの色味のように複雑なものとさせていてな――一度付いたしわは並みの高熱やプレスでは伸ばせない。後世の伊達者の魂は気むずかしく、繊細だ。かたちを崩したものに対して、それ相応の代償を求めるのだよ」

 口からでまかせの由来を滔々と語る伯爵に罪悪感はこれっぽっちもない。
 シモンは唾をごくりと飲み込み、「いったいなにを求めるんだ」と、覚悟を決めて彼に尋ねた。

「人肌のぬくもりだ。熱すぎも冷たすぎもしない善良な人間の体温のみがマントに付いた傷を癒す」

 え、とシモンはしばらく考えて、次に顔を上げて「つまり、どうすればいいんだ?」と尋ねた。

「君が責任を取るつもりなら、そのマントの上に横たわるといい。半時も経てば、しわは綺麗に消えていることだろう」

「そんなことでいいのか」シモンはほっと息をついて、胸をなで下ろした。ベッドの上にマントを広げて、その上に横たわろうとしたが、膝をついたところで「なにをしている」と伯爵に制された。

「君の武骨な鎧やベルトによるしわを新たに刻むつもりか? ブーツの泥を布地の模様とするのかね? 外套にまんべんなく熱を行き渡らせるには服は邪魔なものでしかない。脱ぎたまえ」

 もしもほんとうにしわを消すつもりがあるのならわたしの言うことを聞くのだな――冷厳に言い放つその態度に、シモンはためらいととまどいを見せたが、あまりの堂々とした迫力に、気づけば軽鎧もブーツも床に落としていた。伯爵に見つめられながら、シャツを脱ぎ、黒のインナーをゆっくりと下ろして裸になる。伯爵はそのあいだ、くつろぐように、外套掛けにマントをかけた。しばしの逡巡のあと、青年がベッドの上掛けをはごうとしたところで、伯爵はきつい口調でそれを遮った。

「上掛けをかぶるな。よけいな熱をこもらせたらしわはますます布地に残り、どうやっても伸ばせなくなる。君はわたしに裸を見られるのを、いまだに恥ずかしく思うのかね?」

 恥ずかしいに決まっている。そうは思っても口には出さずに、シモンは言われたとおり、なにも覆うもののない状態で、マントの上に横たわった。

 純朴かつ、神秘的な容貌の青年の、美しく鍛え上げられた体が、孔雀の羽のように広がる外套の上に、黒く切り抜かれた絵画のごとく仰臥している。
 伯爵から顔を背けたくてもできないでいる、熱っぽくこちらを見つめる潤んだ瞳。
 腹部にかかる腕は規則正しく上下する胸の動きに合わせてリズムを刻み、子馬の顔を思わせるたくましい太ももが、局部を隠すように互い違いにくねっている。
 あまりに美しく、なまめかしい、扇情的な光景だった。
 情熱をかきたてるように降り続ける激しい雨音が、あやしげな空気をいっそう密なものにして室内に響いている。

 ここまで素直に信じ切った青年に一種の感動を覚えながら、伯爵は次なる欲望に手をつけた。
 青年が凍えないよう、魔法を飛ばして、暖炉の火を燃やしながら、城主はベッドサイドにある椅子に腰掛けた。
 狩人の若くたくましい体が一番よく見える位置に移動して、恥じらう寝姿を観察する。
 伯爵のとがった耳には青年の鼓動がよく聞こえた。
 唾を飲み込む音、いつもより早い胸の動き、活発に動く腹の音。息は切なげで、熱く、緊張している。

「空腹ではないか?」

 なにもいらないというように、シモンはふるりと首を振った。
 伯爵は指から魔法を飛ばした。マスカット、バナナ、艶のある赤りんごに加えて、薔薇の花びらが、様々な種類の果物と一緒に、青年のまわりに彩られた。

「腹が空いたら食べるといい――あぁ、しかし君が動いてはマントに跡が残るな。どれ、君が切ない音を鳴らす前に、わたしが食べさせてあげよう」

 伯爵はベッドに腰掛けて、マスカットを一粒もぎり、青年の口元へ近づけた。
 拒否するように顔が横に向いた。
「シモン」果実の宝石を拒む青年を哀れに思うように、伯爵は甘い声で名前を呼んだ。
 端正な唇にペリドットの実を押し当てて、口に含むように促すと、シモンはわずかに声を漏らして、その実を食べた。
 すでに実を受け入れているのに、伯爵はわざと親指の爪が入るくらいに実を押し込んだ。
 指の水気を取るように目線で合図すると、シモンはしかたがないようにその指をしゃぶった。ひそやかな水音が枕辺に響く。

「おいしいか?」

 わずかにうなずきながら「はじめて食べた」とシモンは答えた。
 快い微笑を浮かべた伯爵は、バナナやりんごを次々に青年に食べさせた。
 淫靡な咀嚼音と舌の動きを楽しむように、少量を口に含ませては、水気のついた指をしゃぶらせる。
 されるがままに果物を口にする青年の、徐々に熱に浮かされていく表情を、伯爵はくすくすと喉の奥で笑みを転ばせながら見つめていた。
 水を口移しで飲ませたあと、伯爵は変化の訪れた青年のそれをもっとよく見ようと、次なる提案をした。
 指先を閃かせて、用済みの果物を消したあと、「最近、体調はどうだ」と青年に尋ねた。

「特に、変わりはない」
「そうかな。表情や体に張りがないのを見るに、しばらく戦いから遠ざかっているような気がするが」
「よくわかるな」
「匂いや胸の鼓動でわかる。今の君は少々緊張感に欠けている。体調を悪くするのは力を発揮する機会が得られないときと決まっているからな。ふだん使っている筋肉が衰えて、抵抗力を無くしていくのだろう。完璧である君の美が輝きを無くしていくのはわたしには耐えがたいことに思える」
「そんなに変わってしまったのだろうか」

 シモンは眉を下げて、どこか不安な様子で伯爵に尋ねた。修練も日々の祈りも欠かしたことはないのに、自分は彼にとって魅力のないものとして映っているのだろうか。ちらと伯爵が視線を寄越す。心が汚れたようなその表情に、シモンの胸はずきりと痛んだ。

「君がふだんどおり万全であるか、確かめたいのだがな」
「どう、やって」
「穢れは常に体の中心に表れる。そこが幼子のように色味が清らかであるのなら、君の血は完璧で、平常と変わりなく力を発揮できる状態にあるとわかるだろう。わたしの心配も杞憂に終わるのだ。ぜひとも、確認したいのだがな――」

 伯爵は医者のような淡々とした調子でシモンにこう指図した。

「脚を開いて、腿を腹につけるように、両腕で抱えたまえ」

 秘部が丸見えになるように、仰向けに脚を抱えろということだ。
「そんな」シモンはできないというように表情で訴えた。伯爵の軽蔑するような視線がいっそう強くなった。

「いまさらなにを恥ずかしがっている? わたし自身の欲望を満たすために、君にそんなポーズを取らせるとでも? 診察のようなものなのに、そんなふうに思われるとは心外だな」

 怒られた子供のように、シモンはよくよく考えて、「すまない」と小声で謝った。そして震える腕を伸ばして、おずおずと膝の裏に手を差し入れた。ゆっくりと、腹に力を入れて、両脚を抱え上げる。

「もっと高く」

 言われるままに、尻を上げた。膝小僧が胸につくほどに抱え上げると、伯爵はようやく笑みを見せた。そのことにほっとしつつも、途方もない恥ずかしさをどうにもできずに、シモンは息をつめた。ふたつに折り畳んだ体が徐々に熱を持っていく。

 自分でもわかるほどに、ひくひくとうごめくそこを、あの金色の目で見られている。そう思うと、シモンはまるで茨に巻かれたように、全身を強ばらせて、心も体も囚われた錯覚に悩まされるのだった。

「ふむ。使い込まれてはいるが、きれいなものだ。呼吸に合わせてきちんと脈動している――穢れはなさそうだが、しかし、君の欲望にも困ったものだな。淫らさを主張して、はちきれんばかりじゃないか」

 伯爵の手でそこを握りこまれると、シモンは体をびくつかせて、その刺激に耐えた。律儀に両腕は解かずに、上下にしごかれるその感覚に声を殺して感じ入っている。

「おや、ここにも変化が」すでに用意していた潤滑剤を使い、伯爵は指を滑らせた。診察していたそこに指を挿入して、男根をしごきながら、肛門をほぐしていく。
「あっ、あっ」シモンののけぞる顎が見えた。

「いかんな、せっかくきれいな色味をしていたのに、充血して穢れが集まってしまった。一度解放してあげなくては、疲れも情欲も大切な部分に残ってしまう。君が望むのなら欲望の昇華を手伝ってもいいぞ」

「やめて、やめてくれ――お前のマントが汚れてしまう」

 マントのことなどすっかり忘れていた伯爵は、こんな状態になっても変わることがないシモンの純粋さに、心の底から打たれてしまった。
「シモン」股間に顔を埋めて、伯爵はシモンのたぎりきったそこを情熱的に愛撫した。
「あああ」乱されながらも脚を抱え続けているシモンがいとおしくてたまらない。伯爵は持ちうるかぎりの技でシモンを愉悦に導いた。

 伯爵はいったん顔を離し、唾液と潤滑剤でべとべとになったそこと、シモンの様子を見下ろした。
 脚のあいだからのぞくシモンの顔はなにもかもがいじらしかった。
 涙を流し、頬を赤らめ、荒くも切ない息をついていた。

「シモン」伯爵は彼のかわりに両膝を抱え上げた。「わたしを受け入れてくれ」

 うなずいてくれたことが嬉しかった。伯爵は欲望に満ちたそれを青年の内に突き入れた。身をゆさぶると青年は肩にしがみついてきた。
 抱き合い、くちづけを交わし、愛による重みでマントに新たなしわを刻む。

「ヴラド」泣き声のような呼びかけに、伯爵は顔をすり寄せた。
 シモンは彼の首筋に顔を埋めて、ひと言、「さみしかった」と囁いた。
 そして匂いを吸い込み、満たされたように息を抜く。

「会いに行ってたんだ、毎日。でも、お前からすると、私はいつのまにか、魅力のない存在になっていたんだな」

 起きなくて当然だとシモンは声を詰まらせた。
 伯爵は想いをこめて、力の限りに青年を抱きしめた。

「嘘だ、全部嘘だ。君はいつでもわたしを魅了する。穢れなどあるものか。大好きなんだ、シモン。愛している」

 雨の音が聞こえる。城壁や、窓を激しく打ち付ける大粒の雨の音が。
 シモンは伯爵を抱く腕に力をこめた。
 彼の言葉はほんとうだ。
 いまも降り続ける雨の音を聞きながら、「待っている」というひと言で、意識を外へ向けてくれたのだから。

「ヴラド、愛している」

 ふたりは同時に達した。
 どくどくと注ぎ込まれる伯爵の熱い想いを感じながら、シモンは絡めた脚をさらにきつく伯爵の体に巻き付けた。
伯爵は嬉しそうに息を抜いた。もっと欲しいと、ねだっているサインだ。
 溢れるほどの精液で腹を満たして、めちゃくちゃにしてほしいときに、青年は脚を絡めて頬をすり寄せる。
 マント一枚でこのような素晴らしい時を過ごせるのなら、何枚だめにしようがどうでもいい。愛の証をよりはっきりと見つめるために、黒の外套を汗と精子でどろどろに汚してしまおう――伯爵は青年とさらに深く愛し合うために、シャツを脱ぎ始めた。

「驚いたな。あんなことをしたらしわも増えて、汚れもひどくなると思ったんだが」

 椅子に放られたマントを見て、シモンは息をつくように伯爵の胸に顔を寄せた。
 青年の肩を抱く伯爵は落ち着いたものだ。
 美しい黒の光沢を放つマントを見つめながら、彼の髪を梳いて、「わたしたちの愛を受けて生まれ変わったのだよ」と呟いた。

 実際は違う。

 伯爵は求め合った末に失神した青年を介抱して、汚れきったマントをじっくりと眺めたあと、愛の証のついたそれを焼却処分したのだった。
 いまベッドの中で青年が見つめているのはあれとそっくり同じかたちの別のマントだ。
 がんばってくれた青年のために嘘をつくのは決して悪いことではない。
 それ以前についた嘘のことは考えないようにして、伯爵は青年のこめかみにキスを落とした。
 すん、とシモンは鼻を動かした。
 うっとりとしたまなざしで伯爵の首に抱きつく。

「君はわたしの匂いが好きなんだな」
「大好きだ」
「わたしも君の匂いを好ましく思っている」

 雨の音を忘れるような、日向の匂いがするのでな――。

「太陽は好かないが、君の匂いはとても快い」

 嬉しいよと微笑み、シモンは瞳をとじた。

「今度、雨が続くときは、お前の匂いがするものをなにかひとつ置いていってほしいな。少しだけ匂いを吸い込んだら、すぐに皆のもとへ帰るから」

 いささか気を悪くしたように眉間にしわを寄せた伯爵は、青年をまっすぐに見つめながらこう答えた。

「そうはしない。声をかけたまえ」

 毎日様子を伺いにきては、黙って帰っていっただろう。
 今日みたいに声をかけてくれれば、雨が降っていようが、わたしはすぐに目覚めるのだから――そんなことを言うんじゃない。

「さみしそうにマントを抱く君を見て、心が痛んだ」

 意地悪く迫るような欲望を覚えてしまうほどにと、それは口に出さなかったが、伯爵は眉を下げて、様々な思いをこめて、「すまなかった」と囁いた。
 ふふ、とシモンは彼の肩口に目元を押し込んで、体を強く抱いた。

 (マントも台無しになってしまうしな)

 伯爵が外套掛けにかけておいた黒のマントがそこにないことを、青年は目覚めてからすぐに気がついたが、それを尋ねることはしなかった。
 あれはやはり上質なマントで、繊細な品なのだ。
 求め方が多少強引な気がしたものの、高価なマントを犠牲にしてでも自分を必要としてくれる彼のことを、青年は心からいとおしく思った。

「嬉しいよ――とても嬉しい」

 そう伝えて、シモンはすぐそばにいる伯爵の匂いを、胸一杯に吸い込んだのだった。

 終
 14/03/07(金)

 蓮さんとスカイプで盛り上がったネタを話に起こしてみました。
 さみしくなったシモンさんが、伯爵様のマントを抱きしめてしわを付けちゃうとか、そこにつけこむ伯爵様とか、あまりに可愛らしかったので……。
 素敵なネタをどうもありがとうございました!