桜雨(ライ×伽耶)

 大道寺邸には誰もいない。騒がしい悪魔たちを退治したばかりだ。
 役目を終えたライドウとゴウトは海松茶(みるちゃ)色の門構えを見上げた。

『いずれこの屋敷の持ち主は帰ってくる。それまで我らが留守を預かろう』

 ライドウは浮かない顔をしていた。どうしたと尋ねられると「友人を無くしたみたいだ」と呟いた。

 運喰い虫からはじまった事件が一段落を終えてしばらくのち、ライドウは心ここにあらずといった様子でぼんやりとすることが多くなった。
 筑土町を出歩く際には用事の最後にかならず大道寺邸に続く坂道を上り、屋敷を見上げる。不在を確認しては坂を下って家路に着く。
 石を蹴る。ゴウトがたしなめた。鈍い面の彼が「すみません」と謝る前に蹴った丸石がコツコツと転がって、誰かの爪先にぶつかった。『いわんこっちゃない』とゴウトが頭をもたげた。みどりの目を見開いた。ライドウは謝りもせず立ち尽くしている。まるで少女と向き合うように。彼女もこちらを懐かしく見つめ返していた。短く切り込まれた黒髪とそれに続く印象的な黒瞳、海老茶色のセーラー服。伽耶だった。

 富士子パーラーで餡蜜を食べながらお互いのことを話した。
 店内では伽耶が伽耶であることに気づいた人はなく、それぞれの空気を生んで穏やかだ。

「鳴海さんから君のことを聞いた。ある朝忽然と大道寺邸の使用人を含む全員が屋敷から消えたと。今までどうしていたの」

「空気のきれいなところで療養していたの。あんな事件があったんですもの、精密な検査を受けなくてはね」

「鳴海さんにもゴウトにも事情をはぐらかされてばかりだ。君まで僕に対してそんな態度を取るのか」

「なんのことかしら」

「話したいことがあるんだ。まだ時間があるなら、今夜探偵社の屋上まで来ないか」

「私はこう見えても忙しいの。友達に会いに来たから」

「友人だと思ってる」

「勝手な人。いいわ、あなたって頑固だったものね。でも私はあのビルヂングに足を踏み入れられないの。他の場所では?」

「あそこがいいんだ」

「ほんとうに勝手な人」

「なんとか連れて行く。この町で一番に月の光が射すところで待っていて。迎えに行くから」


 夜。
 満月のひかりを浴びた彼女がさらさらとした薄紅の音楽を奏でて待っていた。

「来てくれたね」

「もう一度言っておくけど、私はあのビルヂングの階段を上ることなんて」

 言い切らない内にライドウが管から仲魔を呼び出した。シルフだ。風の精霊に命じてふたりを銀楼閣の屋上へ。アカラナ回廊で現世へ戻る間際、ライドウが伽耶にしたように、もう一度その身を我が身に抱く。黒い風が巻き上がった。ふたりを包んだそれは大鷲の翼のようなうなりを立てて、月夜の冷冷としたコンクリートへと舞い下りた。
 満月を背にした黒外套の少年と黒髪の女学生。その美しいこと。風は彼らのために吹くようで、事実シルフは恍惚と主人の命に従っていた。こんな光景が見られるのならば、羽根破れるまで風を呼ぼう。彼女はそう思った。

「黒マントをひらめかせて女学生をどこかへ連れ去るなんて。
 あなたって、人さらいのようね」

「こんな子供が?」

「歳は関係ないの。絵になるかどうかよ」

 女性を思わせる赤い背もたれの椅子に座らせた。
 少年は黒の椅子に、まるで対のかたちになるように向き合う。
 話をしたいと言うのは本当らしい。少年は少年にしかできない透明なまっすぐな瞳で伽耶を見つめた。伽耶は動じない。まばたきをしたあと、美しく閉じた唇が空気を含む。

「今までどこにいたの」

「わからないわ」

「どこかから抜け出してきたのか」

「えぇ、簡単なことだったわ」

 そうだろうな、とライドウは呟いた。

「いまだに未来の記憶が残っている。ヤタガラスの監視はあってないようなものだったろう」

「更正はだいぶ進んでいるのよ。ただ、友達に挨拶をする時間も頂けなかったものだから」

 自分は殺されないとわかっている者の声だ。記憶転写が行われた禍々しい魂を解き放つのはヤタガラスの望むところではない。長期的なようだが、未来に関する記憶を抹消し、寿命を全うさせることこそがもっとも短期的な解決方法なのだという。

「鳴海さんは教えてはくれなかったけど」

 ライドウは手を差しのべた。伽耶はきょとんとし、それから柔らかに微笑み、誘いを受けた。
 剣の欠けた、月夜のダンスを。
 会話は弾み、踊り、椅子に座っていたときからもうずぅっと、少年と少女は月明かりの舞を舞っていた。
 ライドウは話した。恐ろしくも美しい令嬢と刃を交えたことを。
 伽耶は話した。恐ろしくも美しい書生と雪を回(めぐ)らせたことを。

「昼間は友達に会えなくて」
「どうして」
「怖かったのよ。あの子も私のことを忘れていたらどうしようって」
「会いに行けなかったんだね」
「えぇ」

 ライドウは口を閉ざした。優美な黒髪を後ろへ流したかつての少女を、風に跳ねる銀の光をまぶたの裏に夢見た。少年も伽耶の友達の近状は知りえない。
 ふたりは次第に寄り添っていった。伽耶は少年の胸に頬を寄せ、瞳を閉じた。

「あなたは覚えていてくれるのね」

 透明な透明な、水にくるまれたような美しい声だった。
 目を眠(ねぶ)るその姿は少年以外に抱き留められないカンパニュラを思わせる。
 泡になる言葉は長く少年の耳に響き、潤みを帯びた。

 屋上の扉が開いた。鳴海だった。悲しそうな顔をしてふたりを見つめている。
 ライドウは薄く目を開き、彼女の耳元でささやいた。

「君は僕のことを忘れてしまうの」

 彼女はまだ夢見ていた。

「どうかしら。そうね。覚えていられたら、また今夜のように、ダンスを踊りましょう。約束よ」

「あぁ。約束する」

 友達だから――。

 伽耶は鳴海に連れられ、最後に一度、こちらを振り向いた。淡紅色の椿のように、鮮やかな笑顔を風に乗せて。


 季節は巡り、今は春。
 ライドウは帝都に居た。
 筑土町の坂道を登り、見慣れた店構えを目にも止めず、学校への道を、ただまっすぐに歩いていた。
 石は蹴らない。黒猫の邪魔になることはしない。それがよかったのだろうか。
 坂の上から見慣れた少女が歩いてきた。
 ライドウはまばたきをせず立ち止まった。しばしの間のあと、猫の視線をよそに、かかとでトントンと地面をならす。まるで靴の嵌まりが悪いように。

 ぱらぱらと頭上から何かが落ちてきた。桜ではない。春の雨、桜雨だ。

 雨のなか、長い黒髪の少女は美やかなひな人形のように佇んでいる。
 そして少女もまた、靴のなかの小石を取るようにかかとを直した。
 ふたりは再び歩き出した。向かい合うかたちで通り過ぎるだろう。

 カツカツ。コツコツ。カツコツカツコツ。

 かつん。

 近づき、すれ違う間際、足音が銀の音を鳴らした。
 月が開いた。桜が舞う。風が吹き、しゃらり。

 ふたつの音が重なり合うすれ違いざまのダンス。黒マントと黒髪のなびきが彼らの衣装。道の上の舞踏会。銀の輪が重なり華麗な音を鳴らす。流し目は秘密。誰の目にも止まることはない。ただ、笑っていた。

 通り過ぎてゆくふたり。
 振り返ることはなかった。


 終
 11/03/19(土)