風が吹いた。いっさいの物音がしなくなった。
静けさに振り返ると夏空があった。
屋上で支えもなく立つ脚からは短い影が色濃く瞬き、揺らめいている。
書生は手に持つラムネに口をつけた。まなざしはきつく皺を結った。
干したばかりの洗濯物は風にうるさく叩かれている。

たらんとした佇まいの風鈴をだらしなくねめつけている男がいる。
銀楼閣の二階、鳴海探偵社。煙草と珈琲の香りを濃茶色のくせっ毛に染み着かせた男。所長の鳴海だ。
今は夏。
灼きつくような蝉の鳴き声に彼は、袖も裾もまくり上げた中途半端な大の字姿勢で降伏を示す。
ソファにべったりともたれた体は生気に乏しく、びくつく目玉は窓辺の風鈴からちらとも視線を動かさない。
首筋に汗が流れた。風鈴がか細い音を鳴らした。
腿がわずかな痙攣を起こすと、すべるような水音が彼の足下から跳ね上がった。汗を弾ませた彼の顔はまるで幻から醒めたみたいに呆然として、しんと翳った応接室にふさわしく生白い。
それから思い出したように、ゆっくりと、じゃぶじゃぶ。じゃぶじゃぶ。ぶくぶく。……
ソファの前には水を張った盥があり、脇にはきちんと揃えた皮靴が靴下をきれいに収めて艶光りしていた。対照的に、生白くふやけた足指が、元からぬるい水のなかに沈んでいる。おそらく無いのだろうが、今よりましな涼しさを求めて、それらは時折じゃぶじゃぶと頭を出し、水をかきまぜ、泡立てる。
薄く生えた臑の毛が水の中でゆらゆらと揺れては、筋ばった脚にぺたりと張り付き、汗のような滴を垂らした。
蝉の鳴く音が近く、とても近くに聞こえる。
耳をふさいでも無駄だろう。ふさぐ気力もない。息苦しくなって目を閉じた。
閉じたところで影までまぶしい。唸りそうになる。
きつく瞑られたまぶたにふ、とあらたな影が降りた。しょうがなく、鳴海は目をねじ開けた。
「またそんな格好をして」
書生がソファの真上から話しかけた。鳴海をのぞきこむ顔は眉もきりりと美しく、細身に見える体躯は骨もあつく、悪魔を屠る刀を振るう。帝都専任の悪魔召喚師、十四代目葛葉ライドウだ。
腕組みのまま鳴海を見下ろし、何度目かもわからない躾けをする。
「盥を応接室に持ち込むのは止めてください。水を張って足を浸けるのも」
どろりとした目が書生を見上げた。
銅色の煤をまかれたような視界のなかで、少年の眉根はあくまで涼しく映って見えた。
かたちよく結われた唇に鳴海はいつもの甘い弱音を吐きたくなった。
「…………あっつい……」
眉はぴくりとも動かなかった。
「そんな息も絶え絶えに言われても」
中年の甘いため息のつもりが、少年には涸れ涸れの息差に聞こえたらしい。
ごくりと喉をのけぞらせ、鳴海は地声のうるささでライドウに八つ当たりした。
「絶え絶えにもなるよ。お前はなんだよ、汗ひとつかかずに。デスク前に行ってみろよ、背中焼けるぞ」
ふむ、とライドウは所長机のほうへ目をすがめた。
雨と埃に磨かれたカナリア色の窓が、強烈な太陽光を浴びて社内に腹を突き出している――のだろう。何も見えはしない。見えはしないはずなのだが、窓格子がはめこまれているせいか、視界はすでに黒緑の残照が描かれてしまった。
巨大なロウに塗り込まれ、外側からあぶられているような、じりじりとした熱の照射。ぱんぱんに膨らんだ熱気は正午の室内に息苦しくこもっており、賢い黒猫は早朝から屋上に避難している。
書生は鳴海にゆっくりと顔を向け、学生帽の鍔に手をかけながら、深くしずかに首を振った。
「窓からの逆光がものすごくて、どこがどこだか……」
はは、と鳴海は、砂漠で遭難したように笑った。
「……俺も目開けらんない……」
ふたたび目を閉じた鳴海の頬に、用意のいい、あたたかな布があてがわれた。
ハンカチにしては生地が大きい。予想がついたが、鳴海は黙って汗を拭かれた。布の感触が首筋に移るころ、鳴海はライドウの指先をぎゅっと掴んだ。胸元に落ちた手ぬぐいを『やっぱり』という目で見て、その思いは頬に引き寄せた指の感触にも向けられた。
「冷たくて気持ちいい」
ライドウは胸元の手ぬぐいを拾い上げ、何事もなかったように汗拭きを続けた。
利き手はやわらかく握られたままだ。
首筋から下、第二ボタンまではだけた胸元を拭いていいものか、少し迷う。
「鳴海さんは、熱いようですね」
「ハートが?」
「ちがいます」
直ぐに「いえ、ちがうということはないけれど……」と、ライドウが小さく訂正した。続く言葉がひめやかなうちに、鳴海はそっと指を放した。
膝に下がる鳴海の手をじっと見つめる、ひとすじのさみしさ。その顔を、鳴海は横目で見ないふりをする。
「洗濯、するの?」
「はい」
「一日くらい、やんなくてもいいんじゃない?」
「そういうわけにも……せっかくの良い天気ですし」
「いいもんかよ。俺をこんな目に遭わせてるのはこの天気だ。屋上に出たら、お前の学帽でもこの殺人的な日射を防ぎきれるかどうか」
いい大人がぐだぐだと際限なく駄々をこねそうになったので、ライドウは正面にまわりこみ、片膝をついた。そして鳴海の足を洗濯盥から引き抜いた。
びちゃびちゃの右足を(このための)手ぬぐいでごしごしと拭く。頼んでもいないのに鳴海の足指が開いたのは、慌てたためだ。
「ごめん、ごめん、いいよ自分で拭くから!」
じたばたと固くなった足指にいらつき、眉目をねじませ顔を上げるも、とたん、ライドウの渋面は額に釘打たれたように真白く抜けた。
いっぽう鳴海は、なにが起きているのかわからぬまま、より白く翳った書生の面に月より見惚れて、盃のように揺らぐまなざしを返していた。
音もなく、水にあたらしい波紋が広がった。朱色が薄く混じって透明になる。
ズボンを汚さないように彼は慌てて鼻を押さえた。鼻血が出ていた。
足を拭いたものだったが、少年はとっさに鳴海の鼻に手ぬぐいを当てた。
文句もなく、彼はそれを血が治まるまで自分の顔に当てていた。
時折、左足が立てる水音以外は、お互いの耳には蝉の声も遠く届かなかった。
息がつまる。見つめ合うふたりの胸はごく軽くきゅうくつで、あたりの静けさはなぜか、腹部にじんとくる欲情と、脚の冷たさを覚えさせた。
「大丈夫ですか」
軽めに鳴海は、二、三度頷いた。
声を殺しているのが自分でおかしくなり、まなざしで笑った。
それを見て、ライドウは何がおかしいのかと訝るように眉をひそめた。
「ごめん、ごめん」鳴海はまた謝った。
「大丈夫だよ。ほんとう、冗談で済まないくらい暑かったみたい」
しばらくのあいだ、ライドウは鳴海の顔と、盥とを交互に見つめた。
口を開いたものの、声はごろごろと辿々しく、乾いた喉に絡まっている。
唇から覗く歯が乳臭く思えて、鳴海は苦笑した。まなざしを下げて、水たまりから左足を抜く。床に黒緑の足跡がついた。
「ごめんな、困らせて。お前はなんにも悪くないから。な」
ぽんぽんと学帽の上からあやされて、ライドウは口をつぐみ、うつむいた。
両膝立ちで、腿に握り拳をふたつ置いて。
足を拭く鳴海の、手指にへたる白地の布から、薄暗くこもる赤い染みが見え隠れする。
伽羅色の模様にめまいを覚えて、ライドウは一度しっかりと、目を瞑った。
手ぬぐいを受け取り、ライドウは学帽の鍔を深く下げた。
「お休みになりますか」
「そうだな。ちょっとだけ、部屋で寝てるわ」
盥を運ぼうとするのを押し留めて、ライドウは彼のことを強く睨んだ。
情けないように眉を下げて「ほんとうにごめんな」と、鳴海は薄赤い鼻の下でははと笑った。
「お前もさ、無理をするなよ。大変なことが色々、終わったばかりなんだから」
小首を傾げてそう言ったものの、ライドウはまばたきひとつしなかった。
間をとりつくろうように肩をすくめても、なにも起こらない。
頬を掻いたあと、ようやく、鳴海は背を向けた。なにひとつ、することがなかった。
ドアの閉まる音が遅れて聞こえた。彼の背中を見つめすぎたのだ。
残像を払うように窓を仰ぐと、たらんとした風鈴が目に映った。
徐々に大きくなる蝉の鳴き声が視界に色を成していく。
りんと響く涼風の音。
ひとり佇む応接室に陽炎のような暑さが見舞った。
ライドウが短いため息をつくと、霧吹きを浴びたような細かい汗がふっと体中から噴いて出た。
ワイシャツも洗わなくてはいけないな。そう思いながら、彼はくちゃくちゃの手ぬぐいを洗濯盥に投げ入れた。
細かい泡がねばこく弾けて、ゆらめく布地がほんのひととき、虹色に跳ねた。
屋上の激しい風をどうともせず、ばたばたと煽られる生地を少年は慣れた手つきで干していく。払いも音高くシワを伸ばし、ピンで留める動作は流れるようで、書生は風の動きをよく読んでいる。
もっとも、洗う前の様子はといえば――黒猫はひげを一本跳ねさせ、少し昔を思い返す。
洗う前のこと。書生はいつもと同じく、主人のシャツに顔を埋めた。
あまり何度も見る光景なので黒猫が理由を問うたところ「違うにおいがして、落ち着く」と良くわからない答えが返ってきた。
夕暮れ時には同じく、取り込んだ衣類に頬を寄せる書生を見たので、尋ねてみれば――「同じにおいがして、嬉しい」。
それはそうだろう。石けんはひとつだ。屋根もひとつだ。
……そういうものなのだろうか。
ひととおり思い返して、黒猫はまぶたを閉じた。すぐに開いた。緑色の目がきらめく。
銀楼閣のドームの陰から身を起こし、しっぽをゆらゆらとススキのようにしならせて、くわぁとあくびのついでにそっぽを向く。十四代目の目付け役、ゴウトだ。彼は洗濯物を見て、あきれたように言った。
『捨てたらどうだ。その染みは取れないぞ』
干しながら声のするほうを打ち見て、ライドウはつぶやいた。
「もったいないことを言う。雑巾代わりに使えばいい」
茶色に抜けた手ぬぐいを音高く払っていたときのことだ。
ゴウトのひげがぴんと立ち、彼はようやく寝ぼけから醒めた。
『待て、そもそもなぜ手ぬぐいに血が。何があった』
「鳴海さんが鼻血を出したから、ちょうど手にしていたこれで拭いた。今は自室で休んでいる」
「ちょうど?」
「盥に突っ込んでいた足を拭こうと思って」
『あの阿呆、またか』歪んで伸びる小山のような日陰から緑の瞳を覗かせて、ゴウトはぶつぶつと文句を落とした。『雑事も能事も、あやつの悠長さに合わせては遅々として進まぬ』
ふてくされる猫の小言は毛並みを梳く風にさらさらと流れた。
ふと、ゴウトは片眼を開けた。
耳を撫でる風に涼やかな言葉が混じっていた。
「進めるから、大丈夫」
毬のかたちに丸まる猫が、首を伸ばし見上げたライドウの立ち姿は、若木のようにきらきらと光と影を落としていて、ゴウトの胸はほんのひととき、動きを止めた。眩しそうに、そして穏やかに衣類を留めるその横顔は、生も彩も鮮やかに光り輝き、澄み切っている。
緑の瞳が焦がされてもいい。
太陽のもとにいる美しい少年を、いまここで、じっと見つめていたかった。
「ゴウト、先に戻るよ」
少年は籠を持った。
音鳴り止まず、ごうごうと、正午の白南風(しらはえ)が布を打つ。
突き抜けるように青く、はっきりとした空の色。
部屋に戻ると目が痛んだ。
長く屋上に居るうちに、光を強く吸い込んでしまったらしい。視界がちかちかと黒ずんでいるので、ライドウは眉間に指を添えて軽く目元を揉みほぐした。そのまま所長のデスクに足を向け、引き出しを開ける。
紐で結わえた書類をいくつか手に取り、さらさらとめくる。行を追う眼差しが雄筆を振るうように流れていく。紙の滑る音が十枚も重なったころ、麗らかさも兼ね備えたその視線がふつと途切れ、書面から離れた。当たり前のように聞こえた足音のためだった。
扉が開いた。
鈍痛がする頭と、だるさを抱えた鳴海が眉間を曇らせてこちらを見ている。
「いじっちゃだめって、言っただろ?」
氷嚢を額に当てるポーズを取り、鳴海が痛みを訴える。
ライドウは書類を置き、置いたものの、書面に釘付けになったように、しばらく机に名残惜しく目をやってから、ようやく元の引き出しへそれをしまった。
「申し訳ありません。勝手なことを」
「ほんとにね。いいのよ、ライドウちゃんは俺のまとめた依頼だけこなしてくれれば」
ななめに傾けた視線が納得いかないという風に少年の心境を伝えていて、鳴海はそのわかりやすさに苦笑した。
「あんまり説得力ないかもしんないけど、これでもまじめに(やるときゃ)やってるからさ。ゴウトちゃんあたりに急かされたんだろ? 様子見に来なくても大丈夫だから、お前も休めるときに休んどけって」
「急かす相手が」
「うん?」
「ゴウトだけなら、まだ、いいのですが」
乳臭い歯が唇をかみそうに物事を告げた。
鳴海はきょとんとし、それから深刻そうにうーむと唸り、最後にへらりと笑ってみせた。
「まぁなぁ、大家さんの取り立てもこのところ厳しさを増してきたけど」
ライドウのまなざしは無遠慮だ。目の前にいる彼を見つめず、机の端に流したそれで、青い情景を眺めていたのだから。
「…………というわけだから、なんにも心配しなくてヨシ! 今日は臨時休業ってことで、あと夕飯よろしく!」
退出しようとする鳴海の背にぽつりと「まだ、正午ですよ」と呟いて――扉が閉まった。
目に収めるのはいつも、ドアの向こうに消えてゆく、彼の小さな背中だった。
目の奥が痛い。
三日、一週間、それから。
学校終わり、寄り道の帰りに、とある男性からラムネを貰った。
マントから潮の香りがする。電車を降りたあともゴウトはしきりに毛を繕い、顔をしょっぱくさせていた。ライドウはゴウトを膝に乗せ、木陰で休むことにした。
ひととおり塩気がなくなった頃を見計らい、ライドウは手のひらの砕いた氷を彼に差し出した。ゴウトはぺろぺろと口直しに移った。
『特別、変わりはなかったな』
物言わず、ライドウはゴウトの背中を撫でた。
風は絶えず吹いている。土は乾き、草はまぶしい。
翠影が午後の風に撫でられ、最上の眠気を歌いかけた。こすれあう葉音は心地よく、ゆらめく木漏れ日は優しい負担をまなこにかけて、閉じよう下ろそうとまぶたに陰る。
『緊張したのか』
「少し」
気を遣われるのはわかっていた。
何事もなく、普段どおりに接せられるのだろうことも。
彼はなにもかも秘密の上で、こちらに選択肢を与える人なのだから。
しゃがみこんだのは、確か、三ヶ月も前のこと。
『あまり考え過ぎるな。時期が重なっていた、優先すべきことがあった、それだけのことだ』
ライドウはまぶたを閉じた。
それでも彼の心に耳を傾けたのは自分の意志。
もっとも尋ねたかった人の言葉はどうだ。思い返せるのか。
意識して遠ざけて、見つめもしない。
ライドウはふっと目を覚ました。
変わらず木陰の風は穏やかで、そのまま寝るには暑すぎて、もっともっと熱気のこもった、あの探偵社の色合いが恋しくなる。
手のひらがくすぐったい。氷がなくなったのだ。
ライドウはうたたねをするように背を預けていた欅の木から身を起こした。
「帰ろう」
黒猫は前足で顔を洗い「にゃあ」と鳴いた。
夏空だった。
檸檬色の熱せられた空気のなかで、鳴海は相も変わらず盥に水を張って足を漬けていた。
「ただいま戻りました」
鳴海は目を閉じたまま返事をしない。
前髪がうっすらと濡れている。ライドウは階段を下りながら素早く外套を脱いでソファに近づいた。脱水症状を起こしていないか確かめようと額に手をかざしたとき、彼の目が静かに開いた。
「おかえり」
粘りのない低音。眠りから覚めた声ではない。
「寄り道か?」
「はい」
鳴海は片足を引き抜き、水に濡れた指をびちびちとばたつかせた。
「帰るの遅いもんだから、すっかりふやけちまった」
ゴウトが不満そうな鳴き声を上げた。
ライドウはかまわず「すみません」と謝り、ソファの肘掛けに用意された手ぬぐいを取った。鳴海はそれを下ろすよう、手のひらで合図した。
「いいよ。洗濯は俺がやっといたし」
屋上の風が聞こえてくるようだった。ライドウに鳴海の意図はわからない。
「潮のにおいがするな」
霞台には居なかったのか? と鳴海がライドウの顔を見上げた。
突然に差し出された問いにライドウは綺麗な歯並びをちらと見せた。唇が薄く開き、なにかを飲み込むように閉じられた。「はい」と。
「ほんっと、“うやむや”っていうのがキライな子だねぇ、お前さんは」
「それは」つい声を荒げた。責めるようなまなざしはすぐに学帽の鍔に隠れた。隠したつもりが、下から見上げる鳴海には意味のないことだった。
謝らなくていいと、これも手のひらで語り、鳴海は揚げた足を上にしてポーズを組んだ。ひらひらと足指を踊らせ、よく見ればその足はまるでふやけていない。健康的な黄色い皮膚は漬けたばかりのように水をはじいて、かかとから滴をこぼしている。
「不安にもなって色々動くよ、俺だって」
『あんなことされたら』と鳴海は遠い目でため息をついた。
たばこのにおいが漂うような、疲れた吐息だった。
三日、一週間、それから、少し昔。
氷嚢を額に当てたポーズの鳴海がいつもの調子でへらりと退出したあと、ライドウは本棚にはたきをかけ、あちこちを雑巾で拭いたあと、ふたたびデスクの引き出しを開けた。五分も間を置いていない。
書類をぱらぱらとめくり目を通すライドウのなんと軸のぶれない立ち姿か。
ゴウトがその場にいたら思わずほれぼれと口を開けるであろう美しいまなざしに、パタンと小さな音が水を差した。視線を移すと、応接室のドアの前に鳴海がいた。あきれたような表情で、ただ、心のどこも笑っていない。
ふたりは見つめ合った。なにも退かぬ眼差しが、強く、じっと、息を詰める。
「お前がすることは、ないよ」
ライドウは書類を机の上に置いた。鳴海のことを見つめたまま、そっと、問い詰めるように。
「どうぞ寝ていらしてください。お体に障ります」
「そう思ってくれるんなら、まず、そこを元通りに」
「なぜ」
「お前ね、お前――」鳴海は頭を掻き、わずらわしい説明をさせてくれるなという風に笑い――うつむいた。「ゆっくり寝てられないだろ」
「大丈夫です。鳴海さんがお休みになっている間、僕が代わりに仕事を」
「ライドウ」
鳴海が不器用に笑っている。
「なにを探しているの?」
目をそらさず、ライドウは答えた。
「届いているはずなんです」
国家の威信に係わる案件のひとつが。
来ていなければおかしい秘密裏の依頼が。
もうずっと前に受けているのに、未整理書類を入れるこの引き出しにも、きちんと整頓されているファイルのどれにも暗殺依頼は見当たらなくて
檸檬色の空気と、冴え冴えと冷えた青い太陽。
耳鳴りは今でも鼓膜に残り、鳴海はいつのまにやらたばこを咥えて窓の外を眺めていた。
「もうずっと昔にうやむやになったことさ。今さら将校に尋ねてどうするんだよ、お前は」
「それでいいのかと」
睨み上げる鳴海にもひるまず、ライドウは答えた。
「川野さんも、やはり何も答えてはくれませんでした。白くまぶしい制服を着たあの人と堤防に立ち、波の高い海原を眺めて、たわいもない世間話を」
「なにを聞いたのかなんて興味ないけどさ」
鳴海はちらと応接用のテーブルを見た。
ラムネ瓶が一本、きらりと光り、机に滴を垂らしている。
「あれ、自分で買ったんじゃないだろ」
「はい」
「捨てろ」
「なぜ」
自分のと一緒に買ってくださったものですよ、川野さんはおいしそうに――
「飲むんだったらその場で飲めよ。ここまで持ってくるやつがあるか」
「暑さでだれているだろう鳴海さんにと」
「あいつが?」
「僕が」
ライドウにしては珍しくどたばたと探偵社を出た。
ラムネを持つのを忘れなかった彼に感心したのか黒猫は後を追い、ともに屋上へ上った。
洗濯物が風にうるさく煽られているのにもう一度感心し、ゴウトは『どっちもどっちだ』とため息を漏らした。
『ずるずると案件を先延ばししたところでライドウの役目は変わりはしない。
わかっているだろうに、どいつも、こいつも』
ライドウは行き場の限られた屋上をどこか軽い足取りで二、三歩あるいた。
怒られたことに納得していないようでもあり、逆にすごく心得たふうに感じているようでもある。表情はすましたもので、どこか憎らしくさえある。
かまわずにはいられない、そんな愛し子の、やわらかな部分を面にたたえて。
ライドウは詰め襟のボタンをひとつはずし、学帽も脱いで、風に吹かれた。
鳥が居たらその肩に止まるだろう。閉じたまぶたはそれだけ心遠くに風に揺られ、少年は籠と自由を同時に感じて佇んでいる。
「いい気分だな」
うん? とゴウトがひげを揺らした。
「いい気分さ」少年はもう一度空に向かって呟いた。
「僕は鳴海さんのことが大好きだ。ライドウの役目も、立場も、なにも変わりはしないのに、今のこの時間が、とてもゆっくりに感じられる」
言幸く――叶わずとも。
頬を撫で、息を奪うそれは筑土の町並みを通り抜けた。
風が吹いた。
いっさいの物音がしなくなった。
とりわけよく晴れた夏の日に、すべては風にさらわれる。
地表に凪が訪れる。耳朶はまことの安らぎを聞く。
行き着く果てを振り返る――風が吹く。後ろ髪に涼しさを知る。
鉄扉の前に男がいた。閉ての響きはとうに町を出たのだろう。
表情は特別変わりもしない。景色を見るようで、事実そうだった。
お互いの姿をみとめたまま、なにも思っていないように風に吹かれて、ただ、静かだ。
ふたりがいた。同じものを眺めていた。
ぎらつく白と黒い影。人の顔など見えはしない。白壁は焼けるように熱く、その熱を一瞬だけ、青い空へと取り去ってしまう、この広がり。真空のようなただ中で、耳と、衣服のはためきが心地よかった。
手すりの前で、少年は美しく、男は眩しそうに、それらを眺めた。
言葉はひとつも出てこなかった。
伝えたいように、尋ねたいようにお互いを見て、それからまた、影を向く。
ふたりでいた。やり方がわからぬまま。
書生はラムネを飲もうとした。学帽のない眩しさに気づき、やめた。
男はどうでもいいように傍らで見ていた。そうして書生に学帽をかぶせた。少し乱暴に。
「どうしたもんかな」
「なにがですか」
「なんか、色々」
鳴海は手すりに背中を預け、頭を掻いた。とても難しく、面倒なものを抱えた様子だった。
「言いつけに逆らう助手なんか抱えて、俺は一体どうすればいいんだろうね」
「引き出しの件ですか」
鳴海は黙っていた。町並みを見下ろす者と碧空を見上げる者、それぞれが手すりに寄りかかり、探り探り会話をしている。
「二度も三度も上司に鼻血を噴かせないよう、僕なりに頑張っていたつもりです」
「なんの関係もねぇよ。あれはほんとに暑かっただけだって」
「それでも、不安になります」
「……うん」
手すりを越えた先にラムネ瓶をぶらつかせていた。半分以上残った、右手をだるくさせるそれを、ライドウはどこかへ放りたくなった。放りたくなった、だけだ。床に置きたくても、鳴海の姿を目端に収めてしまいそうで、今は身じろぎひとつできない。
石けんのにおいが流れてくる。瓶の口に風が吹き込んで、びょうびょうと耳障りな音を立てた。
「ゴウトが言いました。いくら先延ばしにしようとライドウの役目は変わらないと」
鳴海は雲を見ていた。ぼんやりとした顔だった。
「でもさ、今回は」
「今回だけです。それに、僕は結局あの兄妹を」
「ライドウ」
役目は変わらない。鳴海はそれを知っている。知っていて、ライドウの名前ひとつで彼は少年を黙らせた。
「……弾と、件の叔父貴は再会を果たした。蟲人を連れたあいつと叔父がその後どうしたかは知らんが……悪いほうに転ぶと思うか?」
俺らにとってさ。鳴海はたばこを咥えたそうに呟いた。
ライドウの視線は横に流れたままだ。聞きたいことと少しずれている。
鳴海もわざと外している。しばらく黙り込んで、鳴海は不機嫌を装った。
「俺、耐えられないかもって思ったんだけどさ。今となっちゃ、お前と一緒にいるの、別に平気になってきてる」
ライドウはゆっくりと振り向いた。
鳴海の面立ちはどうにも複雑で、じっと見つめていても、わかりかねる。
認めたくないというよりも、もっと単純な、そう、今回のような悪あがきだ。
鼻の下に万年筆を挟めそうな尖らせた唇で、一所懸命、ふてくされている。
「やらせたくないし、先延ばしにしたいことばっかだけどさ、がんばってくれてるの、わかってるし」
鳴海は両肘で手すりにもたれた。
疲れている。だが、風越しに向けた笑みも苦みもない顔は、夜明けのように涼やかだ。
「心配してる」
洗濯物が風にうるさく叩かれている。
ライドウは手すりから身を起こし、鳴海と向き合った。なにかを精査し、問い直すようなまなざしで。
鳴海はふっと笑った。笑って、ライドウの右手に握られたラムネを取り上げた。行方を見もせずに床へ放った。瓶が砕け散り、半分以上残っていた甘水が鼠色に広がった。
大きな瞳をした少年と、微笑む大人。ドームの陰から見下ろす黒猫。
「ついでに、嫉妬も」
泣きそうな顔を向けてしまった。
彼は心得たようにライドウを抱きしめた。
しびれより早くに足腰をさらうキスを、何度も、何度も。
唇の柔さが腕の痛みに勝ればいい。
しがみつく両手の爪が心にまで食い込むようで――受け止めきれず、彼は祈った。
終
10/07/31(土)