prose(和室にて)


 1,

 待ち合わせということもあった。

 黒い車体を鏡代わりにして、男は、くせっ毛にしてはよく整えられた焦げ茶色の髪に手ぐしを入れた。
 口笛を吹きそうな明るい表情だ。
 白のダービーハットをかぶり直し、彼は再び歩き出した。

 男の行く先の逆方向へ霊柩車が走り去った。




 2,

 遠出の際の時間つぶしだった。

 列車での移動中、男はカバンから爪切りを取り出して、親指から順にぱちんぱちんと整えだした。
 すらりとは伸ばさず、軽く曲げながら縦に切るポーズがなんとも内気だ。
 向かいの席の少年が、その姿を見てくすっと笑った。
 リズム良く爪を切る彼の表情が、膝で寝息を立てる黒猫のようにおとなしく見えたのだ。
 むっとしたのか、男は自分の爪をひと揃い整えたあと、学生服姿の少年に爪切りを手渡した。
 肘掛けに寄りかかり、つまらなそうに頬杖をつく。
 不機嫌な目線は少年へと向けられているので、どうやら、『見ていてやるから』ということらしい。
 書生はわけもわからなかったが、挑戦と見て取ったらしく、やがてどうということもない醒めた眼差しで爪を切り始めた。


 がたん、と列車が大きく揺れた。
 書生の薬指に血が滲んだ。
 男は頬杖から身を起こし、さっと少年の手を取った。ほとんど反射的なものだった。
 男は少年の薬指を舐めていた。
 詰めすぎた肉は痛々しく、甘い。
 痛みか、生温かい刺激のためか、少年の指先が時折、びくっと震える。
 甲に鼻息をかけるのもためらわれたか、互いにひそめた吐息は徐々に熱がこもっていき――


 いたわりのつもりが情欲に変わってしまうのだろうか。
 男は唇で丁寧に指を拭い、その手を放した。
 応急セットから消毒と絆創膏を取り出し、手慣れた処置を施す。
 通り一遍のなぐさめの言葉をかけたあと、男は、それからひとことも喋らなかった。
 薬指を膝に置く気にはなれず、少年は爪切りを男に返した。
 受け取り、カバンに爪切りをしまう時の、眉を下げた顔が悲しかった。
 不意の痛みは線路がなくとも続いてゆく。


 宿に着き、入浴を済ませ、畳に寝転がったときに、書生の浴衣を突き抜けたイ草が棘となって肩に残った。肌はまだ若く瑞々しい。

「どうしてそうなるかね、お前さんは」

 書生の後ろに座る男は、情けなさそうにため息をつきながらも、どこか微笑ましいものを見るように笑っていた。
 赤い肩を見せている少年は頬も赤く、うつむいている。

 指先でつまもうとした。挟めもしなかった。爪を切ったばかりだった。
 とげ抜きを借りられるだろうか。そう思ったが、しかし。
 少年のひそめた吐息はあの時と同じように震え、熱がこもっていた。
 肩は赤く腫れて鳥肌が立っている。

 男は歯を剥いた。

 はだけた肩に唇を寄せて、前歯が棘を咥えるまで、少年の肌は舌と唾液の甘痒さに濡れた。
 息を飲む書生の顔がさらに深くうつむいていく。

 男の膝が後ろ手にぎゅうと掴まれた。浴衣がきつい皺を刻む。
 薬指は嬉しそうに血を滲ませ、震えていた。




 3,

 粉をはたく必要もない白い肌の少女を、書生は穏やかに見つめ直した。

 はじめはとてもあたたかな匂いだと思った。
 ここへ共に来た男が胸元から香らせていた匂い。

 白粉がどうして付くのかを知ったあとは、男共々それを憎んだ。

 黒い巻き髪の少女はこちらを優しく見つめ返している。




 4,

「あせもができてしまいました」

「寝汗をかいたのかな」

「あなたがやたらくっつくからです」

「だっていい匂いがするから」

「蚊に刺されてもいないのに、首や脇腹が痛痒いなんて」

「キスマークより触れあってる気がしない?」

「ばか」




 5,

 外気に触れて鳥肌が立ったか、少年が小さなくしゃみをした。
 布団からいまだ身を起こさない男は、ひとつ大きく震えたその背中を雲路を眺めるように遠く見遣った。

 ずっと近くにいれば書生の声の変化に気づくこともなかっただろう。
 初めて会った時よりも、少し低い。男の声になっている。

 ほんのひととき離れている間に、なにかとても貴重な感覚をなくした気がする。




 6,

「一度、電話をしました」

「そうだっけ」

「受話器をお取りになりませんでしたから」

「そうだっけ」

「もうすぐ地震が発生しますから、そこから離れてくださいと」

「……」

「一度だけ、過去に干渉することを許されました。ゴウトにとっても、ふがいない死に方をされるよりは気が楽だったのでしょう」

「……それで?」

「体はないものですから、何度もCallを――あなたときたら昔の僕と乳繰り合うのに夢中で、音の鳴るほうに見向きもしない」

「そうだったな。いい加減うるさかったから、俺はそいつを床に払い落としたんだ」

「結果的にそれがよかった」

「なぜ」

「僕が床に寝転がる前だったから。先に落としてしまえば、電話の角に頭をぶつけることもない」




 7,

「あぁ、体が重い」

 腕立て伏せの最中に男がこぼした。
 息差しの合間に落とした言葉は、どこか充実した弾みがあった。

 昨夜そんなに食べただろうか、行水から戻ってきたライドウが「大丈夫ですか」と声をかけた。「平気だけど」男は言う。

「お前が来てからだな、まともに一日三食を摂るようになったの。昔は一日一食がざらだった」

 一時期それが昔に戻った。体重も減った。再会してからは、また。

「体を作るのが楽しいって思えるの、今くらいだな」

 男は畳に汗を湿らせ、嬉しそうに笑った。




 8,

 少年が浴衣姿で仮眠を取っている。
 蒸し暑いのか、布団を蹴って横に脚を投げ出すほど、珍しく寝相が悪かった。
 浴衣から薄く覗く膕(ひかがみ)は白く透明で美しく、青緑の血管が走っている。

 撫でたいものだと男は思った。
 思いながら、布団を少年の足下へ綺麗にたたみ、代わりに薄い肌がけを肩まできちんと被せてあげた。

 白く抜けるような美しい額の汗を手の甲でゆっくりと拭い、それを返して頬をさらりと、やわらかく手のひらに収める。

「ん」と寝息が上がった。
 男の掌(たなごころ)にすり寄るように、安心しきった表情で、まぶたを震わせ、すうすうと。
 唇が指先に触れて、雛尖のようにひくついた。赤子ならこの顔で乳を飲む。
 男の息に熱がこもった。

 ――と、糸のような細長い音が空気に満ちた。

 男は眉をひそめて、その場を離れた。

 しばらくして戻った男が、蹴り飛ばされない位置を慎重にはかり、蚊取り線香を焚いた。
 白い煙が渦巻きから立ちのぼる。

 男は隣部屋の座椅子に腰を落ち着け、うちわでぱたぱたと胸元を仰いだ。
 汗のにおいがする。




 9,

「よく眠れた?」

「はい。でも」

「なに」

「この赤みは」

「っ、俺じゃないよ」

「だからですよ」





 本当に、残念。





 終
 09/08/11(火)