「なんですか、犬みたいに」
「お前の後れ毛と耳の間の部分な、いい匂いがするんだよ」
「くすぐったいからやめてください。
おまけに、なんですか、その鼻の冷たさは」
指先で軽くつままれた。
痛みもなくじんわりと鼻先をあたためてくれる優しい指だ。
「体も冷えているんじゃありませんか。ストーブの火力をもっと強くしないと」
石炭臭くなる前に俺はライドウの肩に顔をうずめた。
抱きしめていると少年の身体から“この前”とは明かに違う力が反発となって両腕に返ってくる。
「月日の経つのは早いもんだね」
さらさらの髪の毛が俺のくせっ毛とからまった。
抵抗もしないが抱かれるのを良しとしない戸惑った振り向きだった。
「段々と男らしくなってくる」
疑問のまばたきを感じた。
「匂いだよ。日によって毎日違う。風呂上がりは石けんの匂いがするだろう。外から帰ってきたら冬の匂いを連れてくる。汗臭いときもあれば夢の中にしか咲かない花のような香りをさせる時もある。血や精液にまみれる雄の臭いも俺にとっては充分魅力的だが」
「鳴海さん」
「怒るな。俺はちょっと寂しくなるよ。
いつのまにこんなにたくましくなった?
つくろいもしない、自然な優しさを見せるようになった?
1日が終わるたびにお前は少年から男へと変わっていく」
首筋に冷たい鼻をこすりつけた。やわらかさがあった白い皮膚が血流の音高いぴんと張った男の首になっている。
匂いは昨日と違う。“この前”とも、勿論。
「初めてお前を抱いた時はこんな匂いは」
「それは当然のことと思います。あなたから移ったのですから」
ライドウの両手が俺の腕に重ねられた。
振りほどこうという意思はない。
甘える子供の頭をなでるような置き方だった。
「背中からこうしてあたためられて、僕に移り香ひとつないというのも、寂しいじゃありませんか」
母親の胸へ照れ隠しに顔をうずめる子供とたいして変わらない。
甘えと、寂しさと、安らぎとなにか。ライドウの鎖骨はいい匂いがする。
「俺の匂いなんて移るのかい」
曇った声。
詩(うた)を詠む声は耳よりも肌に響いた。
「花よりも、女よりも。
御自分の匂いがわからなくなった時は僕を抱いてご覧なさい。
昨日のあなたの匂いが残っているはずですから」
あぁそうか、この匂いは――。
深く息を吸い込んだ鼻面にあたたかさが伸びる。優しい指先が撫でてくれている。まぶたや、頬にも。
片方の腕はずっとしがみついているわがままな腕を振り払うことなく寄り添ってくれている。
「あったかいなぁ」
「えぇ、とても。
寂しがることなんてないんですよ。
僕はあなたのぬくもりで今のあなたの匂いになっているのですから」
「じゃあ俺は?」
どうでもいいことを聞いた。
ライドウはそれには答えず、別の、もっと大事なことを教えてくれた。
「鳴海さん――今の鳴海さんは、寒くてぶるぶる震えている子供のような匂いがします」
あたためてあげないと――。
ライドウは初めて両腕をほどき、俺の身体を真正面から抱いた。
たとえはすごく正しい。
俺の背中がこんなにも冷えていたなんて、誰かの両腕が回されるまで気がつきもしなかったのだから。
『震えが治まるまで、こうしているから』
“この前”のライドウの背中も冷えていた。
いつだったろう、あいつを抱きしめるやつなんてまだ誰もいなかった時に、霧雨の降る晩、俺は泣きながら帰ってきたこの少年の背中を抱きとめていたのだ。
『震えが治まるまで、こうしているから』――
あの時、確かにこの子供は、幼くも悲しい少年の匂いをさせていた。
けれど今香ってくるあたたかい匂いは、あの日、俺が望んだ体温から生まれた余香と相違ない。
俺は笑った。
――成長したな、ライドウ。
「震えが治まるまで、こうしていますよ」
子供を抱(いだ)く、優しい男の匂いがした。
終
08/01/06(日)
書き直し/08/11/13(木)