水茎の跡

 外は雪。
 元旦の探偵社はストーブがきいていて窓が曇るほどに暖かい。
 午前8時。
『お年玉』と書かれた大入り袋をまじまじと見てライドウは首をかしげた。
 鳴海から手渡されたものだが意味がよくわかっていないらしい。
 にこにこから一転、「あー、つまり」と説明の姿勢に入った鳴海の話をライドウはじっと聞くことにした。

「大人から子供へのプレゼント。正月の時期にはこうやって、少しの小遣いを渡すものなんだ」

「僕は鳴海さんの子供ではありませんが」

「誰の子供でもいいんだよ。可愛がってりゃそれでいいの」

 それを口実にもっと可愛がりたいんだからさ。
 本音が出る前に鳴海は言葉を飲み込んだ。
 軽く咳をして仕切り直す。

「まぁとにかく、少ないけど受け取ってくれよ。それで好きなものを買うも良し、大事に取っておいても良し。子供扱いして悪いけど……」

 取り繕えない寂しさを優しい表情に見たのか、ライドウは慌てて「いえ、嬉しいです」と声を高めに受け取った。なにせお年玉を貰うのは初めてのことだから、どんな喜びを相手に示せばいいのか、それがまずわからない。

「ありがとうございます」

 魔封具を買うのに役立ちますと、いらないことを言う前にライドウは口をつぐんだ。
 きっと鳴海さんはデビルサマナーのお役目とは関係のないものにこのお金を使って欲しいのだろう――にっこりとした笑顔を崩さないまま少年は人の顔色をよく読んだ。昔からの癖だ。この処世術のおかげで人との誠実な関係が築けない。
 そのようなこともよくわかっていたが、希望の品からしてこうなのだ――自分の素直な部分は決して人を喜ばせることはないだろうと、ライドウはいつの頃からかそう思い込むようになっていた。

 ストーブの上のやかんが湯気を立てている。
 しゅうしゅうと煙る音の他には何も聞こえず、外は雪のせいもあってとても静かだった。
 鳴海は何も言わずに頭を掻いた。
 笑顔はそのままなのに、どうしてか鳴海の表情は仕方ないという風な諦め交じりの寂しい顔なので、ライドウはそれを見てますます焦ってしまった。

 鳴海は鳴海で『お年玉をあげた』という行為ひとつでそんなに気を遣われるのを、どうしようもなく悲しく感じていた。わからなければわからないままで受け取ってもらえればそれで良かったのだ。おそらく気のせいではないのだろう、子供らしからぬ苦労の面影を垣間見た気がして、鳴海の心は鈍色のように重くなった。

 どちらも何も余計なことは言っていない。
 なのにいらない気分は通じ合ってしまう。
 顔ひとつ、袋を強く握る仕草ひとつでどうしてそこまでわかってしまうのか、お互いがお互いの存在にうんざりしかけた頃、「あ」と声がした。

「どうした」

「これ――鳴海さんの手書きですか」

 ライドウが『お年玉』と書かれた袋を見せた。文字は滲み、黒くずった指には墨が付いている。
「あぁ」と鳴海は方眉を上げた。

「急いで書いたからな。まだ乾いていなかったか」

「きれいですね」

 突拍子もない言葉に「え?」と冗談めいた声が出た。自然と両ポケットに手を入れて前のめりに様子を伺ってしまう。少年はそんな鳴海の姿勢などお構いなしで、じっと白い袋を眺めていた。きらきらした瞳で。

「いつもタイプライターで書いた文章しか見たことがなかったから――鳴海さんの字がこんなにお上手だなんて、今まで知りませんでした」

「いや、その……まぁ、明治生まれだし」

 よくわからない理由を口にするも、ライドウは彼の言葉を聞いていなかった。

「俺の字なんてどうでも」

 口を開きかけたところで「あぁ」というため息が聞こえた。

「ずってしまったのがもったいないです。こんなに優麗で雄々しい、美しい字……」

 好意しかなかった。
「とっておきたかった」と呟き、うつむく顔。しかし惚れ惚れと文字を見つめ続ける眼差しは心から嬉しそうで、鳴海は彼に声をかけることができなかった。
 宝物を手にする少年の顔とはこんなにも明るいものなのか。またたく星より目蓋に残る。
 鳴海はストーブのせいではなく紅潮した頬を少し掻いた。かすかな汗が指先にくっつく。
 褒められたこともない部分を褒められた名残だった。

「あのさ」

 遠巻きに声をかけた。ようやくこちらを振り向いた少年に、鳴海は確実に後悔しそうな提案をした。

「いいよ。そんなに気に入ったんなら、今度は名前入りで書いてやるから……いや、いらないならやっぱり」

「ぜひ」そこに机があれば乗り出す勢いだった。「欲しいです」

 遠慮がちに、でもきらきらとした顔に押されて鳴海は机に向かった。
 体験したこともないくすぐったさに早々と後悔したが、それを押し切るライドウへの好意のほうが上回った。
 いいじゃないか、こんなに喜んでくれるなら、字を書く恥ずかしさくらい――
 いつの間にか文字を書く行為に恥ずかしさを覚えていることに気づき、鳴海はますますわけのわからない汗をかいた。

「あの、どこかお加減でも悪いのですか?」

「いや、大丈夫。……万年筆でも構わないか?」

「はい」

 にこにこと嬉しそうに答える少年を見て鳴海は袋を前にふと考えた。
 万年筆の蓋を開けてもまだ答えが出ない。
 本人に聞くべきかどうかもよくわからない。
 少しずつ冴え冴えとした頭で『ライドウへ あけましておめでとう』と、一筆一筆、心を込めて文字を書いた。
 遠慮の表れだろう、遠目から鳴海の筆遣いを覗き込む少年は、先ほどと変わらず、とても嬉しそうに見えた。
 書き終えた鳴海は、そんなライドウの様子をどこか神妙な、深い思いに満ちた表情で見つめていた。

 これでいいのだろうか。
 ライドウはこんなに嬉しそうなのに――
 いや、やっぱり。

 渡そうとする寸前、「やめた」と彼はお年玉袋を握りつぶした。
「あ」と何も咎めることをしない透明な少年の声が鳴った。
 咄嗟とはいえ、冗談めいた責め声もなく、それが鳴海の決意をより確かなものにさせた。
 にこりと笑う鳴海の顔は、うわっつらの軽薄さと、底にある真摯さとを見え隠れさせていた。

 ばくちを打つ心境ではある。けれど、どうしても。

 彼は、彼にしかできない少年への好意をまっすぐに告げた。

「名前、書いてやるからな」

 失敗作をくずかごに放した鳴海の手のひらを、余裕を見せ始めた大人の優しさを、ライドウはしばらく後に訪れた紅潮と共に見ていた。

 彼の子供ではないけれど。
 お前の親ではないけれど。

 ――初めてのことなんだ。
 本当に欲しいものくらい、きちんと名前を書いて贈ってあげたい。
 その文字自体を喜ばれるのだったら、なおさらのこと。

 つまらない自己満足とはわかっているけれど――そう考えたところで鳴海は少年の視線に気がついた。
 本名を書き始めた自分を、まだ名字の一字程度なのに、前よりも強く慈愛と憧れとに満ちた眼差しで見つめる、少年の楽しそうな顔。優しい表情。わくわくとした嬉しさと頬の赤み。
 それら全ての想いがごっちゃになって、鳴海の顔は再びかぁっと赤くなった。跳ねるように汗が噴き出す。

「あんまり見るなよ。照れるだろ」

「いいじゃありませんか。ほら、あんまり万年筆を押しつけるとインクが出過ぎてしまいますよ」

「だからお前が少し遠慮してくれれば、きちんときれいに書いてやれるってのに」

「見せてください。鳴海さんの字ってほんとうに上手で、僕、見ていてすごく嬉しいんです」

「そーゆー恥ずかしいことをお前はなぁ」

 汗をかいて、頬を赤らめて、じゃれあい続けるその行為すべてが相手を『好き』と言っている。
 一緒にいて楽しいと、笑みが絶えないと。
 確かめるまでもなく、いつだってそう。いつのまにかそう。
 少年の素直な部分は彼を喜ばせて、彼のすることは少年を喜ばせる。
 繕っても、気取ろうとしても、滲み出る好意は自然と心地よい雰囲気を作り出す。

 ぼた雪が積もる窓の桟から黒猫が見えた。
 まるで部屋の中のふたりを見飽きたという風に外へ向けて『にゃあ』。
 あくびをした。


 終
 09/01/06(火)