蝉と文鳥・9

 夕餉の膳に起きてから少年はちらちらと窓の外を眺めていた。
 晴れている。
 雨上がりの冷たい風が流れこんできた。
 鳴海は別に外を見ようとはしない。黙々と箸を動かしてうまい米を食べていた。

 かけ流しの湯に浸かり頭の湯気も冷めきらぬ頃に、浴衣姿の鳴海が腰に手を当て堂々と縁側に立った。

「さて。やるか」

 まじめに遊びを楽しもうというふざけた顔だった。
 ライドウは仁王立ちをしている上司を見もせずに、それなりに手入れのされた庭園に水の張ったバケツとろうそく、そしてマッチを用意した。

 ころころと蝉とは違う秋の虫の声がする。対して風鈴はしんとしている。涼しいが、短冊をゆらすほどの風ではない。
 空には満月、星がちらほら。月明かりで影ができた。

「ここに十本の線香花火があります」

 鳴海が買ってきたものだ。手のひらにはらりと分かれた細長い花火。紅色の紐がこよりを巻いている。
 彼は軽い笑みを絶やさぬままライドウに五本の花火を手渡した。

「どっちの線香花火が長くもつか賭けをしよう」

 少年は五本の束を見てぱちぱちとまばたきをした。

「賭け……ですか」

「そう」

「勝ったらどうなるんです?」

「別になにも」

 眉も口もしかめて少年が鳴海の顔をいぶかしげにのぞき込んだ。
 鳴海の横顔はぞんざいな線で描いたようなよくわからない表情をしている。

「長くもつというのはつまり、火玉が落ちるまでということですか」

「そう」

「なぜそんなことを」

「別に。どっちかが先に落ちるのは間違いないんだからさ」

 鳴海はろうそくに火をつけた。マッチ棒をバケツに放る鳴海の顔はつまらなそうだった。

「それを当てっこするだけ。簡単だろ?」

 縁側に座った鳴海は隣をぽんぽんと叩いた。足元のろうそくを挟んでここに腰掛けるようにと口を使わず言っている。

 ライドウは鳴海の横顔を見た。煙草を口にしていないのを不思議に思った。
 物言わぬ面立ちに誘われ、彼の隣へ座る。呼吸も静かに落葉松の根元へ目を向けた。
 蝉の死骸があった。
 ライドウは水面に映る月のような声音で呟いた。

「どちらが長くもつかというのなら」

 少年は一本の線香花火を手に取った。

「鳴海さんの火花のほうがより長く光を残すと思いますよ」

 彼はくすりと笑った。

「光が残ったら、それをみんなお前にくれてやるよ」

 ろうそくに互いの花火がしたむように降りてゆく。

「つまり?」

「つまり俺はね」

 火がついた。

「お前のほうが長くもつって予想するよ」


 鮮やかな命が生まれた。
 橙の槌に打たれた星の子が弾け、飛ばせ、もっともっとと小さな声で喜びを歌っている。耳をすませなければ聞こえない秘めやかな声で。
 やがてゆっくりと、眠りに落ちるように、光が弱まる。
 瞳を閉じたのだ。


 こぼれた橙の生命は同時に地面に落ちた。


 髪の毛一筋動かさずに少年がまばたきをした。
 ぽやりと目を見張っていた鳴海が「はは」と笑った。

「こういうこともあるものなんだな」

「あと四本」

 どうしますと少年が尋ねた。
 鳴海は線香花火を一本、指先から垂下げた。

「賭けというものは決着をつけなきゃ終わらないものでね」

 ろうそくの炎に再び線香花火が落とされた。

 今度の賭けもお互いの火花に勝負を委ねた。

 火が絞り降りるような音を立ててかき消えた。
 同時だ。わずかの差もない。

 鳴海は黙っていた。
 少し困った風な笑みを口元に浮かべている。
 斜めに傾けた視線は焼けた砂利に向けられていた。
 ライドウはためらうことなく線香花火を手にした。

「あと三本。次には決着がつきますよ」


 ぱちぱちと燃えてゆく蛍火。


「もし僕のほうが光を残しても、すぐに鳴海さんに分け与えますから」


 咲ゆく姿は曼珠沙華。


「だから大丈夫ですよ。賭けは僕が勝ちます」


 色移ろい燃やす紅玉の火。


「いいや、俺が勝つよ。お前のが先に消えるわけがない」

「なぜ?」

 鳴海は答えなかった。
 言葉の代わりに橙の火が落ちた。
 ふたりの顔が赤々と照らされて、陰り、しんとする。

 ライドウは鳴海の横顔を見た。
 焦っているような、苛々しているような落ち着きのなさが、眉や唇から見てとれる。
 そしてそれは自分も同じだろうと思った。
 線香花火を摘む指が震えている。

「なぜ決着がつかないのでしょうね」

「風が吹いていないからだろう」

 鳴海は額の汗を拭った。妙に暑い。虫の声も聞こえない。

「僕は勝ちたいんですよ。負けたくない」

「俺の火花に賭けてか?」

「あなただってそうだ。僕の火花に賭けて勝ちたいと思っている。でもそんなことはさせない、僕は」

 火を灯す。
 橙の粒が弾けて、広がり、色沈ませて、ふつと消えた。
 少年はうつむいた。
 足元の名残火を緑に焼け付く瞳で見ていた。
 風は吹かない。虫も鳴かない。
 燃え尽きて、沈黙を闇よりも深める線香花火。
 少年は声張り裂けんばかりにそれを地面に打ち捨てた。

「なぜ一緒に落ちる!」

 立ち上がりかけたライドウの手を強く握りしめる者がいた。
 彼はあたたかい手のひらとはまるで正反対の力宿る眼差しで少年の注意を自身へ向けた。
 言葉つまるほどに見つめられた少年は、一瞬の焦げつくような吐息をつき、彼の意思を見つめ返した。
 彼は絡めた指と一緒に少年の手をゆるく、ゆっくりと上へ持ち上げた。
 少年の手を招いた彼の指先は、月明かりも届かぬ暗がりをさした。
 軒下の影に丸いかたまりがあった。
 つばめの巣だった。


「いつかの時までの巣だ」


 見上げている横顔は風も吹かない穏やかもの。
 焦りも苛立ちも賭けの行く末すらも読みとれぬ湖のような面立ち。


 ――けれど、だからこそ。


「俺はそのつもりでお前を待ってた」


 ――こんなにも痛む、少年のこころ。


 星座のように紡がれた答え。
 ぱちぱちと明滅する点と線。
 途方に暮れて天を仰ぐ。



 あぁ、風鈴はなぜ鳴らないのだろう。



 僕はこの人のことが好きだ。

 籠はいらない。鍵もいらない。
 いつかの時までと言ったけれど、僕はまだ彼の巣へ戻っていきたい。帰っていきたい。


 巣作りは時間がかかったろう。
 それだけ想いも深かろう。


 危険とわかっているところに送り出す者がいるものか。
 力を貸す者がいるものか。
 金木が光らないのはあなたの心があればこそだった。

 そして金木が輝いたのも――


「鳴海さん」

「うん?」

 まなこに星を映すのか。
 海のように揺れる想いをこぼさぬように、言葉ひとつをゆっくりと紡いだ。

「僕は本当に賭けたかったことがあるんです。願い事と言ってもいいかもしれない。最後の一本、僕の為に使わせていただけませんか」

 微笑み、見つめ返す鳴海の顔がぼやけている。
 少年は星を落とさぬように我慢して、同じくらいに微笑み返した。


「それが叶ったら……賭けに勝ったら、鳴海さんにそのことを教えます」


 風も吹かず虫も鳴かず、風鈴の短冊はしんとしている。

 ろうそくの最後の炎で華のような蛍火を燃やした。
 頬があたたかい光で照らされた。
 輝く生命が燃えていた。嬉しいと笑う子供の声が聞こえてくるような、静かな静かな音を奏でて。
 優しい瞳に見つめられて、ふたつの光がやわらかな、落ちついたものに変わってゆく。
 まるで手をつないでいるように、丸い玉がほとりと落ちた。

 明かりが消えた。
 今は天の輝きがぽうとあたりを照らすのみ。
 指先に持つ紅色のこよりが夏の名残の色としてまぶたの裏に強く残った。

「お前の勝ちだ」

 そう、望みは叶った。
 だけど彼には伝えていない。

「どうして勝ちとわかります」

 当然のように男は答えた。

「お前が負けるわけがない」

 そんなことを昔、言っただろううか。
 それに似た言葉を、彼は力こめて少年に託した。
 今と同じ、笑顔だった。


 ――『ライドウ お前なら出来るさ』。


 片想いではなかった。
 だからこそ輝いたものがあった。

 ライドウが月のかたちの涙を落とした。頬を伝う涙だった。閉じた瞳につぐむ口。ゆらゆらと震う人心(ひとごころ)。

 いじらしい男。
 握りしめられている指先、今すぐにでも返して深く熱く絡め合わせたい。



 庇護と信頼とを誰よりも強くこころのせてくれる彼に、この夏だけでもいい、どうか大きな祝福を。



 我儘な願いと想いを寄せて、線香花火の煙に之を託した。
 上向けた顔、ため息と共に呟いた言葉。
 取るに足らない、ひとつの情熱。


「僕たちもこんな風に生きられたらいいのに」


 鳴海はライドウを抱いた。

「生きられるさ」

 口づけは涙の味がした。

 風鈴が今宵、初めて鳴った。
 風の紡ぐ偶然の音楽。
 忘れられずに今に至る。