蝉と文鳥・7

 絶叫を放ったと思った。
 実際は涙を流しているだけで口はぱくぱくと開いていた。
 鳴海に肩を揺すられている。
 ライドウは嫌悪の表情でその手をはじき返した。
 涙を流しているというのにその瞳は火のように熱い。

「あなた、あなたは――僕が未来から戻ってきた時、安心しましたか?」

 言っている意味がわからないという顔だった。鳴海のそんな表情を見てライドウは歪んだ笑みを深くした。

「安心したでしょうね。喜んだはずだ。これでようやっと気を楽にして愛することができるから。抱いてもいいと思ったから。違いますか」

 鳴海は間近で指をさされているような戸惑った、それでいて不快そうな顔をした。
 はじかれた手が今になって痛むという風に。
 ライドウは津波のような勢いで鳴海に言葉を叩きつけた。

「僕はね、あなたのことをそう信じてはいないんです。
 だって時空を超える必要があった時でさえ、一番近くにいたあなたは力を貸してはくれなかったのですから」

 がばと起きあがった裸身の少年の眼差しはきつく、容赦のないまるで夏の太陽のようなもの。
 鳴海はその光を眩しく思い、ゆっくりとではあるが、下方に視線を反らし、俯いた。

 蝉が昨日と変わらず大音量で空気も張り裂けよとばかりに鳴いている。
 男はかき消えそうな声で呟いた。

「……天津金木か」

 少年は内の炎をそのままに彼を見据えた。『そうだ』と訴える熱い眼差し。涙は乾いていた。


 手に入れたのはみっつの心。
 一番必要としていたもうひとつの心は、手に入らなかったので、自分の片想いで事を為した。


 それがどんなに虚しくやるせないものだったか。
 戻ってきた自分を出迎えたあなたは本当に嬉しそうで、だから酷くずるいと感じた。
 戻ってこなければ、それはそれで安心できるように、深くは愛さずにいたのだと。
 ひとつの想いさえも貸さないほどに。


「文鳥を見てから僕はほんの少し思考が止まっていた。もしかしたらと思って、だけどやっぱりそれは確信に変わった。

 あなたは最初から僕に深くは関わるまいと決めていたんだ。
 自分の中に僕の領域――籠のようなものを作ってしまわないように。
 いつか僕がいなくなった時、あなた自身がからっぽになってしまわないように。

 そうして僕が戻ってきたら今度は籠を開け放したままの立場を取りたがる。いつでも出ていってくれてかまわないと。俺の知らぬところで死んでくれてもかまわないと。

 変わらず戻ってくる僕を見て何度心の内で笑いましたか」

 鳴海は微笑んでいた。
 眉を下げて微笑んでいた。
 そうするしかないというように、ライドウの責め立ての間に、表情は仕方のない笑みに変わっていった。

 ライドウの激しさもひとつ、ひとつと時が秒を刻むごとに、冷えて、沈みこんでゆく。
 彼の笑みを理解すると、頭から静かに水をかけられたように、眼差しがおとなしいものに小変していった。
 やがて自嘲するように、口元に苦い笑みを浮かべて、ライドウはうつむいた。

「すみません、忘れてください」

 鳴海は動かず、布団の上にあぐらを組んだまま、膝頭に両肘を立てて、三角に開いた指先を互いの腹になでつけていた。
 斜めに向けた視線が沈黙を歌う。



 たとえ何かが本当のことだったとしても。



 愛さずにいたからといってどうなのだ。
 深く立ち入らずに済むのを選んで何が悪いというのだ。
 無事であるように願い、戻ってきてから、初めて安心して少年のことを見たとして――



 一体、どこに責める点があるというのだろう。



「――僕は、また我儘を言い過ぎた。
 深読みをして、立ち入りすぎて、抑えを効かなくしてしまった。
 なぜ、何もかもをハッキリさせようというのだろう。点と線が結ばれたとして、それが一体何になるのか……」

「ハッキリさせてもいいよ」

「いいえ、僕は」

「俺は」



 お前が無事に戻ってくるのを、願っていたよ。



 頭をうつむけて、肩を震わせている少年が、ひとり。床の上で後悔をしている。布団に滲みていく涙が何かを癒していた。

「臆病なのを謝るよ。ごめんな」

 頭を振り、嗚咽の声を漏らす少年が居る。


 そんなことを言わせるつもりはなかった。
 隠されているものを暴こうとする自分が嫌だった。


 穏やかに、長い時間をかけて整えられていた彼だけの心を、どうして無遠慮に踏み荒らしてしまうのか。
 土足で辱めてしまうのか。

 少年は布団に頭をこすりつけるようにして鳴海に謝罪した。
 心の底から謝罪した。
 許してもらおうとは露ほども考えずに、ただただ、鳴海に謝った。

 鳴海とライドウは高くなった日と眩しい影に照らされて、逆光のただ中にいた。
 表情も何もわからない。
 蝉はずっと鳴いていた。