蝉と文鳥・3

 午睡に耽る鳴海を見て少年は『だらしのない』と思った。彼は所長椅子に背を預けていた。
 不愉快さを夕暮れどきまで鳴く蝉の音のせいにして、書生は夏用の薄い毛布を持ってきた。
 上司にかけるつもりが気が変わった。かたちのよい唇がやわらかに閉じられているのを見たからだ。夕日よりも濃い影を彼の頬に落とす。
 冷たいやけどをしそうと思ったか、少年の指は彼の腕にそっと置かれるだけに止まった。
 腹部からとくとくとこみ上げるいとおしさが唇の感触をよりふくよかなものにする。鼻息がくすぐったい。

「ん」と漏れた声にライドウは笑った。眼差しだけで微笑んだ。
 さらに深く重ね合わせようとすると両肩を軽く押された。わずかの抵抗である。それが少し嬉しかった。

「なに」

 ようやく見つめ合えるくらいに離された唇がまず口にした言葉だ。鳴海の目はまだ寝ぼけている。

「起きてください。風邪を引きますよ」

 毛布はとうに床に落ちている。少年は無抵抗の彼に乗りかかり、椅子ごと恋人のように抱きしめた。
 だっこをするはめになった鳴海はしょうがないという顔でライドウの背を抱く。

「お前さんじゃ毛布の代わりにはならないよ」

「それはそうです。僕で我慢なさい」

「なにその高慢な態度」

「いいから」

「よくないよ。降りろ」

「鳴海さん」

 名前を呼ぶのと顔を胸にすりつけるのはほぼ同時。
 鼻孔をくすぐる男の匂いを楽しみながら「鳴海さん」「鳴海さん」と甘みのある声で彼にじゃれつく。
 どけようとしたのか、鳴海は少年の頬に親指を押し当てた。口元までずろうとした時に彼は低く呻いた。親指をしゃぶられたのだ。
 ちゅうちゅうと鬱血するくらいに舐められて、口の中で転がされて、まるで男根の代わりのように翻弄されたあと、かわいそうな親指は、付け根をおもいきり噛まれてしまった。
 それからまた、慰めるように舌が這い――黄昏時の静かな部屋にちゃぴちゃぷといやらしい音が響く。
 ライドウは胸元に顔をすり寄せたまま、やや首を傾いだ上目遣いで彼を見上げた。
 彼の唇はうっすらと開いて、音無く息を荒げている。親指を含んだ口の端がにぃと持ち上がった。その眼差しは妖精よりも悪戯に思えた。
 ふやけた指をちゅぽんと放し、それでも『まだいじめ足りない』と真黒き瞳で物語る少年は、秘めやかな声でこう囁いた。

「痛いのがお好きですか」

 またがっている部位の変化を知ってのことだ。
 噛んだときに明かなふくらみを感じた。

 鳴海は少年を抱いた。
 日が橙色に燃え落ちるまで、隠そうともしないあえぎ声と水音が室内に響いた。

 腹の部位を汚した後もライドウは鳴海にしがみついていた。
「重いよ」と言っても離れない。
 背中を軽く、あやすように叩いても動かなかった。
 呆とした遠い目の少年が気がかりで、鳴海は少しの冗談を言った。

「ライドウ」

「はい」

「どっか行こうか。お前が気絶するくらいにさ、ぐだぐだぐだぐだセックスばっかするんだよ。どっか遠い所で。温泉街。行ったことなかったろ」

「ゴウトが許してくれるのなら」

「無理かな」

「連れ出して」

 はははと笑った。

「ライドウ、」

「お願い」

 頼りなく弱々しい声だった。
 鳴海は眉をひそめた。

「お願いします」

 ライドウの瞳は空気の底を見るように遠い。
 もたれかかったまま動かない。
 不穏な音がすると思って鳴海は鳴り響く耳元に意識を向けた。
 蝉の鳴く音が聞こえた。


 ひどい夢を見た。
 別に知りたくもない未来の記憶。戦争、キノコ雲、宇宙飛行、雑多の歴史とICBM、大洪水。
 それと共に襲いかかる悪魔など恐ろしくもなんともないが、処理しきれない時代の知識は少年の脳には負担以外の何ものでもない。
 精神の汚染だろうか。彼女はよくこんな膨大な歴史を耐え抜いたものだ。それとも不必要な歴史は忘れてしまったのか。

 そもそもこのアカラナ回廊へ来る前だって――

 あぁいやだ。

 自分たちのいる大正二十年は正史に存在しない歴史と知ったが、それは別段どうでもいいことだった。

 それとは別の、もっとずっと、いやなこと。
 金木はどうして光らない?――


 胃の腑が痛む声。少年はそれが自分の声ともわからずに闇の壁をもがいていた。誰かの引き絞る含み声が聞こえた。鳴海だった。
 鳴海が少年の手を握りしめて残る左手で小さな肩をベッドへ押さえつけていた。
 目の焦点が合うと鳴海の手の甲に真新しい朱の斜がいくつも見えた。ひっかき傷だ。
 自分がつけたものだと知って息を飲もうとしたが喉がつまってうまくいかない。
 呼吸のできない苦しみを察知するや否や鳴海は少年の手を離し、口づけた。
 閉じた喉に息が送り込まれる。
 口を離して息を吸い込みもう一度。もう一度。それでようやく少年は息を吹き返した。

 何も言わなかった。彼は傷ついた手甲で少年の額の汗を拭い、自然と返した掌で頬を撫でた。あたたかい手だった。
 見開き続けた眼がちっとも痛まないのは涙を流していたからだと、頬を撫でられた時に気がついた。

「すみません」

「謝ることじゃない」

「傷。傷が」

「そんなのはいい。なぁ、これからしばらく一緒に寝ようか? 俺を呼べと言っても息もできないんじゃあ」

 答えようとしたら激しく咳き込んだ。
 がばりと起きた少年の背をさすりながら鳴海は何かを決めたように窓の近くにいたゴウトを見た。
 カラスの眼で彼もこちらをずっと見ていた。鳴海を呼んだのは彼なのだ。

「明日からしばらくの間、休暇をもらえないか」

『そうお前に頼もうとしていたところだ』

「ありがとう。助かるよ」

 鳴海はいつものように眉を下げて笑った。ライドウは鳴海の胸で咳き込みながら悔し涙を落とした。


 富士子パーラーの前でリンと落ち合った。連絡を取ったライドウは籐で編まれた籠を両手に抱えていた。

「一週間の温泉旅行? うらやましいわ。お金持ちなのね、探偵さんって」

 銀縁の眼鏡を艶めかせてリンが笑う。
 伽耶からもらった一度も鳴かない文鳥の世話を頼むのである。
 ライドウは餌代にしては充分すぎるほどの手金の入った封筒を半ば強引にリンに手渡した。
 籠の中でおとなしくしている白い鳥を眺めてリンは穏やかな笑みを浮かべた。

「きれいな文鳥」

「伽耶さんからもらったものです」

「伽耶から?」

「いつ逃げ出してくれてもかまわないという風に、黒猫の出入りを許した部屋で、檻も窓も開け放して飼っていたから──」

「あの子らしいわ。猫の世話もしないくせにね」

「なぜ」

「嫌いなの。猫って自由だもの」

「そうかな」

「そうよ」

 いってらっしゃいと片手を上げて見送られたのがライドウには無性に嬉しく思えた。背を向けてから自然と笑みが浮かぶ。
 文鳥は束の間の主人の旅立ちにも無声で応えていた。