ちゃぷちゃぷと歩くたびに音がする。
いつごろからか、互いの目には足元に水たまりができていた。
靴を浸すか浸さないかくらいのわずかな水は日を追うごとにかさが増していった。
今は夏。
足首まで水がある。
「濡れてる感じある?」
「いいえ」
「そう。俺も」
放っておいたが部屋の隅々にまで水が浸食していくのだから視界はやはり奇妙だ。
見えない箱に水が溜まっていくようで、互いの幅のない領域にはかさの違う水がゆらゆらと揺れている。
「この水かさの違いはなんなんでしょう」
「お前のほうが少し高いね」
「音がするだけで歩きづらいという感覚はありませんが、やはり他人には見えないというこの状況がなんとも」
「じゃあやっぱり俺たちの問題か」
「そうなりますね」
ふたりは顔を見合わせてため息をついた。
またかと思ったのだ。
どんな心がそうさせるのだろう、普通に暮らしていけたらいいものを。
何を自覚させようというのだろう。
疑問に思った少年はそのことを尋ねた。答えを求められた側は軽く肩をすくめて、口を開く代わりにキスをした。
どちらの水かさも増した。
視線だけ下方を向いて鳴海は言う。
「こういうことだろ」
いまだぬくもりの残る唇を手で押さえて少年は呟く。やや赤みがかった頬で。
「僕のほうが多い」
「嬉しいことだねぇ」
鳴海はにやにやと笑った。
蝉の鳴き声がする。
風鈴がちりんと鳴った。
風は涼しいがわずかに汗をかくほどの日差しの高さ。
鳴海はだらしなくソファに座って足元の水を蹴る。
「せめてこれが冷たければさぁ」
領域が曖昧な箱から一滴も出ない水は跳ねるに任せて鳴海の足元に帰り着いた。それを面白がろうともせずにばしゃばしゃと足でかきまぜる。わずかにあぶくが立った。
「音もそうだけど目だけでも涼しさを感じようってのは無理だね」
風鈴を見ながらぼやく。
そんな鳴海を少年は宿題片手にちらりと見た。
膝にくるかこないかという量だ。
それにくらべて自分は腿まできている。
その差に少しの焦りを感じる。
「僕は充分涼しさを得ています」
「暑さに強そうだもんね、お前」
「そうではなく、この状態に怯えているのです」
「平気だって……どうせ顔まできても息ができなくなるってことはないから」
鳴海は手のひらに水をすくった。
顔にかけたが冷たさも潤いも感じない。鼻にかかったところで息がつまる感覚もない。不快さは視界のみだ。
少年はややうつむいて部屋に戻った。歩く音が重々しい。
後ろ手に閉めたドアにもたれて天を仰ぐ。そして瞳を閉じて強く願う。
あの人が先に溺れてしまえばいい。
眠りに落ちる彼を見て名残惜しそうに額を触る。
少年は先ほどの会話を思い返していた。
睦言の代わりに交わされた言葉は少年を酷く傷つけた。
『鳴海さんは同性を抱くことに抵抗はありませんか』
『まぁ俺はバイセクシュアルだから』
『なんですって?』
『両性愛者。女とも男とも性的関係を持つ奴のこと』
『……それはいつごろからですか』
『お前がここに来なかったらそんな目覚めもなかったろうけどね』
『じゃあ今でも女と関係を持つんですか』
『お前は女が嫌いなようだね』
『質問を変えないでください』
『今はないよ。今はね』
普通を装おうとする大人に少年は歯を噛みしめた。
憎さ故に彼の首に手をかけたが、まばたきひとつする間もなく、それはゆるりと力が抜けた。
動じようともせずにこちらを見るその視線が怖かったのだ。
何よりも、失えばどうなることか。
彼は穏やかに笑った。
ベッドの脇に溜まっている水を手でかきまぜ、顔にぽたぽたと雫をかける。
『抱いたとしてこんなもんか』
顕示されたものが想いの深さではないことを少年は胸底の内で願った。
そして目の前の残酷な男を憎んだ。
心の底から、ただそれだけを思った。
日は過ぎていく。
月も満ちていく。
ここにあるのは見たくもない水ばかり。
「だんだんとえらいことになってきたね」
鳴海は少年を見てそう言った。
今や水かさは胸元まできている。
その様子を見て疑問に思うように頭を掻く。
「お前このごろ俺を避けてたのに」
なんで増えるの? と尋ねられた。
少年は冷ややかな目つきで答える。
「避けていたからでしょう」
お前のせいだと言わんばかりの物言いに鳴海は苦笑した。
かわいいかわいいと頭を撫でようとしたらその手を弾かれた。
しばしの間のあと両手をポケットにつっこみ鳴海は呟く。
「キスしないか」
冷ややかな目をそのままに少年は答える。
「全てを忘れて抱いてくれるのなら」
「全て?」
「僕の前で女の話題を口にするな」
「前でなけりゃいいのか」
少年は鳴海の首根っこを掴み、ぐいと自身の顔を寄せた。鬼に憑かれたような目つきで睨み上げる。
「今度そんなことを言ったら殺す」
波のような音がした。
見ると薄笑いを浮かべている鳴海の腰あたりまで水が迫ってきていた。
彼は掴まれた手に爪を食い込ませた。痛みに少し呻く少年の両手首を握りしめて、そのままゆっくりと口づけを交わす。顔は相変わらず微笑んでいて、なのに手の力は黒鉄のように固い。
あまりにも乱暴で痛々しいキスだった。
それが故に水かさが増した。
ふたりは長い長い口づけを交わした。
少年は顎まで来る水を避けるように顔を上向けた。
その顎を掴まれた。開いた口にねじ込まれる舌。水が溜まる。
「怖い」
呟きに抱擁を返す。
「俺だって怖い」
「どうして」
「なんでお前と一緒の量じゃないのかなって」
その言葉が理解できなくて少年は彼の目を見た。
寂しそうだった。
心底を見た気がして少年は初めて微笑んだ。伏せた瞳で優しく告げる。
「冷たいのに寂しがりなんですね」
わがままな人だ。
そう伝えて少年は彼の肩に身を預けた。
わずかに下を向いた視線は迫り来る水を見た。
彼の胸元まできている。
長く抱き合っていた。
足の力を無くすと、とうとう全身が水中に沈んだ。
泡に包まれるように倒れ込む。
耳鳴りがした。
「階下の住民から文句がきていますよ」
「放っておけよ……どうせ証拠もなにもないんだから」
「それはそうですがやはりあの水はどこから来たのか皆薄気味悪がっています」
「うちはどこも濡れてないってのを見せたのがいけなかったかな」
まぁ台風が来たってことにしとけば……と、いい加減に言う。
鳴海はソファにもたれてだるそうに肩を回した。
銀楼閣は三階から下の階が水浸しになった。一夜の怪に住民は怯え、また怒りを覚えた。
原因は不明、ひとつの部屋だけがその被害を免れたことにも疑問を抱いた。
ふたりの視界には水がない。
性交に溺れきった末に水は流れた。
どちらがどのくらいの水を溜め込んだのかすらわからぬまま、水は消え失せてしまった。
「けどまぁこれで一安心じゃないの」
鳴海はソファの隣を叩いて少年を呼んだ。そこに座ると少年はうつむいた。男は顔をのぞきこむ。
「浮かないね」
「差がわかりましたから」
「確かに6:4だったかもしれないけど」
「いいえ。8:2くらいはありました」
「それでも最終的には10になって全部混ざっちゃったじゃん」
「曖昧ですよね」
鳴海は瞳を伏せてうなずいた。
「そう。でも、そういうもんなんじゃないの」
少年は氷を思わせる眼差しで隣を見た。
「嘘つき」
弁解の代わりに鳴海はキスをした。
長く唇を重ねていると、足元から水音がした。
ふたりはお互いの靴を見た。
水が滲みだしていた。
少年は不敵に笑う。
「今度は同じ高さにしてみせますよ」
挑戦を受けた鳴海は小賢しいという風に見返した。
「ぜってー差をつけてやる」
握りしめた手はどちらも暖かい。
終
06/05/26(金)