疲れが出たのだろうか。
雨の日に歩いたというわけでもないのに少年は喉を痛めた。
喉の赤みは肺にまで達した。
曇りの日に彼は床に伏せた。
高熱で歩けない彼を診察した医師は寝室でぼそりと告げた。
「軽い肺炎です」
どうぞお大事にと薬を置いて老医師は立ち去った。
去り際に所長がくわえていた煙草を指さして。
彼は今気づいたという風に煙草を灰皿へもみ消した。糸のような煙が虚空に消えた。
「さてと」と彼は呟き、腕まくりをした。
忙しくなるぞという意思の表れだった。
せき込みは日ごとに酷くなった。
胸に手を当てて身を起こす。斜めに伏せて連続した咳を吐き出す。
華奢な肩が何度も震えた。時々呼吸ができなくなった。ひっかいたような喉から出るきれぎれのため息。疲労の色が背中の筋に見てとれた。薄い皮膚が虫のように動いてゆらぎ、波を打つ。そのたびにひゅうひゅうとすきま風のような吐息が漏れた。
戸を叩く音がする。
しばらくして彼は黙って入ってきた。答えられるはずもないことを知っているからだ。手には盆に乗せた粥と水と薬があった。
彼の姿を認めるたび、少年は謝罪した。会釈して「すみません」と言うのだ。耳にざらつくかわいそうな声で。
鳴海はそのたびに「謝るな」とたしなめた。それはくせになるからと。
れんげにすくった粥を少しさまし、少年の口元に寄せる。一連の動きはなぜか手慣れていた。少年はそこまで頭が回らない。喉を腫らした熱は余計な思考を遮るのだ。それはとても幸福なことのように思えた。
口に含む。乾いた唇はどろりとした粥を少しずつ飲み下した。ねっとりと半透明に濡れた下唇が淫靡さを醸し出す。このような状況でなければ誰もが口づけを交わしたくなるだろう。
少年の両手は一度もれんげを掴まなかった。してもらうのが当たり前のように口を開いたのだ。頭を乱す熱のせいだったが、鳴海にとってこの呆とした熱はとても好都合だった。少年の生真面目さまで犯してくれる高熱に感謝した。好きなだけ世話ができると喜んでもいた。
うつろな瞳の少年は短く咳をした。一度咳が出るとしばらく止まらない。断続的に繰り返される振動をやわらげようと彼は背中をさすった。
「すみません」
また謝った。
もう喋るなと彼は呆れたように言った。響きは優しい。ライドウは何も言わなかった。
半分以上粥の残った椀を置き、鳴海はコップの水を取った。
薬を飲ませる前に喉を潤すためだ。
少年に軽く手を添えさせてコップを傾ける。水がはねた。
激しくむせたのだ。
痛みを我慢するように喉を押さえ、上体を屈める。うわがけをきつく握りしめる。咳は止まらない。げえと言った。布団に咳と唾液が吸い込まれた。ややして、静かになった。少年はそのままの体勢で息をしている。
鳴海はしばし考え事をするように窓枠の景色を見つめた後、コップの水に口をつけた。くいと傾けてひとくちぶんを含む。舌で転がした。頬が滑稽にふくれる。
鳴海は少年の身を両腕で優しく、そして力強く抱き起こして、その唾液が濡れ光る唇に顔を寄せた。
頬に触れる指が温かいなと少年は思った。口内に浸された水が隅まで染み渡るのにさほど時間はかからなかった。抵抗もなにもなく少年は彼の口づけを受けたのだ。とろりとした水が舌とともに渡される。冷たくない。それが嬉しかった。
喉が少し動き、水を嚥下した。飲み干してようやくそれが甘いということに気づいた。濡れた唇を離し、鳴海は再度コップを手に取る。
「待ってください」
少年の問いに鳴海は答えた。
「やわらかくしてるだけさ。そのままの水は硬くて冷たい。痛んだ喉にはつらいんだ、だからだよ」
舌で転がすと飲みやすくなるだろう? と、にこやかに言う。
少年は朦朧とした頭で考えた。
この人も昔どこかで誰かにこういうことを? やわらかい? なにが。なんでこんなことをするんだろう。
思考とも言えないとりとめのなさだった。
同じように水を口に含まされたあと、さらさらとした粉薬を振られる。自分でころころと転がしたあと、苦みと多少の甘みのあるシロップのような薬水を飲み下した。今度は吐き出さなかった。もったいないという気持ちがあったのだ。えずく感覚も多少はあったが、好意のほうが上回った。
もう一度口づけの水を受けると、ぽろりと涙がこぼれた。それはあとからあとから出てきた。鳴海は少し目を開いて、静かな面もちでその涙を拭った。生ぬるい舌で。
顔中がぬくもりに包まれていくようだ。
少年はよく見えない目で彼の瞳を追った。目蓋が軽く閉じられていた。長いまつげが愛おしかった。
「あの」
「謝るなよ」
見透かされていた少年は口を閉ざした。そのかわり、自らが唇を寄せて彼の頬に触れた。小さなついばみの音を立てたあと、少年は急激にせき込んだ。思い出したかのように。甘い時を破るこの騒音が憎くて悲しかった。
「ここにいてください」
寝かしつけられた少年は彼の袖を引っ張ってわがままを言った。
甘い時が名残惜しかった。寂しさを蘇らせたのだ。涙がつつ、と流れて枕に染みをつけた。
「まあいいけどね」
どうせ休業の札は出してある。
食事の盆を片づけて水と薬を持ってきた彼は、少年に子守歌を聞かせる母親のように隣へ横たわった。
軽く立てた膝が暇だという心境を伝えていた。少年は彼の様子に気がつかない。熱も不便なものだ。鳴海は感謝したことも喜んだことも忘れて自分本位なことを思った。人間とはえてして勝手な生き物なのだ。
暇だから子守歌を唄った。
わずかな記憶に残る甘い傷のような歌。
聞かせてくれたのは母だろうか、共に寝た女だろうか。そんなことも思い出せないが、歌自体はとてもいい音色だと思った。
ころころころり
甘え子ひとり
かいなに包まれ
ぽんぽんと
手の鳴るほうへ
眠りの森へ
こわいのないとこ
さみしかないとこ
ころころころり
床にふたり
「誰から?」
「覚えてない」
「鳴海さんて甘い声ですね」
「惚れたか」
「もうずっと前から」
くすくすと笑った。
共に笑いたい気持ちを押さえて少年は唇の端を持ち上げた。喉を動かせばせき込むのが目に見えていた。
歌を聞かせてくれたこの甘い時をくれたのが自分の憎たらしい喉とは、と少年もまた自分勝手なことを思った。胸を押さえる。肺がひゅうひゅうとしぼんでいった。
少年は眠りに就いた。
横にいた鳴海も毛布をかけて自分の腕枕で眠っていた。
日が陰っていった。
夜になる。
真っ暗な中で激しい音が破裂した。
がばりと起きた少年が口元を押さえて身体をがたつかせている。震える全身から痛々しい衣擦れの音が聞こえた。
背中をさすられてもおさまらない。
畜生。
少年はきつく歯噛みをした。
寝ているほか治す方法がないのか。悪魔の力も役には立たないのか。しかし、怪我のほかに病気を治すことができても、今の自分には悪魔を召喚できる体力など残っているはずもない。苛立っても、己の自然治癒の力に頼るしかない。
それがどうしようもなく歯がゆい。
怒りに集中したためか咳は徐々におさまっていった。少し息苦しい。しかしそれもじきに止むだろう。
もう大丈夫ですと鳴海の手をよけ、床につく。
すぐに跳ね起きた。
息が全くできなかったのだ。
気道が完全にふさがれている。
腫れ上がった喉は気管支をも病ませたのだ。起きていれば少しの呼吸もできるが、寝ようとすればすぐさま窒息死するだろう。少年は泣いた。熱がこぼした涙に違いなかった。
眠いというよりも気を失うほどの朦朧とした意識なのに床に就くこともできない。せめて熱がなければ。
そんなことを逡巡しているうちに鳴海が身を起こした。
なにをするのだろうと見ていると自分の後ろに腰を落ち着けた。
枕をよけて自分を背後から抱いた。そのまま壁にもたれてうわがけを肩までずり上げる。両腕はしっかりと自分の腹の上で組まれていた。
上向いた喉は清浄な空気を吸った。
もたれた身体は気管を詰まらせることのない角度を形作ったのだ。
鳴海という椅子のおかげで。
ひゅうひゅうという息で「どうして」と聞く。
「こうすると楽だろ」
「だから、どうしてそのことを」
「見ればわかるよ」
ああ、またこの人は嘘をついている。
別に話さなくてもいいことと思っているのだ。
あなたのことを誰よりも知りたいと思っている自分に対して平然と隠し事をする。そして優しい振る舞いをする。普通に、なんでもない風に。
当たり前のことを当たり前のようにできる、そういうところに自分は惹かれたのだと、少年は熱に浮かされた頭で呆と思った。
ずっとこのままなのだろうか。
自分が寝付くまで?
寝てからもこの人は椅子になっているのだろうか。壁にもたれて、自分は睡眠を取らずに?
「鳴海さん」
「喋るな」
ほろりと涙がこぼれた。そういう元気はあるらしい。悔しそうに、情けないように、ありがたくてしょうがないというふうに。
涙は唇で吸われた。
首筋から背中にかけての暖かさを感じながら少年は深い眠りに落ちた。鳴海が言うように、喋ることもままならないほど疲れていたのだ。
手はずっと握りしめられていた。
そのことがひとつの喜びだった。
他にもあるが、とても挙げきれるものではない。
ただの愛情を感じていた。
なによりも価値のある心を見つめていた。
そこにいてくれるのが嬉しかった。
朝にはだいぶ楽になっていた。
鳴海はやはりずっと起きていた。
少し身動きをした時に「おはよう」と耳元で挨拶されたのだ。
挨拶を返すと声の調子が断然良くなっていたことに気がついた。不思議だと思った。そんなによく効く薬なのだろうか。そう伝えると鳴海は「ははは」と笑ったあとに、こう言った。
「よかったな」
その言葉は少し寂しそうだった。
けれどどこか充実もしていて、少年は理解できずに首を傾げた。
とても楽な体勢で眠っていたらしい。身体は強ばることもなくトイレへ起きあがることができたのだ。
熱はすっかり下がっていた。
もう一日休めば完全に治るだろう。回復の予兆が少年に笑みをもたらした。
自室に戻ると鳴海があくびをしていた。少年は急に胸が締め付けられた。すまないような気持ちになって彼の元に膝をついた。あたたかな手を取って自分の頬に近寄せる。眉が悲しそうに下がっていた。
「なに泣きそうになってんの」
「あの。僕にできることはありますか」
「病人は寝てろ」
「あなたこそ寝てください」
「お前、喉の調子は?」
「さきほども言ったように大丈夫です。ちゃんと一人で寝られます」
「そうか。そりゃよかったな」
鳴海はえっこらせと立ち上がった。両肩を回し、疲れたような伸びをする。
またあくびが出た。
少年は少しせき込んだ。音はだいぶ軽い。喉の具合を確認して鳴海は微笑んだ。
「そんじゃあ寝させてもらいますか」
あったかくして寝ろよと言い残し鳴海は部屋を出た。しばらくして戻ってきた。盆に粥と水と薬を乗せて。
「忘れてた」と言う鳴海に向かって、少年は笑っていいのかどうか戸惑った。
きちんと食事をとらせてもらって床に就く。布団を肩口までかけられた。あたたかい。薬も一人で飲めた。水をやわらかくする必要もない。治っていくのが少し寂しく思えてそのことを不思議に感じる自分がいた。
鳴海は何度もあくびをして今度こそ部屋を出ていった。
薬のせいかライドウはまた眠った。
起きたのは昼下がりだった。
鳴海さんはまだ寝ているだろうか。
そう思って少年は起きあがった。どこもふらつかない。喉は透き通るように涼やかで清浄な空気を難なく吸い込む。肺は熱く上下しない。胸もどこも痛くない。
完治したのだ。
台所へ立ち寄ってコップ一杯の水を汲む。片手に透明なグラスを持って少年は寝間着の帯をひきずりながら彼の部屋へ向かった。
遠慮がちにノックする。
応えはない。
そっと開けると寝息が聞こえてきた。
彼は水の中に横たわるように静謐さをたたえた表情で寝ていた。
その光景に唾を飲み込む。
ライドウは後ろ手にドアを閉めた。
窓からは萌黄色の日差しが透き通って部屋を明るく照らしている。埃がちらちらと舞っていた。
足音を立てずに彼の寝台へ近づくと、膝をついてその場に腰を落ち着けた。倒さないように水の入ったコップを近くの台へ乗せる。
長く横たわった手をそっと握りしめると、少年はたまらないように眉を下げた。少し顔色が悪いじゃないか。彼の目元を悲しげに見つめていた。
鳴海は起きない。
時計の音が滲みていく。
少年はかすかにまぶたを動かしたあと、自分の帯をするりと外して手首に巻き付けた。その片方を今まで握りしめていた鳴海の手首に巻き付ける。朱色の帯が長い弧を描いて床に落ちた。両方が結ばれて初めて少年は唇の端を持ち上げた。眉は相変わらず下がっていたが、ないよりはましな充足感があった。
そしてふたたび手を握りしめる。指先に自身の顔を寄せてまるで寝入るように瞳を閉じた。
夢を見た。
赤い帯で繋がれたふたりがいた。
はだけた身体を恥ずかしいとも思わずに彼のそばへすり寄る。
邪険にはされなかった。
鳴海との距離に安心して、少年はさやかに想いを告げた。
「僕はあなたのことが」
「ああ」
――わかってる。
彼は確かにそう言った。
瞳を伏せて、うなずいて。
答えを聞けないことにいささかがっかりしたが、右手と左手に巻かれた赤い線がほどかれないのを見て『仕方ないな』と納得した。
これで満足しようという風に。
僕はここにいてもいい。
謝らなくてもいい。
誰よりも自分に優しいこの人がいる。
誰よりも自分のことを守ってくれるこの人がいる。
そしてこの人の側にいてもいいんだ。
他に何を望むだろう。
夢の中の口づけは現実の手の甲にされていた。
穏やかな笑い声がして目を覚ますと、そこに微笑を浮かべた彼がいた。
もうすでに身を起こしていて、なのに手はできるかぎりその位置から動かさないようにしている。赤い帯もそのままだ。少年は徐々に頬が熱くなっていくのを感じた。見上げた視線は幼い子供のようだ。
「いたずらしたのか」
「ごめんなさい」
「どんな夢を見たんだか」
唇の感触が残る手をくすぐったそうにさする。帯を引かれて少年の右手がわずかに持ち上がった。かすかにずれる拘束布。手首は赤い。跡が残るほどにきつく結んでいた。それを見て鳴海は「馬鹿」と呆れたように言った。声音は優しかった。
ほどこうとするので少年はそれを止めた。少しのためらいのあと、水の入ったコップをつ、と差し出す。鳴海は普通の表情で「ありがとう」と受け取った。くいと傾ける。喉を鳴らすその顔を少年は裏切られたという風に見ていた。鳴海は口を離して笑った。
「冗談だよ」
起きなと声をかける。
床からベッドの端に腰を落ち着けた少年は帯をつまんでたるみを見ていた。もどかしいように。
水を含む音がする。
コップを置く音もする。
顎をくいと上向けられた。
唇はあたたかい。
少しの湿り気を帯びた唇を思うさま楽しんでいると、舌と共にやわらかな水が流れてきた。
なんて甘いんだろう。
少年は胸をときめかせた。
顎へこぼれた水ももったいないという風に彼の舌へ吸いつく。
鼻の下からわずかに香る愛しい匂い。舌のなめらかさ。
少年は彼の腕に手を回した。
彼も応えた。
背中を抱き寄せるたくましい腕。
その身に預ける幸福感。
赤い帯がたらたらと少年の腿に落ちる。それは多少の波を打った後、邪魔だという風に床に落ちた。
少年の寝間着もしばらくして後を追った。
コップの水が微細な気泡を上げる。
こくりと飲み込む誰かの音がした。
終
06/06/09(金)