忘れじの詩(うた)・24

 時のとまった若木が煙に燻されその葉を暴力的な死にわななかせている。火の粉が幕壁まくかべをこえて空を飛びかっている。中庭は半分以上が火の海だ。井戸の屋根は焼けおちて、煤とともに大小の破片が水の底へと沈んでいった。熱気にあおられた鐘楼からは不穏な鐘の音が延々と鳴り響いた。
 胸壁をこえてたえまなく投じられた魔炎と火矢により、抗する人員のいない要塞教会は、容赦のない打ち捨ての火に包まれた。その明かりは月夜の静けさに調和せず、山岳一帯を滅びの色に照らしつづけた。

 門の外ではイデュリ主教がその光景をらんらんとした目で見つめていた。
 いまだに異質な力の働く要塞内部へ入れば精神に異常をきたすおそれがある。だから門外からの攻撃に終始するしかないのだが、しかし、主教の様相はとうに狂気を体現していた。いとし子をみずから殺める目のかがやき、よろこびのかたちに頬肉をもちあげる老いた横顔。なんでもいうことをきく射手たちを引きつれて、彼は得意と至福の絶頂にあった。

 青い月が雲に隠れた。
 三日月をとじこめた風雲は内に光をおびた。閃光のあとに雷鳴が轟いた。偉大な双手が空をただよう多くの雲をすくい集めるような速度で、天候は静寂の青から一変した。黒雲だ。要塞を見上げている主教の鼻になにかが落ちた。雨粒だった。

 鐘楼の鐘に竜の咆哮のような巨大な稲妻が直撃した。紫の光に打たれた鐘は、最後の音を鳴らし、ばらばらに砕けて落ちた。それを合図にしたように、天は引き裂かれた。生まれくる水は、人のからだを破り、血が噴出する様に似ていた。降り注ぐ雨はまるで雹の勢いだ。天から水の矢が放たれたように、大きなするどい雨粒は、たちまちのうちに火の勢いを弱めた。紫紺の稲妻が生んだ雨は、要塞内を狙い定めるように残り火を穿ち、ここからのぞむ全ての地域に猛烈な勢いで降り注いだ。煙がもやに、熱い霧に変わっていく。白いまぼろし。

 あらたな火は放てなかった。
 天変地異を呆然と見上げる教団員のひとりが、胸壁の向こうを指さしたのだ。いかづちの落ちた鐘楼の上に、人影が浮かんでいた。人間たちに姿を見せるように、威圧感をもって、それは青い外套を白い風にたなびかせていた。
 指さしたひとりがその名を口にしようとした。しかし、できなかった。想像しただけで全身が硬直し、魂が凍り付くような恐怖に見舞われたのだ。

「竜公だ」

 ニコルが呟いた。
 激しい雨によって思考のいましめが解かれたような、冴え冴えとした顔立ちだった。

 なぜここに竜公がいるのだろう。なぜ雷鳴を轟かせ、要塞の火を消したのだろう。伝説にある至貴の炎を放ち、ここをあとかたもなくしてもおかしくはないのに。そうすべき存在なのに。

「見ましたか。やはり狩人は魔王と通じているのです。いけにえを供する広場や、邪教を行う祭壇がなくなれば困るから、我らの正しき炎を消したのです」

 主教の声がみなのもとに届くことはなかった。竜公が手を開いた――その様子を最後に見て、ニコルたちは、目をやわらかな手で覆い隠されたような、甘い闇にいざなわれた。

 伯爵は教団の人員を見渡し、その数の少なさに蔑視の表情を浮かべていた。そして公は片手をひろげ、まるで窓のくもりを拭うように、視界に映るものたちを順に横へ隠していった。手のすべったあとには、意識を失った教団員が、主教を残して、全員地に倒れ伏していた。

 ただひとり雨に濡れることのない存在は、鐘楼から主教の目の前へ、またたく間に移動した。イデュリ主教は息をのみ、数歩あとじさった。
 人とはまるで違う威圧感、どのような山脈も迫るにおよばない圧倒的な存在感。そびえたつ魂の大きさは計り知れない。
 主教は老いたまなざしを彼からそらすことができなかった。わなわなと両手を震わせて、胸元の赤い石を握りこむ。

「これを、取り戻しにきたのか」

 伯爵は片眉をもちあげた。指の隙間からのぞく鎖付きの指輪を見て「そのルビーがどうかしたか」と言った。

「貴公の遺品ではないか」

「そんな古ぼけた品が?」公は鼻で笑った。「人が持つにも程度のわかる、みすぼらしい品だ」

「そんな」主教はかれがれの声を振り絞った。「そんな、はずが」

 あの狩人はこれを竜公の遺品だと――妖しい力をもつ危険な品だと、そう言ったのに。

 狩人が話に出たのを聞いて、伯爵の表情が興味の色に変わった。ひやりとした目がひめやかに光った。その紅い目に見つめられると、主教は微動だにできなくなった。
 公は額に意識を集中させて、主教の心の中をさぐった。
 帰還の日からの狩人へのよこしまな思い、他者への殺意、そしてあの、盗みの光景を知った。伯爵は力を抜いて、ふっと、しょうがないように――それは狩人へと向けられた思いだったが――小さなため息をついた。

「彼らしい」門を振り返りたいような顔をして、伯爵は呟いた。「お前があまりにうろたえているのを見て、哀れみを覚えたのだろうさ。悪魔に魅入られたと必死に弁解するお前の話にあわせて、なんの力もない、おそらく路銀の足しにするための宝石を、わたしの遺品だと偽って、お前をかばったのだ」

 盗んでしまうのも仕方のないことと思わせるように、
『これは、危険なものです』とな。

 もはや忘れたはずのめまいや動悸が主教の胸に蘇った。顔から火が出るような屈辱と、恥じ入りと、みじめな自分とに、イデュリ主教は息を乱して、己を嘆いた。

「そんな、そんな」主教の絶望の声は影の悪魔をたよっていた。足元からはなんの気配も感じられなかった。「強大な悪魔をも従える石だと――人の魂をも支配できる石だと、あれはたしかに言っていたのに」

「石ひとつで力を統べられるものか」彼のかつての姿をも否定する、断固とした態度だった。「しかし、墓所へ弔ったはずの石がなぜ、お前の胸に」

「それは」混乱のまま言葉をつごうとしたその時、主教の胸から心臓が飛び出した。影から伸びた長い角が、彼の心臓を背後から刺し貫いたのだ。串刺しにされたイデュリ主教は、だらりと足を地面から浮かせて絶命した。生命の途絶えと同時に、影に潜んでいたなにものかは存在を消した。

 伯爵は驚きもせず、力の飛来した方角へ意識を向けた。口封じのつもりであったろうが、いまの竜公に対して気配を断つことなど不可能だった。

 移動しようとして、いまだ降り止まない雨のなか、ほんの少しのあいだ、伯爵は立ち止まった。
 門の向こうを、彼の横たわっている部屋を振り返るのを抑えるように、竜公は彼とともにいる忠臣へ思念を飛ばした。

『ご苦労だった』

 木製の床に赤い涙が落ちた。
 心から耳にしたかったあの貴々あてあてしい声を、カミーラは震えるため息をついて、胸に受けた。
 彼に会ってゆかれないのか、そう伺いたいという思いで立ち上がった彼女の意思に振り返ることなく、伯爵は数瞬の沈黙をおいて、門前から消えた。