食堂にて。
食後の穏やかさと気のゆるみが伯爵にこんな話をさせた。
「君は雑事が似合わんな」
水差しからコップに水を注いでいるシモンに向かい、伯爵は呆れたように肘をついた。
「ひとりの生活が長かったのだろうし、刃先や竈を扱う手際も段取りもいいが、しかしやはり、がっかりする光景だ。その身体で、炊事や洗濯をするのだろう?」
「そういう姿を見せてきたはずだが」
「何度見ても見慣れぬし、嫌気がさす。戦いにだけ従事していればよいものを、几帳面に掃除や薪割りや水くみに精を出しおって」
「それをやらなければ暮らしていけないだろう」
「のちに語られるだろう君も、所帯じみた様子などかけらもなく、簡素な鎧に身を包み、鞭を振るい肉を食らう蛮勇のイメージがつきまとうと思うぞ」
「のちのことなど」シモンは水を飲み干した。「今考えるべきことじゃないだろう。自分がのちの世に語られる存在であるとも思えぬし」
「君の功績を考えれば高名であってしかるべきだ」
「高名でなどありたくない。正統が続く程度に名を守れればそれで」
「重要だぞ」伯爵は注意をひくように眉を上げた。「高名であればそれだけ経済的な援助も増えるし、なにより君をなめるものも少なくなるというものだ。子孫を安全に、不自由なく養うためにも金銭は充分すぎるほどあったほうがいい」
今現在無報酬で働いている彼にとっては耳の痛い話だ。
苦い顔をするシモンに向けて、伯爵は「心配しているのだよ」とテーブルに肘をつき、身を乗り出して言った。
「ナイフを投げる君を見て思ったのだ。君なら動物相手に狩りをしても充分に暮らしていけるだろうが、目つきがやはり、ふつうの狩人のそれとは違う。武器を扱う君の表情は信仰でも隠せぬほどの戦いを好む目つきをしていた」
勝手なことをと、シモンの顔つきが厳しいものになった。それを見て伯爵は薄く、楽しそうに笑みを浮かべた。
「その顔もまた違うな。血潮の音がまだまだ全然、
7年前に天守で対峙したときに聞いた彼の心音を伯爵は忘れられずにいた。
生命とはかくあるべきという朱いあかい至高の旋律、十字(クロス)の先にあっても目を背けられぬ荘厳な輝き。いまだ正体のつかめぬ祈りが彼の身に宿るのを確かに感じられたあの胸の鼓動をふたたび耳にできたらと、そんな人ごとのような恍惚が伯爵の心を高ぶらせ、その口を饒舌にした。
「考えてもみたまえ、宿敵のいない世界を。討つべき相手のいない世界を。戦いのない君の暮らしなど日々を粛々と、気ぜわしく過ごすだけの地獄ではないか。ベルモンドの宿命を受け継がぬ生活を考えたことはあるか? 水車小屋の管理で粉でも挽くか、それとも教会で写本の作業をしてつつましく過ごすか――君は次の世代を吸血鬼狩人として育て上げることのない半生を想像できるのかね?」
青年の腰に絡げた聖鞭に一筋の色が映えた。火に照らされたような光の筋だった。伯爵はおろか、シモンもそのことに気がつかぬまま、話は進んだ。
「どのようにも暮らせはするだろうが、しかし」喜々とした感情を向けられたシモンは嫌そうに、だが認めざるを得ない表情で視線を下げた。「お前の言いたいことはよくわかる。実際、そのようなことも考えたことはあるが、すぐに苦痛を感じてやめてしまった」
期待が伯爵の頬肉を持ち上げた。
続くシモンの語った内容は言を
「お前が言うとおり、私は吸血鬼狩り以外に能がない。要領が悪い性格だから、清貧な生活をつつましく送れるかどうかもわからないな」
用意していたのはそうだろうともという返事だった。快い舌の動きを取り消された伯爵は、妙に胸の悪い感じを覚えて黙り込んだ。そしてひとこと「違う」と呟いた。
「なにが違うと?」
「わたしが」胸の悪さは痛みにも似ていた。「わたしが知りたかったのは、君は戦いを好むのかどうかということだけだ。実生活の能力の有無など――それを無いと断言する君の言葉など、聞きたくはなかった」
すでに自分を討った狩人のことなどなにも知らぬという立場ではなかったのだ。伝承でしか知り得ない勝手な印象を抱く立場ではなかった。いつのまにか、自分は青年のその後を案じ、身の振り方を案じていた。現実に生きる彼の社会性への不安な要素など、自分の頭におきたくはなかった。ここを出られたとして、彼はいったい、この後どうなってしまうのだろう。命を、自分の意思を軽んじられ、人と関わって無事に生きていけるのだろうか。それこそ宿敵もなく、これ以上に名を上げる機会もなく、彼の生涯は不遇のまま終わってしまうのではないだろうか。
考えすぎとも思えなかった。呪いはいまだ彼の背中に刻み込まれているのだから。
公の安定を欠いた思考は青年の能力を軽視し、彼への不必要な庇護欲を火のようにかき立てた。伯爵の不穏な様子を目の前にする青年もまた、相手の不安に煽られたかのように、その口を、ひとつの心底を語るものへと変じさせた。
「そうか。しかし、お前に関わることのすべての
伯爵の相貌は虚脱と喪失により色が抜けた。
なにもわかっていない、こちらの苦慮をなにも、この青年はなにひとつ。
いまだに自分は、目の前の青年から宿敵として見られているのだ。何度となく助け、対話をし、いまも彼の身を案じている自分が、青年の目には狩りの対象として映っている。
伯爵の手はぶるぶると震え、激しい音を立てて机を叩いた。彼は青年を睨み据えて立ち上がった。その形相は許せないものを見るように怒りに固まっていた。
「わたしよりよほど、お前のほうが化け物じみている」姿勢も態度も
互いの狂気にも似た勢いは止まらなかった。ここで冷静にならなければ物事は間違いなく悪い方向へむかう。青年はそう理解しながらも、なぜか、口調を静めることができなかった。腰に絡げた鞭が騒いでいた。両者の心の
「得るものはあった。とても多くのことを知った。お前と共に過ごした日を通じて、かねてから自分がどうしても為したいと願っていたことがより強固なものに変わった」
鞭のざわめきは公の耳にも届いていた。耳も胸もつまるような、かりそめの息苦しさのなか、伯爵の声は喘ぐように彼に問うた。
「その願いとは、いったい、なんだ」
彼は断固たる静けさをもって、公に決定的なひとことを告げた。
「お前の伝説に終止符を打つことだ」
水差しの中身が青年の顔にぶちまけられた。床に投げ捨てられた陶器が砕け、あたりに痛々しい感情の名残と、水のしたたる音が淡々と満ちた。
シモンは大きな手のひらで顔を拭った。その静かにひそめた目は慎み深く、息を乱した伯爵を見ないよう、テーブルの縁に視線を落としていた。
「血を残せ。子孫を狩人として育てろ。わたしは必ず復活する――必ずだ」
彼は身を翻してこの場から出て行った。シモンは席を立ち、床に散らばった水差しの破片を拾い集めた。指が切れた。血の玉がぷっくりと盛り上がり、やがて爪に流れた。指を吸い、破片をすべて回収したあと、青年は、自分はほんとうに要領が悪いということを実感した。
いまでは、彼の腿にたわんだ鞭は、月を映す水面のようにしんと静まりかえっている。