疲れのまま眠り、翌朝、陽光を額に感じていつもどおりに眼を開いてしまった。しかし痛みはまったくなく、少し眩しさを強く感じられる程度で、傷を負ったことなど、血涙の跡がのこる乾燥した頬の引きつりと枕辺の染みでしか実感できなかった。首から肩にかけて頭重がだるく残り、身を起こすまで時間がかかった。手のひらを見れば気鬱まじりの深いため息がでた。所作より声音よりはっきりと身分の差を感じられるあの薄く柔らかい、平たい手のひらの感触が今も目元にまざまざと思い出せる。人とは違う、土のような冷たい肌にかすかな温みを覚えたあの典雅な手に比べて自分の分厚い手の怖ろしいこと。なにより、助けてくれようとした相手に対し、自分はなんということを。
シモンは一度強く眉間を押さえて、それから衣服をまとい、部屋を出た。
井戸端で頭から軽く水浴びをしたあと、青年は桶の水で顔をのぞき込んだ。目の確認とひげ剃りのための水鏡に、ゆらゆらと映り込むものがあった。伯爵だった。青年は顔を上げたが、その光景の異様さに気がついていなかった。口を開けて言葉をなくしていたが、その表情は目の前でこちらを見下ろす伯爵にこんな感情を伝えていた。なぜまだここにいるのか、とうに出て行ったものと思っていた、理解の及ばぬ情景は彼の存在そのものだった。
「そのぶんだとはっきり見えているようだが、やはり、今まで以上にものを捉えすぎているようだな」
「あの、昨日はほんとうにすまなかっ」
「聞かれたことにだけ答えろ。わかりやすいようにわざわざ桶をのぞき込んでやったというのに、お前はまだ自分の視界の変化に気がついていないのか?」
視界? とシモンは言葉の意味を考えた。先ほどまでの光景を思い出し、はたと気づいたように、手のひらで片顔を覆う。吸血鬼が鏡に映っている。
「どういうことだ?」
「お前の目を治しはしたが、わたしは奇跡の力は使えぬ。呪いを弾き、失われかけた目の機能を蘇らせるのに、少しだが、わたしの命脈をお前に分けた」
戦慄が走る青年の様子をわかっていたように、伯爵はすぐさま「吸血行為以外で真に闇に堕ちることはない」と彼の絶望を打ち消した。
「お前はあくまで少々、神秘を垣間見る力を得ただけだ。血の交わりとはほど遠い、半端な力をな。光の反射によって捉えられる単純な実像ではない吸血鬼や、その眷属、闇に準じる存在を目で追えるようになった。それだけだ」
「それだけか?」
シモンの眼光は深く鋭い。伯爵は考えるように視線を斜めに逸らした。
「まぁ、使いようによっては、まやかしや、わたしを崇拝する輩の邪心を見破ることもできるだろうが」
「そうではなく、呪いも退けられるのか」
伯爵の眉根が寄った。「いや」自分でも苛立たしいように彼は細顎に皺を打った。「いまだに強い呪力を感じる。これまで以上に」
シモンは7年間ずっとそう耐えていたであろう、固く目を閉じて黙するという姿勢で、受難がまだ続くことをひとり静かに受け止めていた。
正午の日の射しでのこと、シモンは聖鞭を携え、門の前に立っていた。
眼前に輪にして鞭を絡げ持ち、瞳をとじている。祈りをこめるときの表情だ。
頭のうちで鞭がその聖なる力を先端までみなぎらせ、形状も威力も変じて輝きを増す。現実に握りこめる鞭に光の縞が波打った。皮の鞭がその様形をなくし、かわりに強固な鎖を一条と為すよう、銀塊の輪がいくつも芯に連なっていく。
魔槍を操る太古の竜や、天をせせり、紅炎の舌で地上を舐る悪鬼を、それら堅剛の騎士たちを虚無の聖火に埋ずみ墜とした聖鞭の力を今ここに――腕を振り上げ、死神の暗黒の魔力を打ち破らんと放った一撃は、門に行き着くことなく、鎖から皮の鞭へと塵が風に吹かれるようにばらばらと威力が瓦解し、むなしく空を切った。
額に汗が浮かぶほどの気合いが一挙に抜けて、シモンは膝をつき、がっくりと肩を落とした。
「もはや自力での鞭の強化は不可能なようだな」
背後から声がした。最初から見ていたのだろう伯爵の言葉の調子は嘲りもなにもなく、青年への同情がこもっていた。シモンは肩越しに彼のほうへ振り向き、「これもお前の命脈によるものか」と尋ねた。「おそらく」と伯爵は答えた。「半端ではあるが闇に準じる力がその身に流れているのだ。使い手の異変に聖鞭もさぞ困惑しているだろうな」
シモンは立ち上がり、聖鞭を腰に絡げた。
「助け?」
「修道院に赴き、ただ本を探していたなどという戯言を信じると思ったのか。7年も呪いを受けて、実際にわたしが目の前に姿を現したのだ。教会やそれに与するものになんらかの報告や危機の到来を告げるのが普通ではないか。竜公の呪いを受けたお前に大きな異変がないか、定期的にここへ様子を見に来る者がいるはずだろう」
「普通であればな」シモンは閉ざされた門を見上げてため息をついた。「お前が私の前に姿を現したことや、自分が呪いを受けているといったことを、私はこれまで誰にも話したことがない」
訝しく見つめる相手に向かい、シモンは腰に手を当て、考え過ぎであるのを呆れるように見つめ返した。
「だいいち、呪いなど人に証明できる事情ではない。魔王の影に怯えるような不穏な動きを見せてベルモンドの名をこれ以上汚してはならぬのだ」
「これ以上?」
「クリストファーとその息子ソレイユに対してお前がしたことを忘れたわけではあるまい。ソレイユが、よりにもよってベルモンド家の血筋のものが、お前に操られて、魔王としたてられたうえに、その身に宿る力を利用されたのだ。父であり、英雄であるクリストファーに救出されたとはいえ、教会の反応は冷たかった。正統であるがゆえに闇の存在に近く、それらに魅入られやすい人間であると総主教以下に見解を改められ……」
青年の表情に陰りとむなしさの色が滲んだ。伯爵は彼の重苦しい立場をじっと見据えていた。やがてシモンは伯爵の首をねじ上げた自分の手を見つめて、こう呟いた。
「お前が一族に与えた屈辱は大きい」
伯爵はふっと口をねじませ、楽しむように言葉をつないだ。
「ここで戦いの影響がもとで人の世を不安に陥れては、今度こそ教会から正統の座を解かれるかもしれんと恐れているのか。笑わせる、祈りだなんだと信仰を崇めているかと思えば本音を言えば地位や名声が大事なのではないか。保身に走るあまり人に与える脅威をないがしろにするとは、正統が聞いて呆れる」
シモンは手を下ろし、竜公に向き合った。嘲笑に揺るがぬ立ち姿だった。静謐な表情は昨夜、彼に対してしたことへの深い自省の念が宿っていたが、同時に、不当な嘲りを受けつけぬ堂々とした力も備わっていた。
「ラルフの築いた英霊の礎は苔むしていくばかりだ」自分がふたたび魔王を討ったあとも、一族の立場はなにも変わらなかった。「しかし、名を守ることは自分の命を、ひいては人の世を守ることにも繋がる」
人間扱いされるのがどれほど天命を延ばすか説明するまでもないだろうと、シモンは狩られる立場にある伯爵に向かい付け加えた。その態度に、公はますますこの青年の考えに興味をもった。自身の在り方について理想は常にこの胸にあるが、現実に自分が信仰に生きるにはどうすればいいか、変人とも取られかねない柔軟なものの見方をする。
「自分を守るのはよくわかる。しかし、人の世を守ることにも繋がるとは?」
「堀へつきとばされて命を落とすのも少し変わったかたちの呪いの成就だ。嘆きのままさまよう魂がお前に捧げられればお前の復活の大きな助けとなる。事情を知らぬまま教会の手のものに切り捨てられてはそれこそ人の世を暗黒に近づけることになろうな」
あぁ、と伯爵は思い出したように眉をしかめた。不注意の連続だった自身の振る舞いを苦く感じているのだろう。少しの沈黙のあと、彼は青年にこう問いかけた。
「君はあの夜のことをどう思う? 不穏な動きに感づいた教会所属のハンターの手によるものだと思うか?」
「標的をしとめたか確認もせずに立ち去る狩人など聞いたこともない」
「通りすがりにしても、夜にあのような化け物が徘徊する町中へ出歩くものがいるとも思えぬしな」
神妙な顔で黙っているシモンに伯爵は軽く指をさし、こう答えた。
「君を助け上げたときに、わたしの腕に細かな木片が付着していた。君はつきとばしなどというやわらかい言い方をしたが、あれは実際には体当たりだ。呪いで弱っていたとも知らず、君の体躯を腕の力だけで倒そうとするものはおるまい。布でくるんで背中に負っていたイトスギの木くずや、種々多様の黄味のかかった粉末が、どうして君の胸やわき腹にくっついていたのだろうな」
あぁ、やはり気づいていたかという無念にも似た表情でシモンは静かに目をとじた。ふたたび目を開いたとき、青年の視線は公の足下を見ていた。
「悪夢のような光景に気が動転していたのだろう。悪いやつではない」
青年を見澄ます伯爵の目つきは冷淡そのものだ。
「魔王と通じるものを人類のために抹殺しようという正義感からであればわたしもああは怒らぬが、理由はもっと単純なものではないかな」
「なんだと?」
「虚空に向かって垢のにおいが苦手だとか、顔が好みじゃないとか、気の狂っている相手がぶつぶつと自分の悪口を――雑言でしかないし、進んで悪し様な内容を口にしたわけではなかったが――言っていたのだ。そんな光景を見たものが君に冷たい殺意を抱くのに一体なんのためらいがあろうな。すでによからぬ噂が広まっている君のことだ、遺体が発見されて持ち物から自分に嫌疑がかかっても、あいつは頭のおかしい奴だったと見たことを話せばそれで終わりだ。とうに君は人間扱いなどされていないのだよ」
「そのようなことで」ばかばかしいとシモンは首を振った。「人は人を殺しはせぬ。彼にしても身を案じてふもとまで送ろうとしていたのかもしれぬし、たまたまあのような状況にあっただけで人の精神性を貶めるような言い方を」
「人とはそういうものだ」態度は冷厳に、言葉は軽蔑をもって、伯爵は答えた。「自分に罰則がかからなければ人は簡単に人を殺める。どんな残虐な行為でも平気でする。良心も秩序も信仰もなくした人類を、わたしが闇の力で滅ぼしたとして、その行為をいったい誰が咎められるというのかね」
「私が咎める」シモンはそれでも、彼の解釈こそが間違いだというように、蔑視の言葉をはねのけた。「お前を止める。一握りの人間や現状を見ただけですべてを判じるな」
「君に呪いをかけているのもまた人間ではないのかね」
「そのようなことはまだわからぬ。勝手な憶測で私を惑わせるな」
「惑うのか?」伯爵の目元がよろこびの朱い光をくゆらせた。
鐘楼が鳴った。はっとふたりが顔を上げると、鐘の内側から黒い怨嗟の念が立ちのぼっているのが見えた。
「ばかな、聖水で清めたはずの呪印がまた──」
青年の驚愕にくらべて、公の表情はそれこそ風を読むようにすずしく推察を得たものだった。
「そういうことか。君が7年ものあいだ清浄化の任を終えられなかった理由がわかった」
「どういうことだ」
「君の猜疑や憎しみの念が強力になれば、あのような呪いの産物がかたちとなって現れるのだよ。過去にも、ひどい悪夢を見た翌日には、新たな狂気がまがまがしい色となってこの場に現れたのではないのかね」
「あのような──想像もできぬ祭具が私の憎悪の産物だと?」
風が渡り、押し黙るふたりの間を通り抜けた。
金色の髪が一房、青年の厳格な目つきを彩る縁飾りのように横に流れ、やがて首筋へさらりと落ちた。
「では、二度と私を妄言で問い乱そうとするな」
伯爵はわずかに片眉を上げて問い返した。
シモンは鐘楼に向かい、歩き出した。
「お前の声は私以外に聞こえぬのだ。あの夜の会話が私の独り言としか捉えられぬのならば、自分のことを言っている内容だなどとは当人にもわからぬ。彼は憎悪からではなく私が魔王の影に取り憑かれていると思って――」
「なおさらむなしいとは思わぬかね、自分の命がそのように軽んじられる現状が! 己の立場が!」
怒りを代弁しているように、伯爵は青年の背中に向かって思いを打ちつけた。
シモンはそれ以上は語らず、青草を踏みしめて、その場から歩み去った。
陰惨な風のあとには純黒の孤影が残された。
みじめさや憎悪のほうがなじみの深い感覚だ。伯爵は欺瞞を口にした自分に額を押さえた。
すでにわかっている、青年は人から恨みを買う性格ではない。ただ、まわりの状況が彼に殉教者たれと望むのだ。伯爵には耐えがたい苦痛だった。自分でもありえぬという妄言を口にしたのも、憎悪と疑いによってでも青年の心をこの世に執着させたいがためだった。どんなにささいな憎しみによる殺意でも、いつわりの平定のために個々の人格を無視する人の心の働きよりはましなのだ。
目を閉じるまでもない、衆人環視のさなかで火刑に処される最愛の妻の姿が今もありありと浮かぶではないか。自分はなぜ助けられなかった、わたしはどこから人であるのをやめたのか、力を得たのはいつの日だったか──今も変わらず青年ひとりを助けられないのはなぜなのか、伯爵はかつてそうしたように、両手で顔を覆い、鬱蒼とした深い苦悩を抱え込んだ。