忘れじの詩(うた)・2

 幻滅したような、あるいは退屈でしょうがないような表情を、伯爵は真向かいに座る彼に向けていた。魔王と吸血鬼狩人が同じ食卓についていた。不安定な存在を維持するために伯爵は彼のそばを離れられず、青年もまた彼につきまとわれて迷惑そうだが、直接害のないかぎりは呪いで疲弊した身体をおしてまで撃退に移るという気配がない。
 沐浴し、聖堂で祈りを捧げ、調理をして食卓につくという一連の朝の行為がこんなにも重苦しく、そして長く感じるものだとは――お互いに見たくもないし見られたくもない。精神的な疲労は伯爵にこんなことを呟かせた。

「肉ばかり食べるイメージがあったが、普段の食生活は質素そのものなのだな」

 食卓に並んでいるのはレンズ豆のスープと乾燥イチジクが少量、ライ麦のパンが半分、飲み物といえばワインでもビールでもなく山陵の川からくみ上げた水である。この教会に移住したいきさつにしても英雄や伝説とされる人物のその後としては知りたくないような焦燥感に満ちていて、目の前の食事風景にしても伯爵はいい加減にうんざりしていた。

「体を維持するには十分な量だ。だいいち、ここ7年の間で食欲が落ちた」

 それだけを言って静かにパンをちぎり口にするシモンを見て、伯爵は納得がいかないようにふてくされた仕草をしてなにごとかを考え込んだ。しばらくして食卓へ指を伸ばし、それをわずかに動かすと、詰め物でふっくらと盛り上がったローストチキンが現れた。塩のきいたいい匂いがする。

「食べたまえ。――衰弱した体につらいのなら、もっと薄味の肉を出す」

「なんだこれは」

「害は与えないと言っただろう。普通のチキンだ。それとももっと得体のしれない肉のほうが好みか」

「だからどういう理由で」

「貧しい光景にはうんざりするんだ。気が滅入ってくる。その痩けた頬もどうにかしろ。自分では気づいていないかもしれんが、壮健なころとは大違いに貧相だ。見る影もない」

 指摘と文句に調子が上がってきた。施しのようで腹が立つが、疲労感からなかばやけになっていたシモンは問答を押し殺し食卓に常備されているナイフを取った。それを見て一瞬、伯爵の顔に期待を裏切られたような静寂が訪れた。一瞬ではなく、ナイフを握った状態ではそのショックの形相が崩れることがなく、伯爵の光景を目の当たりにしたシモンは、逡巡したあげく、ゆっくりとナイフを置いた。
 彼は手づかみで肉にかぶりつき、頬が汚れるのもかまわず身を引きちぎった。ジャガイモとマッシュルームのスタッフィングがぼろぼろとこぼれおちる。空気ごと食むようにそれらを口にかきこみ、また肉にかぶりつく。
伯爵のまなざしは喜びを隠せず、興奮を抑えようとしても効果のないその顔は喜色満面の輝きに満ちていた。

「うむ、それでこそベルモンド。作法もなにもあったものではない」

 馬鹿にしようとしてできていない感情の表れにシモンは特になにも言わずにチキンをほおばり続けた。久しぶりに味わう肉は美味く、弱った身体に活力を与えた。『人の食事をじろじろと見るのは作法に反しないのか』と心の中で悪態をつきながら。

「驚いた……どうにかしろとは言ったが、短時間でこうも変わるのか」

 山を下りる途中での会話である。
 伯爵が言っているのはシモンの横顔を見ての話だ。痩けていた頬は年相応の張りを取り戻し、血色の良くなった肌は思わず触りたくなるような滑らかさに満ちていた。

「礼を言う。おかげで外出する気力が回復した」

「なんなのだその驚異的な回復力は……普通の肉だぞあれは」

「自分でもわからない。ベルモンドの血は食物の栄養価を最大限に取り込めるようだというのはわかるんだが……異質化した教会の食べ物もふつうに食べられたからな」

「あぁ」伯爵は青年の脚の早さに大股で歩きながらついていった。「どうりで得体の知れない肉も口にできるはずだ。健康を害したことがないのだろうな」

 よく食べるなとは思ったんだがと、伯爵が青年の歩みの早さに文句を言いそうになったとたん、彼の足がゆっくりとしたものに変わった。伯爵もなじみのある感覚に気づいた。鞍部を目指す山居やまいの魔物の気配が感じられる。
 シモンは腰に携えた鞭を取り、天に向かい軽く音を鳴らした。音速を超えて響く聖鞭の破裂音は夜の眷属にとって警戒すべき存在が近くにいることを相手に教える。悪魔城を陥落させた彼なりの、無駄な殺し合いを避けるための警鐘だった。
 しかし二度三度音波を打ち鳴らしても、彼らはゆっくりと近づいてくるのをやめようとしない。彷徨うものたちのざわめきがふたりの耳に届く。

「お前を呼んでいる。存在を感知したらしいな」
 主を呼ぶ声を耳にしながら公は「どうするんだ?」とだけ聞いた。シモンは歩きだした。
「警告はした。このまま進む」

 言葉通りに、彼はひとつきりの道を下っていった。
 まず最初に、夜を塗り込めたような鴉が音もなく降りてきた。シモンの頭部めがけてかぎ爪を光らせたそれは、鞭が届く距離に入った途端、羽根を散らせて息絶えた。その鞭の音が合図のように、森から、崖下から、あるいは地中から、うつろな口をぽっかりと開けた幻妖の生物が現れ出でた。シモンと、その背後にいる乞い求めた存在を近くにして、彼らのざわめきは嘆きのように勢いを増した。その口は次々に、主は自分たちに気づいていると、わめき、鼓舞するように吠えたてた。その讃歌を耳にしながら、シモンは歩みを止めなかった。人面樹が、泥人間が、鞭の一撃によって跡形も無く燃え尽きる。主に忠誠を誓おうと駆け寄ってきた血の色をした兎が崖下に跳ね飛ばされ、言葉ひとつを求めるように伸ばした食屍鬼グールの腕が、その体ごと主から遠く離れてかき消えた。

 かつての城主はそれらの光景を全て見ていた。冷厳に瞳に収め、そして何も言わなかった。鞭を振るう青年の背中を遠くから見据えて、黒の長衣を血混じりの風になびかせていた。

 虚無をたたえた眼窩の、なかば朽ちかけた骸骨が道の真ん中に立っていた。古ぼけたロザリオが手の骨に引っかかっている。足音が近づき、数秒後、その骸は骨を砕かれ、黄金色の炎をぱっと上げた。それきり体は残らず消えた。怪物たちが一斉に鞭の持ち主に躍りかかる。それらはあまさず鞭で屠られた。
 静寂が訪れた。

 彼らは青年に傷ひとつ負わせられなかった。全てを見届ける距離を置いて、伯爵は彼に声をかけた。

「容赦のないことだ」
 鞭を腰に絡げながらシモンは答えた。
「やむをえないことだ」
「やむをえないこと、か」伯爵は鼻で笑った。「胸の悪くなる言い方だ」
「そうか」静謐な表情は変わらなかった。
「山道など、人間の通っていい場所ではない。無駄な殺し合いを避けるよりも前に、己が身に合った立ち入らざる領域を区別すればいいのだ」
「それはできない。ひとつしかないのだから、この道は通る」

 まだなにか言おうとする伯爵の言葉を遮り、シモンは骸骨が斃れた場所に片膝をつき、こう問いかけた。

「お前に言えるのか? この者を殺すな、道を譲れと」

 伯爵は押し黙った。青い炎を腹の底に燃やしながら。
 かつての城主を殺した男を見逃せなど、たとえ自身の存在にかかわる事情であろうとも、決して口にできる言葉ではない。だからシモンは止まらず歩んだ。伯爵と自分の立場を十分に理解して。しかし、あまりに鞭の威力は鮮烈で、慈悲がなかった。

 シモンはロザリオを手にしていた。骸が手に絡めていた十字架の裏には名前が小さく彫られていた。

「調査員だ」

 伯爵は黒い炎の思考から我に返った。シモンの手元をみて十字に対し嫌な顔をしながら「覚えているのか」と尋ねた。

「行方不明になった最後のひとりだ。7年のあいだ、捜し続けていた」
「知っていて討ったのか」
「いまわの際まで祈り続けていただろうロザリオが手に見えたからな」

 炎が噴き出した。この者には葛藤も迷いも、なにもなかった。
 彼が次に瞳を閉じさえしなければ、責める言葉は容赦なく口をついて出ただろう。瞳を閉じる――たったそれだけのことで、あたりの空気は音をなくした。まるでこれから捧げられる静かな声を貴ぶように。
 シモンは亡き者の信教に従い、ロザリオの球をひとつずつ繰り、玄義を唱えた。それは長く、ひと言もあやまたずに結ばれた。
 そして最後に、青年は自身のやり方で手を組み合わせた。
 彼は祈った。
 自ら鞭を振るい、現世への執着を断ち切らせた魂へと、祈りを捧げた。
 彼の顔はなにものにも触れられぬ寂寞と光があった。その心は慈悲と誠実、そして覚悟と静寂に跪いていた。
 伯爵は荒涼とした風に吹かれながら、彼が祈りを終えるのを待った。十字架を懐にしまい、立ち上がるまで、その光ある姿を見続けていた。

 昼過ぎには町へついた。
 人里に近づくにつれて音や臭いの増した空気に嫌な顔をしながら、伯爵は「どこへ向かうんだ」とシモンに尋ねた。

「教会……いや、修道院かな。一年ごとの手続きが必要なんだが、もうそろそろ時期がきている。引き続き要塞教会の管理権委託証書にサインを」
「わずらわしいことだ」
「ついでに本の閲覧も願い出る」
「本?」
「主に魔術に関する本だが……呪いを解くのに役立つものはないかと」
「そのぶんでは今までに効果を発揮した文献は見つからなかったようだな」

 よく諦めないものだと、それは声にしなかったが、伯爵は修道院の前で立ち止まった。シモンは振り向き、声をかけた。

「来ないのか」
「いいから早く用事を済ませろ。建物を見るのも……」

 頭痛がするようにこめかみに指をあてる伯爵を見て、シモンは小さく笑った。

「すまない。待っててくれ」

 喧噪や厭わしい景観が風に吹かれるようだった。豊かな金色の髪が見えなくなるころ、伯爵はあたりの雰囲気に初めて目を向けた。
 修道院へ入っていったシモンの様子を訝しげに見る中年男性、同じく町を訪れたことを疎むような目を向ける老婆、彼を見たことで不吉なことが起こらないよう急ぎ足で家に戻ろうとする中年女。若い男女は恐れながらもその風貌と頑健な肉体にあこがれと陶酔の目を向け、子供たちは突然現れた憧憬と不思議さを理解できずに、じっと彼の消えた方向を見つめている。

「ふむ」伯爵は口髭を触りながら鈍色の空を眺めた。「英雄か」

 200年前とあまり変わらない煩さを遠ざけるように、彼は網膜に残る静かな光を思い返した。

 写経室に近い一室で、翌年までの管理権委託の手続きが行われた。用意された証書にサインし、血判を押したあと、シモンは修道司祭にロザリオを渡した。古ぼけた十字に司祭の眉が訝しげに持ち上がる。

「行方不明になっていた調査員の最後のひとりです。形見はこれだけですが、弔って頂きたく」
「――あなたが?」

 血の臭いを嗅ぎとって司祭は鼻をひくつかせた。さまよえる魂となった者をその手で倒したのかという意味が見てとれた。

「……やむをえず」粛とした顔で彼は答えた。

「わかりました」司祭はロザリオを受け取った。労いもなにもない。シモンは本の閲覧を願い出た。あからさまに鼻をこすりながら、司祭は「かまいませんとも」と許可を出した。礼を言い、シモンがその場を離れると、男は血判の押された証書を見つめ、忌々しげに呟いた。「化け物め」

 伯爵の苛立ちはふつふつと面に出て、薄曇りの天気の下ではありえないほどの真っ黒な陰影を目鼻に落としていた。
 玉座以外で待つことなど――おまけに立ちん坊で――陰気な町並みも不快な臭いもうんざりを通り越して心が汚れるようだった。つまらない誓いなど忘れて今すぐ炎を放ち、目の前の光景を焼き払ってしまいたい。焦げ立つような辛気に黒の外套がざわざわと揺れた。
 道向にひとりの女性が現れたのはそのときだった。
 淡褐色のやわらかなウェーブヘアを腰まで流し、ヘンナで染めたような赤橙せきとう色のブリオーをなめらかな肢体にまとわせている。彼女は川向こうを眺めるような遠い瞳で、修道院の前に立つ伯爵を見つめていた。そのまなざしは永遠に届かぬようでいて、しかし胸に触れるような近さがあった。公は山道で見せたときのように、冷厳かつ静かな瞳で彼女の視線を捉えていた。
 ふたりは互いに表情を動かさぬまま、あたりの音をすべて排してそこに立った。
 まばたきもせぬまま、女は儚く滑り落ちる血の涙を流した。伯爵は眉ひとつ動かさなかった。修道院からシモンが出てきた。彼の気配にわずかに首を動かしたとき、女の視線はすでに消えていた。
 あたりの喧噪はこれまでどおり、希望もなく、憂鬱だった。

 さんざん待たされた伯爵がこれ以上歩くのを嫌がったため、実質徒歩で行ける距離を一頭立ての小型馬車で行くことになった。幌もない馬車に乗るのはかえってみすぼらしいんじゃないかとシモンは言ったが、伯爵は口もきかず、御者と交渉する前に箱つきの座席に乗り込んでいた。元から風に吹かれるつもりがないらしい。呪いのせいばかりでなくシモンは疲労を覚えて肩を落とした。

 道中、お互いに目も合わせず、ゆっくりと流れる風景へ心を飛ばそうとしたが、そうもいかず、伯爵のほうからぼそっとした声が投げられた。

「見つからなかったか?」
「なにが」
「目当ての本だ」
「あまり期待はしていなかったからな。もう7年だ。だいたいの本は読み尽くした」

 会話はしばらくのあいだ途切れた。次にシモンのほうから口を開いた。

「私から嫌なにおいがするか?」
「なに?」質問もそうだが、すっとんきょうな聞き返しだった。
「あからさまに鼻をくすぐられて――においが気になる仕草を取られてな」

 理由はシモンにもわかっているつもりだった。ただの時間つぶしの呟きだったが、誰かに聞いてみたい気持ちもあった。次の行動にシモンは驚いたが、伯爵は彼の首元に鼻を寄せ、スンとにおいを嗅いだ。

「あぁ」伯爵にはなじみのある芳香だった。「血の匂いがする」

 彼にとってはどうという返事でもなかったが、シモンは吃相の体で振り向いた。侮蔑を受けたような表情でこちらを見る青年に対し伯爵は「なんだ?」とよくわかっていないように尋ねた。
 その態度に冷静になることができたシモンは改めて聞き直した。

「……血の匂いがするとは、本当か?」

「髪の先まで染みついている。先ほども新たに大勢の者を屠っただろう。闇の匂いというのか、まぁ、洗っても完全には抜けきるまい」

 その答えに、緊張から息を抜いて、シモンは「そうか」と座席にもたれた。「人にもわかるのだろうか」
 疲れたような言葉に伯爵は律儀に答えた。「なじみのある者ならわかるだろうが、ごくかすかな香りだ。実際には感じ取れもしない。嫌味でされたのだろうな」
「よくわかるな」
「町の者の反応を見ればな。ずいぶんと疎ましがられている」

 シモンは黙った。諦観に満ちた遠い視線が窓のほうへ流れるのを見て、伯爵は少し考え、こう言った。

「垢の臭いがする町の人間よりよほどましだ。その者らにしても、お前に対して畏怖の念はあるが、憧憬の目もあった。くだらんことを気にするな」

 思わぬ言葉だった。青年は隣に座る、かつて魔王と呼ばれた男を見た。彼は肘をつき、窓の外を眺めていた。

「このように、救ってやった人間どもからなめられる男が城主を討ったとはな」

 あぁ。シモンは背中の傷も忘れて、自身のふがいなさを恥じた。
 伯爵こそが青年の名を、その名声をもっとも重要視していたのだ。一般人よりも軽視される男に討たれたなど、彼の誇りを死後も辱めることになる。
 ラルフ、クリストファー……かつての伝説の人物の名をも地に貶めているようで、いたたまれず、シモンは下を向き、硬く目を閉じた。

「まぁ、町の者の反応もわかる。ひとりでなにごとかを会話し、ほほえむ男など、たとえ魔王の手から人間界を解放した英雄だとしても不気味に思うだろう」

「なに?」シモンは目を開いた。顔を上げると、窓から視線を移した伯爵と目が合った。こちらを向くことを見越したように、その表情は英雄である青年をなめていた。

「言い忘れたが、お前以外にわたしの姿は見えんからな。多少高くついても、風に吹かれてまで、御者に不審な目で見られたくはあるまい?」

 箱付きの馬車に乗り込んだのはこのためか。シモンは深いため息をつき、伯爵と同じように窓際で肘をついた。
 この男の本質は邪悪なのだ。この程度に人の心をもてあそぶことなどなんとも思ってはいまい。いちいち気にかけるのはよそう。むかっ腹を抑えながら、シモンはそう思った。

 うっそうとした森を抜けた先、湖畔を梳く風のにおいにどこか覚えがあるのを感じて、伯爵はあたりを見渡した。色あせた草花がしんと凪いで、耳は沈鬱とした痛みを響かせる。光すらその彩を降ろしたくはないというようにここの空気には現在がなく、孤独な過去が大地に虚無を与えている。空からではなく、人の目線で眺めれば、7年前も変わらずこんな景色だったろう。ここは竜公の墓所だった。

 ふたりは公の墓前に立っていた。
「復活の際に崩れたものと思ったが」
 蝙蝠となって飛び立った時、たしかに墓石は砕け散った。いま目の前にあるのは苔むしもせず埃に汚れてもいない真新しい石碑だった。

「すべてが終わったあと、新しく建て直した」片膝をつき、墓前や周囲の土を調べるシモンの背中を伯爵はじっと見下ろしていた。「なにをしている?」
「お前がここにいるということは弔っている場所になにか異変が起きたのかと思い調べにきたんだが……」土で汚れた指をこすり、青年は過去へと目を澄ました。「特になにも変化がない。墓石も崩れていないし、遺骸の気配も感じられない」

 城主が滅びを迎えたとき、その身は朝日に焼かれて何十羽もの蝙蝠に変わり、最後の一羽にいたるまでを塵と化した。だから遺骸など残っていない。それでも鞭に残る彼の血を土に埋め、新しく墓石を作り直した。もしも復活の兆しがあるのなら、血を弔ったここに真っ先に変化が起こるかもしれない。シモンはそう考えた。しかし肝心の公はといえば、それらの話をどうでもいいように聞きながら、墓碑に刻まれた自分の名前を見つめていた。彼は眉をひそめた。

「ずいぶんと腕の悪い職人に作らせたものだな。文字の間隔も揃っていないし、ところどころの粗にしても相当年月が経ったかのようなひどい出来だ」

 言われてもしょうがないというようにシモンは墓碑銘を見て眉をしかめた。

「あぁ……すまない。当初は石工職人に頼んだんだが、誰もが名を彫るのも畏れ多いと言って……仕方なく、その場で工程を教えてもらって私が彫った」

 伯爵は数瞬の間をおいて、言葉の意味するところに目をみはった。「お前が?」

「教団関係者の説得にも時間がかかった。元来ここに建っていたのだから当然のように新しい墓石を作ったのだが、設置はおろか空の棺の埋葬すら認可が下りなかった。そもそもあのような嗜虐――魔王の墓を公国の墓地に建てる理由があるのかと言われて……鎮魂の座は誰であれ必要なものだと説いたが、結局は要塞教会の清浄化の任を引き受ける代わりにここに弔うことを許された」

 教会の反応は予期していたが、伯爵の瞠然どうぜんはもっと別なことに向けられた。
「つまり、あれは無報酬だというのか?」

「報酬はある。ここにお前の墓を建てる権利を得た」風さえも静まる声だった。「要塞教会の件にしても、あの場所は私しか立ち入ることができなかったのだから、最初から浄祓いきよはらいの役を申し出るつもりだった。同時にふたつの認可が下りてからは行動も早かったが、さすがに引き受けた当初は7年も山から降りられぬとは思わなかった」

 青年は口にしなかったが、要塞内にいた者はいわば魔王の復活のための犠牲になったのだ。竜公の墓を建てるのならばまず彼らのために為すべきことがあるのではないかと、おそらく鼻をつままれながら、いつ終わるともしれない役を持ちかけられたのだろう。弔いの許可を与えた者は皮肉をもって青年の願いを聞き届けたが、毎年許可書に血判を押しにくる青年を見ては、その侮蔑がなんの意味ももたなかったことを思い知る。だからこそ彼らは蔑み続ける。青年の光を否定するために。
 伯爵は自分を弔った若者に目を澄ましていた。

 静謐な表情だ。自分を笑う余裕がないのとは違う。これが当然という考えで、行動と結果を心に迎え入れている。相貌も声様も、青年の佇まいにはなにひとつ後悔がない。裸のままどこともわからぬ場所へ連れて行かれた要塞内にいた者たちを思えば、彼は惨劇が起こった場所を決してそのままにはしない。忌まわしさを払い、清め、まことの鎮魂の座を設けるため、祈りを捧げる。それが魔王であっても同じということだ。

 雲間から射す夕暉せっきが彼を讃えるようにその光を降ろしていた。
 竜公の墓前で膝をつくシモンの清さは英姿そのものだった。

 青年は白いアネモネ・ブランダの花を数輪手向けた。山地の岩場に自生していた花だ。山を下りる前に摘み、ここまで大切に持ってきたのだろう。
 手を組む前に、彼は墓碑銘を指でなぞった。もう少しなんとかならなかっただろうかと、隣にたたずむ竜公の言葉を思い返しているようだった。
 伯爵は彼が彫ったという文字をあらためて見つめ直した。

 DRACULA

 たどたどしく刻まれた竜公の名。おそらく復活の際に崩れた墓碑銘を可能な限り元通りにしたのだろうが、稚拙で、粗く、みすぼらしい。
 墓前に並ぶ小さな花は置き石がなされているが、吹けば飛ぶほどの寂しさだ。
 時折そよぐ風に花弁が震えた。哀れな花はこの場所を恐れているようだった。
 刻んだ名も、手向けた花も、眉をひそめて当然の、満つるに足らないものなのに。

「美しい字だ」その声に皮肉はない。「力がある」

 指を止めた。名をなぞるのをやめて、青年は祈りを唱えるため、胸元で手を組み合わせた。どんな顔をしていいのかわからなかった。瞳をとじて、彷徨う魂の安寧を願う。
 ふたたび目を開けて、隣を見上げると、彼は相変わらずそこにいた。それでも、意味のない行為とは思えなかった。

 罵ることも、嘲ることもせず、竜公は彼の意思を尊重した。もしも青年が言葉の端々に自嘲するような笑みを浮かべていたら、伯爵は決してそんな態度を取らなかっただろう。彼の清さが伯爵の胸に誠啓の念を与えていた。

 シモンは立ち上がった。晩秋の風が吹いた。青年のマントと伯爵の外套が音を立てて陽の落ちるほうへとなびいていった。