赤くまたたいたそれは、長いしっぽを夜空に描いて山間に落ちた。ずいぶん遠くのようでもあり、近くのようにも見えた。窓からその光景を眺めていたマリアは、リヒターを呼んだ。空を見上げたリヒターは、とうに見えなくなったそれを思い、マリアに尋ねた。「お願いごとはしたのか?」
少女は思い出したように手を組み合わせて、瞳をとじた。
「なにをお願いしたんだ?」
「お歌がうまくなりますようにって」
「マリアは充分うまいぞ。でもまぁ、上達を願うのは良いことだな」
しかしこの世界でも星が降るんだなと呟きながら、リヒターは外の光景をしみじみと眺めた。虫が鳴き、コウモリがはばたき、空には月と星がある。本の記録に朝は来ないが、夜という世界は宇宙の広がりを見せてどこまでも美しく輝いていた。
翌日、マリアは四聖獣とともに湖のほとりまで出かけていた。城の中で戦いばかりしていては息がつまる。空には煌々と光る満月。皆と一緒に休息を取ろうと、明るい山道を散歩していた。
草はやわらかく、風は穏やかで、湖面には満月が映る。美しい景色を眺めながら月光浴をしようとここを訪れたのだが――湖はいつもと雰囲気が違っていた。湖畔のまわりの林から、月明かりにも負けない強い光が波のように揺れていたのだ。オーロラにも似たその光は少女の好奇心を大いに刺激した。
皆に守られながら林の中に入ると、マリアはそこに朱雀が二羽ぶん入りそうな大きな卵を見つけた。それはオパールのように謎めいた光を放って地面に傾いていた。白虎がマリアのスカートを噛み、うなるように引っ張る。近づいてはいけないと警告している。
「でも」マリアは卵を見た。頭上を見上げ、どこにも巣がないことを確かめたあと、もう一度その光彩を放つ物体を見た。光は徐々に弱々しくなっていく。息をひそめるようにほのかに、花がとじるようにゆっくりと。その脆弱さは生命が消えていくように思われた。
マリアの頬に雨粒が落ちた。光と相反して、雨の勢いは増していく。雨を受けるたびに光は弱々しくなっていく。ろうそくの火ほどのか細い光が中心に集まる。消えていく――そう思ったとき、マリアは卵に手を差し伸べていた。
卵に触れた瞬間に雷が鳴った。その音は卵から鳴り響いたかのように、瞬間、マリアの髪も衣服も激しく波立たせて、光が弾けた。そして消えた。ざんざんと降る雨の中、手のひらから伝わる鼓動を感じながら、マリアは卵の前に立ち尽くしていた。
マリアは城に帰ってきた。スカートをまくり上げて、そこに卵を抱えながら。
小言を言うのはあとにして、リヒターはマリアを風呂に入らせた。マリアも慣れているもので、髪を絞りながら「リヒターお兄ちゃん、そのたまごさんのぶんのタオルも頂戴」とお願いした。ずぶ濡れのまま得体の知れない卵を拭いていては芯から凍えてしまうだろう。リヒターはしぶしぶ「俺がやるからマリアは早くあったまってこい」と風呂場へとせかした。
ぱたぱたと走り去る妹を確認したあと、リヒターは部屋の中央に置かれた卵をちらりと見た。白い肌の表面にはオパールのような淡く複雑な色味が広がっている。膝下半分くらいの大きさだろうか。よくもまぁここまで無事に運んできたものだ。タオルで卵の水気を拭きながらリヒターは「たまごさんって……食べるつもりじゃないのか?」と呟いた。
「あたためるの」湯上がりの髪をタオルで丁寧に押さえながら、マリアはにこにことそう話した。「どこから来たのかわからないけど、あのままあそこに置いといたら死んじゃうと思ったから」
「俺たちの手で孵そうっていうのか」
「手伝ってくれるの?」
輝いた瞳で身を乗り出した妹を見て、リヒターは頬をかいた。卵にはすでにマリアにお願いされた鳩がちょこんと乗って身に合わない抱卵をしている。妹の手だけでは足りないだろう。こうと言い出したら聞かない少女であるのは充分に知っている。なによりあの嬉しそうな顔。本の世界で退屈していた子供にはちょうど良い刺激となるかもしれない。
「別にいいけど、あんまり夢中になるなよ」
「ありがとう、リヒターお兄ちゃん」
マリアの抱擁は親鳥のようにやわらかく、あたたかかった。
リヒターは誠実な兄だ。皆に断りを入れてマリアとともに探索を休み、かわりばんこに卵の様子を見守った。薪を切って暖炉にくべたり、転卵の時間に声をかけたり、部屋の湿度を調整したりと、不備なくきまじめに働いた。加湿は気にせずにいても良さそうだった。あれからずっと雨が降り続いているのだ。時折換気を行えば暖炉の火とほどよく混じり、卵にとってはあたたかく快適な室温になった。
皆のあいだでもオパール色の卵は話題になった。なにが生まれるのか興味津々で部屋を覗いては、マリアやリヒターとたわいもないお喋りをした。
「小屋を用意する必要があるかもな」
「最初に見たものを親と思うアレ、刷り込みってやつ、できるかもしれないぞ」
「エサとかどうしような。ミルクでいいのかな?」
皆新しい刺激を欲していたのだ。探索でへとへとになっても、一日に三、四人は卵の様子を伺いに来た。ベッドのまわりに集まってわいわいと話す。薪が切れたときは卵を抱いてベッドにもぐるのだ。毛布にくるまるマリアを見てシャノアが尋ねる。「ちゃんと体を動かしていますか?」きょとんとするマリアに「いえ」と言葉を継ぐ。「顔色がすぐれないように見えましたので」
「大丈夫よ、シャノアさん。リヒターお兄ちゃんとかわりばんこであたためてるから」
その時にストレッチもしてるんだとマリアは笑ってみせた。明るく愛らしい、曇りのない笑顔だった。卵を抱いて横たわるリヒターの姿を全員が想像して、それを感じ取ったのか、リヒターはほんの少し顔が赤くなった。
暗い窓の外を眺めてヨーコが呟く。
「それにしてもよく降るわねぇ」
連日の雨である。月も星も皆久しく見ていない。本の記録には晴れた世界もあるにはあったが、休息の場は雨音が止む気配がなく、ノイズのように耳に響く憂鬱な生活が続いていた。
ノックの音がした。「どうぞ」とマリアが声をかける。シモンが薪を持って部屋を訪れた。三日は持つだろう量だった。「乾かしてきた。使ってくれ」
「ありがとう、シモン」リヒターは薪を受け取りながら目線で椅子を勧めた。シモンはすぐ退室するという意味を込めて首を振った。穏やかなまなざしはマリアを捉えた。じっと見つめたあと、「よく眠れているか?」とシモンは尋ねた。シャノアと同じように顔色の悪さを心配したのだろう。マリアは「はい」とほほえみを返した。「リヒターお兄ちゃんもいるから、大丈夫です」
マリアは薄暗がりのなか目を開けた。
目の前にすすのような塊があった。自分の半分ほどの大きさのそれは、もぞもぞと動いては、猫のように丸まった。未熟な脚がか細く震えている。
時折、黒い塊はマリアに噛みついた。小さな悲鳴を上げて振り払うと、それはさんざんに暴れて、マリアのことを苦しめた。腹をすかせた唸り声、思い通りにならない苛立ち。黒い塊は疳の虫が具現化したような存在だった。
それはマリアをぼろぼろに疲れさせたあと、ゆっくりと天を見上げて、絞り出すような声を漏らした。泣き声だった。一粒、また一粒と涙がこぼれる。
マリアは幼い弟に接するような厳しくも静かな表情で塊のそばに座った。小さな手を伸ばして、その身に触れる。塊は気にも留めない。マリアはひどくこわばった体に眉をしかめて、その肌をさすった。それは嫌がることなく泣き続けた。マリアの唇が開く。胸に沁みるようなやさしい旋律が流れた。子守歌だ。うらがなしい慰めの調べが薄暗がりに響く。哀鳴は続く。その歌声を聞いていないように、ひとり身勝手に泣き続ける。マリアは歌う。背中をなでて、静かに、思いつくかぎりの甘い歌を歌う。やがて塊は泣き疲れてしんとなる。マリアに身を寄せて、すうすうと寝息を立てるころ、マリアもまた、そばに横たわって、瞳をとじた。
薄暗がりが明けていく。……
とある日、暖炉の火がとろとろと燃える部屋で、マリアは卵を抱いてうたた寝をしていた。ベッドでもソファでもなく、床の上だった。雑事の合間に様子を見に来たリヒターは、その表情を見て眉をしかめた。うなされているのだ。ちゃんとしたところで寝ていないからだろう――そう思ってマリアをベッドに連れて行った。マリアはうっすらと目を覚ました。「お兄ちゃん、たまごも」「わかってる」
妹と一緒に卵をベッドに寝かせたリヒターは、立ち去ろうとしたとき、マリアに腕を引かれた。リヒターはほほえむ。
「なんだ、添い寝でもしてもらいたいのか?」
「うん」
冗談で言ったつもりが真剣な目で返されて、リヒターは言葉に詰まった。
「怖い夢を見るの」
「どんな」
「忘れちゃうんだけど……でも、大変な夢。いつも疲れて起きるの」
先ほどまでの妹の表情を思い返したリヒターは、その可愛らしい額をそっとなでた。指先で髪を梳き、きめ細やかな頬を包む。マリアは大きな青い瞳を朝露のようにやわらかく細めて「寝付くまででいいの」とお願いした。
椅子にかけたエプロンが暖炉の火に照らされて灰色の影を落としている。広い胸にマリアを抱き寄せたリヒターは、小さな肩を一定のリズムでやさしく叩いていた。妹の呼吸は透明で、くすぐったく、雨音と混じり合うようにどこか切ない。
「どんな子が生まれるんだろう。竜とか、大きな鳥さんとか」
「あぁ」
「お父さんお母さんはどうしているのかな」
「うん」
「私たちが育ててあげようね」
「そうだな」
「みんないるんだもの、仲良くなれるわ」……
まるで自分に言い聞かせているようだった。不安を感じ取ったリヒターはマリアの頭をなでながらこう言った。
「なぁ、マリア」
「うん」
「自分の手に負えないと思ったら、お兄ちゃんに言えよ」
マリアは卵を潰さないように気をつけながら、兄の胸元をぎゅっと握った。
「ありがとう、お兄ちゃん。大丈夫よ」
雨が降り続けている。
流れ星が空の均衡を崩したように、雨は一週間止むことなく地面を穿ち続けた。その勢いは城にまで及び、堀は溢れ、一階部分に浸水しようとしていた。皆、探索は一時中断し、上階への避難の準備を進めた。手の空いているものは排水作業に従事したり、助けを求めて古の悪魔城へと赴いたりした。
古の悪魔城でも雨の被害に悩まされていた。死神が陣頭指揮を執って土嚢の積み上げ作業を行っている。その現場に城主とシモンが立ち会っていた。話を聞くまでもなく、古の城主はシモンに向かい「こちらが済んだらすぐに向かう」とカッパの端から水をしたたらせながらそう伝えた。シモンは礼を告げて、皆のもとへ帰ろうとしたが、ふと思い立ち、「あの」と伯爵にあることを尋ねた。
「オパール色の卵だと? それをあたためて孵そうというのか。あの小娘、なんと愚かなことを――」
伯爵は雨空を見上げた。頬に雨粒が当たるのもかまわずに、なにかを見通すように空の一点を凝視する。「星の並びに乱れがある」伯爵は確信を持った表情でシモンに向き直った。
「いいか、それは魔物の子だぞ。星から堕ちた邪悪な生命体だ。人の精神に影響を及ぼす妖魔の子が潜んでいてな、悪夢から卵の持ち主に介入しては生命力を奪い取って、生まれる際には親の魂を貪り食らうんだ。このまま育てていては危険だぞ」
危惧していたすべてのことを聞かされたシモンは、城に戻り、リヒターにありのままを話した。リヒターは拳を握りしめた。うつむく表情は今朝のマリアの容態を思い返していた。体調を崩してベッドに横たわるその苦しげな寝顔。腹部に大切に抱えたオパール色の卵。その不思議な色味に不審な印象を受けなかったわけではない。ただ彼女があまりにもひたむきに芽生える前の命を守ろうとしていたから――。
言い訳だ。リヒターは顔を上げた。迷いはない。
真摯な瞳同士がまっすぐに見つめ合った。「もしものときは、俺が」
リヒターは腰に下げたクロスを握りしめた。「俺がかたをつけるよ。だから今は、そっとしておいてほしい」
そのときが来れば、ためらいはしないだろう。シモンは覚悟を決めたリヒターの顔を見て、うなずいたあと、皆の元へと戻っていった。
薄暗がりのなか、黒い塊はマリアの膝に身を寄せていた。
歌声を聞きながら、それは猫のような目を向ける。塊の口が開き、小さくも鋭い牙を見せた。マリアの髪は乱れていて、頬にかかった毛先が疲労感を表していた。しかしまなざしは強く、やさしく、諦めていない。歌いながら静かに首を振り、それはいけないことよと塊に教えている。
首元に噛みつこうとした塊は、鼻先にマリアの手を感じて、きょとんとまばたきをした。あたたかく、甘い匂いがする。鼻面を手のひらで制されていたが、それを不快には感じていなかった。この手をはねのけて、首に噛みつけば相手は悲鳴を上げるだろうが、少女と過ごすうちに、その悲鳴は塊の胸を悲しく痛めつけるようになった。なぜだろうと、緑の瞳が沈黙する。
「良い子だね」マリアは歌の終わりにそう囁いた。薄暗がりが明けていく。
嵐だ。
悪魔の爪で空をひっかいたような豪雨が走り、木々は髪をつかまれた女のように凄絶な風に引き倒された。月もなく、星もなく、広がるのは黒い空だけ。
上階への避難は済んでいた。部屋が足りていないことと、事情を知るものの計らいで、リヒターとマリアは同部屋にあてがわれた。簡素なベッドで身を寄せ合い、リヒターは妹の頭を抱いていた。ふたりのあいだには卵がある。
「怖い夢は見ないか」
「うん、平気よ」
わかりきっている話をするのは、ふたりとも覚悟を決めているからだ。肝心な話は口にしないが、まなざしでわかる。卵を取り上げようとしても聞かないだろう。手を出さないでと言っても応じないだろう。すべてにかたをつけるにはこの状態でいるしかないのだ。
枕の下にはクロスがある。もしものときにはこれを卵に突き刺すつもりでいた。聖鞭はすぐそばのサイドチェストに置かれていて、か細いろうそくの光に照らされている。窓がびりびりと震えて、壁に激しい雨が叩きつけられた。閃光が走り、遅れて雷の音が聞こえた。
リヒターは妹の肩をやさしいリズムで叩いていた。お返しのように、マリアは兄に歌を聞かせていた。胸に甘い水がたまるような、しっとりとした歌声。
歌声は低く、静かになっていく。リヒターも肩を叩くのをやめた。寝入った妹の顔を見ながら、枕元のクロスに腕を伸ばした。青い瞳が厳粛な光を帯びていく。
マリアの呼吸が短く、せっつくような間隔に変わった。夢を見出したのだ。額には汗を浮かべて、苦しげに眉をしかめている。リヒターはゆっくりと上掛けをめくった。その目が見開かれた。卵にヒビが入っている。もはや一刻の猶予もならない――クロスを握りしめた手を振り下ろそうとしたとき、強風の勢いで窓が開いた。激しい雨風にリヒターは思わず息をつめた。マリアは――起きない。リヒターの鋼のような相貌が雷光に照らされた。彼はクロスをまっすぐに卵へと振り下ろし――その手は意思を持ったやわらかな手に押さえられた。見えざる力は大の男の腕力をものともせず、その威力を指先の感触と、はっきりとしたまなざしでかき消してしまった。マリアの表情は神の啓示を受けたもののように、透明な喜びにあふれていた。見つめ合うその笑顔に翳りはない。雨風に逆巻く部屋の中、可憐な唇が花開いた。「生まれるわ!」
雷が鳴った。閃光は部屋にも走った。卵から生まれ出た光はふたりの髪を波立たせて、やがてひとつの塊へと収束していった。それは竜のようでもあり、人のようでもあり、羽かしっぽかわからないものを生やして、瞳は幼く、手足は小さく、肌はきめ細かくすべらかな、とても美しい生命だった。
部屋の中、雨風は止んでいた。新しい命がその勢いをエネルギーとするように、吹き荒れる先から子供に飲まれて消えていった。
子供はふたりを見た。月明かりと星明かりが混じり合ったような眩い光を放ちながら、やさしい瞳はマリアを見つめてほほえんだ。やわらかなまなざしはどこかさみしげで、清らかだった。子供はふたりに背を向けて、開いた窓からふわりと宙に浮いた。城よりも高く、山よりも高く、天へとのぼっていく。その子の通った道には雨も風も見えなくなった。すべてが小さな体に吸い込まれてゆく。光輝く子がはるかな高みへとのぼっていくころには、夜闇は静寂に包まれていた。やがて夜空に新しい光が生まれた。それは金色に煌めいていた。
窓際に立ち、新たな星が並ぶその光景を見つめていたふたりは、穏やかな風を感じて、自分たちがなにかに救われたことを理解した。マリアはリヒターと手をつなぎ、星空を見上げながら、澄み切った声でこんなことを話した。
「マリア、夢のなかでうんとがんばったんだよ。お歌を聞かせてあげたり、こわばった体をほぐしてあげたり、泣いて暴れるあの子をなんとかして慰めてあげたくて……」
時間はかかったけど。
良い子になるって約束してくれたの。
リヒターは手を握り返した。マリアが見つめる同じ星を眺めながら「えらいな、マリアは」とやさしく声をかけた。
古の悪魔城にて。
死神の陣頭指揮によって排水作業が進むなか、城主と狩人は長い立ち話をしていた。三日月が二週間ぶりに姿を現した夜だった。
シモンから事の顛末を聞いた伯爵は、興味深げに息をついて、気品ある細顎に手をやった。
「伝説上のことだと思って話さなかったのだがな。妖魔の夢にも打ち勝つ心清らかな乙女が卵を孵せば、その子は再び天へと還り、危難を救う存在となるだろうと」
伯爵の話を聞きながらシモンは夜空を見上げた。多くの星がまたたく中に、新しい光が生まれたのだろうか。
死神が堀の復興作業が順調であることを告げた。伯爵は現場を確認するために大股で城門へと急いだ。シモンにこんな言葉を残して。
「おかしな天候もすっかり回復してしまった。これからは穏やかな夜が続くのだろうよ」――
リヒターとマリアは中庭のベンチに座り、美しい星空を眺めていた。穏やかな声音でマリアが歌う。子守歌だ。耳に心地よいソプラノを天へと届けるように、少女は歌い続ける。風はなく、気温はあたたかい。澄み切った空気に晴れ晴れとした気持ちが重なって、リヒターは満足気にのびをした。虫も鳥もマリアの歌に耳を澄ましているようだ。快い気分で妹の歌声に浸っていたリヒターは、ふと、あることに気がついて、マリアにこんなことを言った。
「前より歌がうまくなったんじゃないか」
ぴたりと歌がやんだ。そろそろと視線を下げて、そうかな、とマリアは頬を赤らめた。膝の上で手をもじもじとさせている。そんな妹が可愛らしくて、リヒターはマリアの頭をなでた。マリアは自信がついたようにほほえみ、また歌おうと顔を上げた。「あ」マリアの横顔が明るく輝いた。きらきらとした瞳は一点を見つめて光を浴びている。マリアの喜びにリヒターも気づいた。まなざしの先をゆっくりと見上げる。満天の星空の中、ひとつのまたたく星を見て、マリアは嬉しそうに目を細めた。
「あの子、笑ったよ」
終
15/08/10(月)