睡郷

 黒瞳のような美しい円が天にぽっかりと浮かんでいた。
 張り詰めた空気とは無縁の、朝靄にも似た茫漠とした世界で、それを見つめることによって自分が、かつての世とは違う異界の底にいることを知るような、一点の黒い穴。

 天守から三日月を眺めたその目で、竜公は、星にも及ばぬ高みの、ひとつの黒い点を見上げていた。凶星より確かな、災禍をもたらす存在として、古より語り継がれる城の主が、いまはひとり、白い世界に立ち尽くしている。意思を持ち、動くものとしてなら、彼はひとりきりだった。

 水面を踏むような不確かな感触がする足元で、それは己がこの地に佇んでいるのを自覚させた。竜公と対峙した数多の吸血鬼狩人のなかで、明星のごとき戦功をあげた最も高名なる男が、足元に横たわっていた。苦悶の表情は一切ない。明日も清虚な生活を送るため、一晩の眠りについているような安らかな寝顔だった。伯爵がこの地で目覚めたときから、彼はずっとそうしていた。起きることも、話すこともなく、なぜここにいるのか、わずかなサインも示さない。ただ、眠っているのだ。竜公と同じ地で。

 地の底から祈りの声が聞こえてきた。破壊と征服を望み、その目的を果たすための主を求める邪な祈りが。耳障りかつ不快な、欲望にまみれた重々しい響きが。
 その声は蜘蛛の脚のようなかたちに変わる。鋭角かつ細長い、いくつもの黒い線。小山のようなラインを描く巨大な脚が、地中から伸びて、横たわる青年のもとへと、ひそやかに忍び寄る。竜公はついと横を向いた。視界が汚れるのを厭うように。黒い脚は一瞬の間に燃え尽きた。身に受けたものが、その力を振るわれること自体をよろこびに思うような、至貴の炎だった。青年はなににも反応を示さずに眠っている。

 竜公は彼を守っていた。
 この地にいることを厭うものの祈りの声から、排除しようとする汚らわしい意思から、何年も何年も、自身は眠らずに、青年を守り続けていた。

 百年はとうに過ぎたのかもしれない。魔王の復活を望む声に焦りと苛立ちが感じ取れるのだ。失望も少なからずある。それでも諦めきれない暗い情熱が、祈りとなって足元から立ち上ってくる。祈りはかたちを為してさまよっている。竜公をこの地に引き留めるなにかを取りのけようと、音もなく。

 伯爵は青年のそばに腰を下ろした。きわめて優雅に、衣擦れの音もおごそかに。青年の頬に手を添え、呟く。「シモン」
 頬をなでる手は豊かな金色の髪の毛を梳く動きに変わった。青年はまぶたをぴくりともさせずに寝入っている。
 彼の言葉は今もほのかな灯として伯爵の胸に残っていた。

『お前の伝説を迷信に変えよう。きっとできる。そのために祈る。お前の安らぎを心から、祈っている』

 また、こうも。

『もう二度と邪悪な祈りが聞こえぬよう、私の手で、お前の耳を塞いでいられるようにと』

 思うようになったかねと、竜公はまばたきをして囁いた。

「もしも君が起きていたら――君は、眠りに落ちたわたしの耳を使命のように塞いでいたことだろう。しかし君自身は、聞くに堪えない邪な祈りに脅かされて、そのうちに限界を迎えたことだろう。それに気づいたわたしは目を覚ます。君にこれ以上不快な祈りを聞かせぬよう、小指一本ほどのわずかな力を地上に解き放つのだ。やつらが求めるのは魔王の影だ。かたちばかりの城と魔物がいればそれで満足する。甘い汁を吸うには充分な砦ができるのだから。魔王本来の力が世に君臨すれば自分たちもただでは済まないことをやつらは知らぬのだ。……君は悲しげな顔をする。無念きわまりない顔をする。やがて狩人に討たれた地上のわたしは、その傷を癒すため、ここに戻ってくる。わたしはふたたび眠りにつく――君をおいて。君はわたしを胸に抱き寄せ、こう言うのだ。『おやすみ、ヴラド』と。耳を塞いで、同じことを繰り返し繰り返し……そしてまた、邪悪な祈りが聞こえてくる……」

 青年も同じことを考えたに違いないのだ。
 誰よりも伯爵の安らぎを願っていた狩人は、想像しうるあらゆる事象を頭にめぐらせたうえで、この方法をとったのだ。鎮魂を望む彼の祈りがこのようなかたちで具現化したのかもしれない。

「君はただ横たわることによってわたしの復活を阻止している」

 君をおいていけるわけがないからなと、伯爵は青年のりりしい眉をそっと親指でなぞった。そのしぐさには何度も心を重ねた相手への親しみが込められていた。返ってくるのは一定の呼吸のみだった。伯爵は静けさをたたえた顔をあげて、天を見た。黒い穴。こちらとあちらをつなぐ、おそらくひとつの可能性。

「わたしはあの邪な祈りが聞こえてくるかぎり、眠りにつくことはできない。君と話すこともかなわない。互いに触れ合うことも、まなざしで心交わすことも、いっさいなにも――永遠に。これが君の祈りのかたちだとしたら、ずいぶんと残酷なことをしてくれる――」

 シモンはなにも答えなかった。
 薄いまぶたに隔てられたその青い目を見せようともしなかった。
 伯爵は彼の口元を指でなぞった。口づけることもできなかったその唇はふっくらとして、あたたかかった。自分とは違う。まったく、違う――。

「ならば、わたしも祈ろう」

 誰が応えるのかはわからない。それでも、彼はここにいるべき人間ではないのだ。迎えに来い――伯爵は竜の眼で天を睨め付けた。

 天から一筋の光が降りた。
 黒い穴から円錐状に広がるその光は、白銀の輝きに満ちていた。天使の羽が舞い下りてきそうな峻烈かつ神々しい光。穴は徐々に大きさを増し、やがて大樹のような広がりを見せた。滔々とあふれ出る美しい光。それが見せかけの光かどうかはわからない。しかしあの輝きには自分となじみの深い闇の力は感じられなかった。あの眩さはそう、十字架(クロス)の向こうに見た光とまったく同じ――伯爵はシモンを抱き起こした。そのたくましい体を両腕に抱えて、ゆっくりと光のもとへ歩み寄った。全身に走る不快感を耐え、塵と消えそうになる体を強固な精神でつなぎとめながら、一歩一歩、高貴さを失わずに歩んでいく。

 あの光のもとへ昇らせたなら、彼はきっと天界へゆけるに違いない。
 そして――ここにいる理由もなくなった自分は、いずれ邪悪な祈りを力に変えて、地上に復活を果たすのだ。それでいい。もう何百年も繰り返してきたことだ。魔王も狩人も、そして人間も滅びはしまい。強大な力を持つ城主の影に隠れながら甘い汁を吸う、一部の欲深な人間どもの願いが叶うのだ。天災や病疫の原因として、人心を乱す象徴として、すべてのわざわいの元として、自分は人間界に復活する。ひとつの脅威に立ち向かうため、人々は結束し、力を合わせることだろう。教会の権威も盤石なものとなるに違いない。魔王退治が終わればまた戦争が始まる。頃合いを見計らって、邪教徒どもが祈りを捧げる。自分たちには一切の害が及ばぬよう、思うさま悪を為せる時代の再来を夢見て、ひとりの狩りの対象を蘇らせるのだ。いつまで、いつまで、このようなことが行われるのか――。

 光が伯爵の体を照らしていた。朽ちずにいるのが不思議なほどに、その光は眩かった。青年を光のもとへ捧げる前に、伯爵は彼の胸元に顔を寄せた。ゆっくりと、これが最後というように。
 は、と伯爵の目が開いた。青年の胸にもう一度、顔を寄せる。確かめるように、今度はしっかりと耳をあてて。
 心臓の鼓動が聞こえた。規則正しい血潮が、熱い意思をもって、伯爵に青年の音を聞かせていた。生命の律動、ぬくもり、誰にも汚せない彼自身の、魂の働き。それは音楽だった。どんな楽隊にも紡げない妙なる音楽が、彼の胸の内から聞こえていた。竜公の祈りを受けて蘇ったかのようなその音色は、光のきらめきも、変わらず響く邪な祈りも、なにもかもをかき消した。心に届く年若き狩人の声。

『もう二度と邪悪な祈りが聞こえぬよう――』……

 竜公は光に背を向けた。
 青年を胸に抱きながら、光が届かぬところまで歩んでいった。
 やがて救いの光は消えていった。

 白い地に横たわるふたりがいた。
 伯爵はシモンの胸元に顔を寄せて、心地よい音楽を聴いていた。
 地の底の祈りは届かない。聖歌とも呼べるその音色は邪な力を遠ざけた。
 まるで会話を楽しむように、伯爵は青年の鼓動に耳を傾けていた。

『お前の伝説を迷信に変えよう』

 あぁ、そうなるとも。
 竜公は誇らしいように微笑を浮かべた。数多の狩人を屠ったときにも見られなかった、勝利の笑みだった。それは彼とともに勝ち得たものだった。

 我が友、最も高名かつ、高潔なる吸血鬼狩人よ――君はこうなることを知っていたのか?
 永の祈り、未来の詩、翠影に見る葉の擦れ、風花と冬の光。やがて訪れる鳥の声。
 すべては美しく、やさしい。

 伯爵のまぶたはいつのまにか閉じられていた。
 心から安らぐ心臓の音を聞きながら、竜公は眠りに落ちた。
 シモンの呼吸は変わらず、穏やかだった。
 夢の中で大切な相手にめぐりあえた――そんな微笑を浮かべながら、いつまでも静かに眠っていた。

 終
 13/08/17(土)