昨日までは雪だった。
一緒に歩いていたつもりが、ふと見ると隣に立ち上るはずの白煙がない。探すまでもなく振り向くと、俺から10歩うしろにライドウの姿があった。
うつむきながらの一歩一歩はどこか慎重で、なにをしているのかと見ていると、遅い歩みは俺の足跡を追って、雪を重ねて踏みしめて、少しずれたふたつの足跡を作っていた。
俺は大股でさらに10歩、足跡を作った。そしてその場でくるりと振り向き、両手をズボンのポケットにつっこんで、背伸びしたり膝を軽く曲げたり、大道芸人のような落ち着きのない動きで寒さをしのぎつつ、ライドウを待っていた。
やがて「あっ」と学帽の鍔を俺の胸元にぶつけたライドウの慌てた顔を、その紅潮した頬をぬくめるように両手で包み、「いいこいいこ」とぐにぐにとほっぺたを揉んでいたのだが、今朝はもうそんなことができそうもない。
桃の花はぷっくらと色づき、雪は川の流れに姿を変えて、日差しはぽかぽかと生ぬるい。
春がきたのだ。
朝食の席で箸を動かすものの、どうも頭が冴えない。
昨日飲んだ甘酒のせいだろうか、おかしな夢を見た。
楽しかったのだが細部がどうも曖昧だとライドウに伝えると、茶漬けをすすり終えたあとに「はぁ」と返された。
「どのような夢です」
続きを話せるとは思っていなかったから、少し嬉しかった。
塩加減が絶妙な茄子づけをぱりとひとくちかじったあと、
俺は「この町にはない川縁を歩いてた」と夢の話をはじめた。
「桃の花が背の高さに立ち並んでいてな、陽はぽかぽかとまどろむように眩しい。視線を感じてふと横を向くと、桃の枝葉の隙間から俺を見ている奴がいた」
目をこらして木陰の奥を見つめると、こちらを覗いている奴は桃の枝に手をかけて、そのままぱきりと折っちまった。もっとよく見るために花をかきわけようと置いた手がたまたま枝葉を折ってしまったのかもしれない。顔を隠していた桃の花がなくなったものだから、そのきれいな額をした奴がびっくりしたように手の中の桃花を見ていたからな。
「ライドウ」と声をかけて俺は木立の蔭のそいつを呼んだ。
桃色の紗から姿を現したお前は学帽もかぶらず簡素な白いワイシャツを着込んでいたよ。
和装でもないのに桃の花とよく似合っていたから、今度は俺がお前をよく眺める側になった。
枝葉を片手にしばらく立ち尽くしていたお前は、まばたきをする間にその場からいなくなってしまった。
いまだ風に流れて地面にふれない桃の花びらがさあっと俺の横を通り過ぎて川に落ちた。
振り向いたところに川縁に座るお前がいた。
土手を下ってお前のやることを見ていた。
桃の枝を川面に刺して水をいたずらに裂いている。
さらさらと流れる川に小さなしぶきを立てるのをやめないから、なにをしてるのかと思ったら、どうやら文字を書いているようなんだな。思い出せやしないが、あれは枝葉を筆のように動かしていた。
「なにを書いている?」
お前は振り向きもせずに『――』。
「なんと言ったんですか?」
「そこで目が覚めた」
「えぇ?」
聞くんじゃなかったという風に不満そうな表情を向けられたものの、ライドウ以上に俺のほうがもやもやとした気分なのだ。
「どうにかしてくれよ」と最後にお茶を一杯すすると、ライドウは「どうにもできませんよ」と食器の後かたづけを始めた。
うぐいすが鳴いている。
梅と桜と桃の花。
いちどきに咲く場所があってそこを三春というそうだが、今年の筑土町も東北の一地名のように景気がよかった。
まるでこの町ではないようにあちらこちらに紅梅白梅咲き乱れ、桜も散れば桃も風に吹き流れる。
見たことのない紅潮した風景を眺めながら、俺はぽやぽやとくたびれた格好で川原を歩いていた。
気温が高く、着ていた上着も肩にかけて、学校へ続く道をてくてくと陽に照らされながらゆくと、感じたことのある視線が頬にわき腹に突き刺さった。
横を向くと桃の木が立ち並んでいて、背の高さに生えたその蔭に、見慣れた脚も生えていた。
遠くでぱきりと音がした。顔を隠す枝葉がなくなり、きれいな額が、まなざしが桃色の彩りに現れる。
「ライドウ」
何度も繰り返したそのかけ声をよそに俺のつっ立つ道を卒業生たちが歩いてゆく。
桃の枝葉を片手に学帽も外套も脱いだライドウは土手をのぼって俺の脇を通り過ぎ、川縁へと下っていった。
同じように土手を下るものの、川縁に腰掛けたあいつの背中を見たとたん、なんとなくその“続き”を知りたくなって、隣には座らないことにした。
桃の枝をどうするのだろうと見ていると、ライドウは思ったとおり、花がいくつか残っている枝の先端で川の水を裂きはじめた。突き刺して、浮かす。滑らせるように水面をかく。戯れるだけの動きは徐々に意思ある水音を立てるようになった。
小さなしぶきを立てる筆ほどの大きさ、太さの桃の枝はライドウの手にしっくりとなじむように水面を走り、流れて混じり溶け消える文字を次々と生んだ。
「なにを書いている?」
顔を見せることなくライドウは
「恋文です」
と呟いた。
「誰宛の」
「これが読める人へ」
「じゃあ俺はもらえないか」
「いえ、あなたに」
「なんだよ、まどろっこしいな」
振り向いたライドウの頬は紅梅のように赤みが差していた。陽が眩しいのか、しかめた面をしている。にやにやとつっ立っている俺は木陰ほどの役にもたたない。
傍らへゆけば不機嫌も直るだろうか。
隣に腰掛けると、ライドウは方膝を立てたままうつむき、その膝にしみこませるような言葉を落とした。
「……初めてだったんですよ。僕がなにか文字を書いているとわかった人は」
枝葉の文字が読めなくとも。
いつもにこにこ見守っていてくれる貴方に、ほんの少しの戯れを。
「夢のつづきを作るのって難しい?」
「うるさい、です」
「うそうそ。嬉しいよ、すごく。ありがと」
学帽もないから撫でやすい。
肩を抱いて「いいこいいこ」と頭を撫でると、反撃とばかりに「鳴海さんだって」ときた。責めるような上目遣いのまま俺の頬をぐにっとつまむ。つままれる前から熱があったが、なに、今日は気温が高いんだ。汗もかくさ。
川原でじゃれあうことほんのひととき。
枝葉を陽にかざすように眺めていると、鼻にぽたりと滴が垂れた。ポケットに手をつっこむ前に白いハンカチが差し出されたので、その相変わらずの気の回しように俺は苦笑しつつ、「ありがとう」とハンカチを受け取った。
「卒業、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ごめんな、間に合わなくて」
「とんでもないです。お仕事、お疲れさまでした」
「うん……」
やさしい微笑だった。とても見ていられなくて、俺は桃の花に「ごめんな」と呟いて、そっと枝葉を川に流した。
恋文と言った。
夢のつづき、そんな戯れの為に手折られた桃の花が一枚、花びらとなって散り流れていく。
最後まで空想を続けるならば、あれは紅色の郵便切手だ。
川面に綴られた手紙を、宛名のない贈り物を、俺は受け取ることができたのだろうか。
俺とライドウは桃の枝が見えなくなるまで、川の流れと、淡く霞む町の彼方を眺めていた。
「帰ろうか」
「はい」
学帽をかぶり直すその姿も明日には懐かしいものとなるのだろう。
外套にくるんだ卒業証書、少しだけたくましくなった白い背中、今度は俺がうしろを歩いている。
足跡を重ねたこと、夢のつづきを遊んでくれたこと、思い返せば胸が苦しく、涙が溜まる。
覚えていてくれるだろうか。
覚えて、いてくれるだろうか。
「ライドウ」
振り向いたお前になにを告げよう。
次の夢、これからのこと、話したいことはたくさんあるけれど。
「返事は――」
開きかけた口から飛び出す勇気もない、そんな言葉は飲み込んで、俺は笑顔でもっと別の、先ゆくお前の歩みを邪魔立てしない軽口を、慎重に慎重にひとつだけ、声音を作って選びとった。
「返事は、『はい、私もです』って伝えておくから」
ぱっと頬に咲く桃の花。
からかわれたように唇をとがらせ、無言できびすを返すその後ろ姿に、俺はにこにこと絶え間ない笑顔を寄せていた。
桜風が吹いている。
読めもしない、かたちにも残らない恋文だけれど、好意を綴ったのには間違いないから、それならね。
同じくらいに、俺も好きだよ。ライドウ。
終
09/02/17(火)