とほうもなくあたたかいなにかが指に触れた。
鳴海の腕だった。
寝返りを打ったところに彼がいた。
昨夜の情交のあと、そのまま眠ってしまったらしい。
「あたたかい」
呆としながらも冴えた目つきだ。
気づきを含めた呟きを落とすと、鳴海の肩が、もぞと動いた。
上掛けにもぐるように丸めた背中を、ライドウは呼気も静かに見守っていた。
しとしとと雨が降っている。音に誘われるようにもう一度眠りに落ちる寸前、背を向けていた鳴海が、後ろ手にライドウの手首をつかんだ。位置も探らず、ぶっきらぼうに。
「寒くないか」
「あ、の」
「もっとくっつけ。風が入るんだ」
「はい」
言われるままにもそもそと彼の背中にくっついた。
首筋に当たる鼻息がくすぐったくないだろうか、ライドウはそんなことを思いながら、湯たんぽよりも優しい彼のぬくもりに身を寄せた。いっぽう、毛布を羽織るようにライドウの腕を腰に巻いた鳴海は、指の合間や手のひらのなめらかな肌触りを楽しんでいた。
「緊張してる?」
「少し」
「急に手のひらが汗ばむんだもんなぁ。なのに体は冷たいし」
「あの、もう離してくださっても」
「こっちのほうがいいか」
鳴海は言うとおりに手を離した。
そして向かい合うように寝返りを打った。
ずっと前からそうだったのだろう、ライドウの顔を見て鳴海は「はは」と笑った。
「赤くなってら」
意図せず眉が下がってしまったので、ライドウは上掛けにもぐりこんで、避難した。隠した顔を追って鳴海もベッドにもぐりこむ。白いシーツが芋虫のようにうぞうぞと動いて、ゆっくりとなった。キスをしていた。
吐息や蜜声が漏れだしても白い生き物はその姿を変えようとはせず、ベッドの上で不思議な動きを見せていた。心騒ぐようなあやしい運動を繰り返したあと、妙な生き物はぴたりと止まり、中からもじゃもじゃした茶色い頭を吐き出した。
「あっつい」
生まれたてのように上気した汗びっしょりの男を見て、少年は息も絶え絶えにくすくすと笑った。
こちらも汗をたらたらと、極めて淫靡にかいている。
「そんなに笑うなよ」
「ごめんなさい。でも、おかしくって」
「元はといえばお前がさぁ」
「なんです」
「……かわいいから」
嬉しそうに頬を赤らめて、ライドウは両腕を広げた。
迎え入れられた鳴海は白い生き物に身を変えることなく、もそもそと少年の肩や首筋に幸福のキッスを降らせていた。「ん」とライドウが身悶えた。何かに気づいたように彼の両肩を押し退ける。
「なに」
「あの、ゴウトが」
鳴海は部屋を見回した。黒猫の姿はない。
「ちょっとくらい、大丈夫だろ?」
「でも」
「収まりつかないくせに、なんだよ何をいまさら」
「怒られま、す」
息を詰めるような悲鳴が漏れた。鳴海が黙らせるように少年の濡れ立ったそこを掴み上げたのだ。
空いた指先をつけ根から太股の裏までざわざわと波立たせるように這わせてゆく。
うつむき恥入るライドウの耳元に唇を寄せて、なにごとかを囁いた。
意地の悪い快楽を堪え忍ぶために、ライドウは彼の肩にしがみついた。
要求の受け入れと見た鳴海は少年の身に覆い被さった。
ライドウは遠い眼差しで窓の外を見た。
下腹部に鳴海の舌が這う。その快感はまるでぬるい雨に降られているようで、視界から得られる外の景色と合わさり、室内にいながら裸身を外気にさらしている妙な感覚に陥った。
息も荒く、ぶるっと震えたあと、吐精した。
それから、性交に夢中になった。
鳴海を喜ばすように彼の体にぺちゃぺちゃと舌を這わせ、刺激するように肌をこすりつける。
鳴海も応えた。
少年に甘い声を上げさせて、快楽による痙攣を起こさせるのに我を忘れた。
突き上げに至っては何も考えることをせず、お互いが気持ちよくあれるように体勢をそれぞれに変え、情熱的な挿入と締め上げ、それに止めがたい抽送を繰り返した。
睾丸をきゅうっと収縮させ、遠慮もなにもなく精液を内に注いだ鳴海は、汗まみれの顔をライドウの肩に埋ませて、大きなため息をついた。声に後悔がこもっていた。
泣いてしまった彼の頭にライドウは優しく手のひらをかぶせた。
肩を、頭を撫でて、かばうように抱きしめる。ぬるい腹痛も今は気にならなかった。
雨が降っている。
風呂上がり。
ズボン一着を身につけた鳴海は、首にかけたタオルで頭を拭きながら「明日だっけ」とライドウに尋ねた。
「はい」と声がした。
ライドウはゴウトにさばの味噌煮を出していた。
少年の髪の毛も濡れていて、服装は白のワイシャツを慌てて着込んだ風だった。
黒ズボンに裸足という格好でライドウは冷たい板の間を歩き、鳴海のワイシャツを手に取った。
背後から近づき、彼のためにシャツを広げる。
鳴海は当たり前のように袖を通した。
彼がボタンをはめる間に、白いタオルはライドウの脇にはさまれ、代わりに用意されていたネクタイが鳴海の首に掛けられた。
のどを反らすのも、ライドウが結わえたネクタイの微調整も、いつのまにか大切なパターンとなって鳴海の内に存在するようになっていた。
少年の濡れた前髪から雫が垂れるのを見て、彼は腋にはさまれたタオルを手に取った。
冷えた頭をかばいこむように少年の髪の毛を拭き上げていると、徐々にその指の動きが優しく、寂しいものに変わるようになり、それをずっと見ていた鳴海は、とうとう動きを止めて、腕をだらんと垂れ下げた。
力ない声でひとこと、「ここにいろよ」。
虚脱感がひどいのに重々しい響き、鳴海は腹の底からいやになった。
頭に白いタオルをかぶせている少年が、ひとり、立ち尽くしている。
敗北を思わせるうなだれた姿に誰よりもいやと思ったのはライドウであり、彼はタオルを外して、何にも負けぬという面立ちを彼に向けた。
ひどくさっぱりとした顔でひとこと、「なにか、僕にできることはありますか?」と尋ねた。
鳴海は両手をズボンのポケットに入れ、首を傾いだ。いつもの冗談めいた表情で。
「電話してくれ」
はは、と少年は笑った。
手紙でないのがあなたらしいです、と。
その瞳が真剣だから、あまりにも現実を見据えていたから、こわくなってしまったのを隠すために、少年は笑った。
うん、と鳴海は微笑んだ。
「つらくなったら、いつでも呼んでくれ。
俺がかばってやるから」
雨だれのように大きな雫が瞳からこぼれた。
震える唇を覆う手も、頬を拭う腕もなにもかもが頼りなくて、ライドウは熱く凍えるため息を吐いた。
笑おうとしても悲鳴のように涙が流れる。
「ず、るいんです、よ」
いつもいつも、とライドウはがたがたと震えた。
「順番とか、段階とか、色々あったように思えるのに、そうやってすぐに、距離をつめる」
鳴海は責めるように見据え、笑っていた。
ポケットに入れた手が握りしめられているのを、ライドウは知らない。
「優しくして、どうしようって」
「うまくいってると思った」
「見たくなかったのに、そんなあなたは」
「たまに見せるから効く。人の真剣な部分は、怖いだろ」
「僕にそんなことをして、どうなりますか。なにも変わりませんよ、ここを発つのだって」
「お前だからだよ」
お前だから、そう言って鳴海はライドウを抱いた。
声に含まれる寂しさに負けた。なによりも、抱きしめる腕の力の悲しさに。
もっと前から向き合っていれば、軽薄さにごまかされなければ、なにより直感でわかっていた彼の真面目さを、熱さを、優しさを素直に受け止めていれば、こんなことには。
黒猫は足音もひっそりとそこを離れた。
衣擦れの音がして、ふたりは口づけた。涙の味がした。
「ごめんな」
ベッドの中で、鳴海は謝罪した。
いつまでも少年を未練がましく求めることに、それがこんなかたちでしか表せられない自分の行為に、肌を触れさせながら謝罪した。
それはライドウも同じことで、彼の肩口にこすりつけるように首を振り、否定する。
繰り返すこの行為を、出逢ったときからずっとずっと、寂しく──心地よく。
甘い時を過ごしていることはわかっていた。
感傷的な気分を楽しみ、身を繋げる行為にためらいを抱かないこの環境を、どちらもさとく利用していた。
気持ちよかった。
腎炎を起こすのではないかという心配事は精液をさんざ迸らせたあとで巡ってきたが、それでも互いの性器を触ることをやめられなかった。
苦痛に耐えてわずかばかりの絶頂を味わう。
そしてまた胸を、腹を触り、求め合う。
顔を見るたびに恋慕がつのり、新たなかたちに組み伏せてしまう。
どちらの行為も、ただただ受け入れていた。
窓は曇り、外が見えない。
雨音も聞こえない静かな部屋で、深く永く、愛し続けた。
腹筋もあらわな少年の下腹部に射精して、鳴海はびくびくと震える彼の隣に倒れ込んだ。
汗やよだれにまみれた体ではぁはぁと息をきらし、ふと横を見れば、同じように汚れた体の少年が口で息をしている。こめかみに目がいったのは、たまたまだ。
子猫をかまうようにやわらかく曲げた人差し指で、その涙か汗かはわからない頬を濡らすなにかを拭うと、ライドウは白い息を吐いて――外は雪が降り始めていた――鳴海を見た。
「あたたかい」
ようやく出逢えたという風に、ライドウは震える両手のひらで鳴海の右手を包み込んだ。
寒さからかばうように吹きかけた吐息は手のひらと同じく震え、わずかにあたたかい。
こぼした涙はこめかみにまだ近い彼の手指をぬくめ、そして濡らしていった。
震える吐息に喜びの涙。とほうもなくて、鳴海はこのまま死にたくなった。
「なにかしよう、とはいつも思ってるんだけどさ」
「えぇ」
「考えて、考えて、いつもたいしたことはできないんだ」
「そう、ですか」
「……お前は、どうだ?」
「だいたい、同じだと思います」
「そっか」
「えぇ」
風呂にも入らず、上掛けと毛布にくるまったふたりが、深雪が生む静けさのなかで話をしている。
「後悔はするか?」
「少し」
鳴海はライドウの前髪を梳いた。
長く確かな指の感触が気持ちよくて、ライドウは寝入るように瞳を細めた。
「これは……人に関してのことだけどな。俺なりの助言」
鳴海は自信なさげに視線をあちらそちらへとさまよわせたり、頬肉を舌で丸く突き上げたりしながら「うん」と言葉を練った。
「つまりさ、あれこれ考えを巡らせられる相手がいるってのは、幸せなことだなって思うんだよ。
どうしよう、こうしようって、結果がかんばしくなくても、その、なんだろうな……」
「祈るように」
「そう。って、あれ?」
「初めて聞く話ですが、僕にも、なんとなくわかる気がします。相手を想うこと、それがすでに自分の身に生まれた幸福なのだと……」
「なんだ」鳴海は気恥ずかしそうに指をどけた。「いらないこと、喋っちまった」
「いらなくはないです」ライドウは肘をついて身を起こした。「鳴海さんがそう仰ってくださったのは僕にとってはすごく貴重で大事な」
「ライドウ、寒い。もぐれって、早く」
不服そうに頬を膨らせていたが、ライドウはもそもそと鳴海の肩口にもぐりこんだ。くっつけた顎が冷たい。どちらの身体も冷えていた。
ライドウの、どこも見ない眼差しが陰ってゆく。
「……お前だから、とは」
「ん」
「やっぱり、いいです」
鳴海もそれ以上は聞かなかった。
尋ねられたところで答えられない。それは少年もよくわかっていることなのだろう。
ごまかすきっかけを作るように、ライドウは「お風呂に入りませんか」と声をかけた。
優しい提案に彼も乗った。
もしかしたら、長く居る時間を作ることで、今度こそ深く通じあえるかもしれない。
シャツを着るように、ネクタイを結ぶように、あれは確かに心地よい関係だったから、せめてあともう少し。
雪が降っている。
積もり積もって、ここを発つ日が延びればいいと、
早く止んで、明日の行く道がきっと楽であるようにと、
どちらかが祈った。
終
09/01/30(金)