MEMORIES

 遠めがねなんてものがどこにあったのか。
 ふたつある。
 星を見るのにちょうどよい長さだ。
 肘から手首までの身の丈で、みっつの銅色の筒が星へ近づくほどに太くなって繋がっている。
 覗き込む側はキセルより一回りほど太く、目のかたちにちょうどよい丸みを帯びていて、指先になじむ円形をしていた。これなら長時間でも星を眺めていられる。永久のような遠い光も、白い夜のような過去の眩しさも、レンズを通して心に映る。
 指紋で磨かれたのだろう、ぴかぴかの、けれど誰かの宝物のように古ぼけた側面には、こんな焼き文字が為されていた。

『memory』

 ふたつあるのだから、のぞきこむほうもふたりいる。
 ひとりはそれこそ空を眺めるように、空いた片手で膝を抱えて、もうひとりは斜形の原っぱでゆるやかな川の流れをぼんやりと見ているように、片膝を立てて。
 それがなぜか背中合わせなのだ。
 見えない壁、透明な何かにもたれかかるでもなく、ふたりはそれぞれとは異なる位置にある星を見ていた。
『まるで』という言葉がいる。見ているのは星ではない。
 ともかくふたりは座っている。双子のように、Mという文字のかたちのように、視線は別々のものを追っている。その背中はぬくもりを感じているのだろうか。
 時折触れ合う程度、こそばゆい位置にいても、離れたり、くっついたりも、しない。
 彼らは遠めがねを通して何かを見ていた。

 黒縁の円の中に見えるのは一人の少年の立ち姿。本棚から一冊の辞書を取り出し、机に置いてあるノートに文字を書き込んでいる。薄いページを繰る音が聞こえない。このレンズはものが見えるだけだ。くっきりとしている。
 それがふいにぼやける。少年がこちらを振り向いた時だ。誰かに気がついたように慌ててノートをどける。その机は少年が見ている人物が所有するものなのだ。『すみません』と開く口がかろうじて見えるくらいに、いくら目をこらしても、少年がこちらを向いている間はずっと曇り硝子がはめ込まれているように、黒縁の中は白くぼやけていた。

 遠めがねをのぞきこんでいた少年は、つぶっていた左目のしわを幾数か増やした。眉間の肉が若干盛り上がり、眉の角度が山を作る。片膝に置いた手が少しもどかしそうに黒ズボンの生地を掴んだ。汗ばんでいる。

 その少年の肩越しから見えるもうひとつの遠めがね。
 男の右目にあてられた銅色の筒は、黒縁の中にその男本人の立ち姿を見せていた。

 人差し指くらいにしか映っていない遠くの男は、川縁で心迷うように立っていた。町の中で物思う彼は、時々、帽子をかぶり直す。水面を鏡代わりにしているようで、実は自分のことなど少しも瞳に映していないようだった。見ているのは自分の過去だ。この黒縁に見た人物にはそのことがわかっていた。レンズの先の光景が微かに上下する。徐々に彼は大きく、近くなっていく。風を感じるように走ったその眼差しは、途端、彼の顔を見なくなる。手で触れたらぬくもりを感じるだろうやわらかな円を描く彼の肩しか映らなくなった。
 わずかに見える彼の唇。

『気をつけてな』

 動きはそんな言葉を発していた。


 立てていた片膝がぐにゃりと横に倒れる。男は左手を床についた。肝心なところが見えなくて苛立たしいような、がっかりしたかのような、そんな面もちで唇を下げる。ため息までついた。けれど遠めがねを見るのをやめない。左目はゆるく、鼻筋の脇に年相応のくぼみを作ってつぶられている。

 また、ふたりはこんなものも見た。
 お互いの性器だ。小便器に向かっている時だろう、ちょっと下方を向いたその視線が、あまり見たくもないものを互いに見せた。
 少年は言った、「見ないでください」と。
 慌てたように、若干頬を赤らめて、それでも後ろを振り向こうとはせずに。

「なによ、男ならあるものが見えてそれのなにが恥ずかしいの」

 少年は口を塞いだ。絶対に見られたくない記憶でも思い出したのか、針に通すこともできなくなった糸のように口元をよじらせ、波立たせた。顔は赤土にも似て暗く熱を持つ。
 男はわずかに肩を張るように持ち上げて、レンズを覗き込んだ。そして「あー」と言った。

「お前、想像だけで出来るんだ」

 男の背中が少年の肘打ちを受けた。短刀を差し込むごとき速さの一鉄だった。
 一撃を喰らった側は、冗談めいた呻き声を上げてくつくつと笑う。


 また、ふたりはこんなものも見た。
 お互いの手だ。それはほんとうに頻繁に見た。どの黒縁の中にも必ず見えていたのが、少年の若武者のごとき瑞々しさとたくましさに溢れた骨までもかたちのよい美しき両の手と、男のタイプライターを打つ手。煙草に火をつける時に見えたやや乾燥した手。万年筆を持つ手。マッチパズルをいじくる楽しそうな指先。爪を切る時に見えたのは、血管と関節の浮き出る節くれだった高高指。見惚れるほどの大人の男の、掌(たなごころ)。

 男は閉じている側の眉をかすかにひそめた。
 まるで目の前の現実から目を反らすように。
 背後から否応もなく寄せられる想いを無視するように。


 遠めがね越しの少年は振り向く。何度も何度も。
 レンズはその度にぼやける。
 少年の顔よりも遠くの景色にピントを合わせる。確かに黒縁の中にあるのに、少年は、ほとんどはっきりとしたかたちを表さない。きれいに見えるのは少年の背後にある扉の向こう側だけだ。窓から覗く空はあんなにも青く高いというのに、この遠めがねはまるでほんとうに星しか映さないようなもの。そこにある美しさを無視している。

 遠めがね越しの男は振り向く。何度も何度も。
 レンズはその度に彼の顔を映さない。
 黒檀の机の傷へ焦点を合わせたり、脇にある珈琲カップを見つめたり、とかく彼を真ん中に置いて見ようとはしない。主役は彼ではないように、けれど画面の端々から決して逃すまいというように。巡り逢わない想いを表して瞳は星へも向かず、どこへゆくのか。
 そこはあたたかい光などないところ。


 男は言った。

「お前って俺のことを見ないんだね」

「鳴海さんも時折、近眼になられるようです。眼鏡を誂えませんと」

「まぁ待てよ、もうちょっと……確かに見た覚えがあるんだよ、お前の顔をもっとはっきりと……」

「僕だって、あなたのことを見た覚えが……確かに、あると……」

 少年は緑色に光る右目の闇を休めるように、あるいは寂しさに沈み込んでしまうように、少しく遠めがねをずらして呟いた。
 男はその呟きを無視して背後で「あ」と言った。

「あぶねぇ。やられてる、うわ痛そう」

 男が見たのは悪魔の爪先だった。頬をかすめてゆく凶器が目前に血しぶきをまき散らしたのだ。ほとんど赤と銀の線にしか見えない光が激しく斜めに流れたあと、次にはもう悪魔の腕が宙に浮いていた。少年の太刀筋はたとい視界に映らなくとも、気配のみで相手の居所を察知し、襲い来る悪魔の腕をたたっ斬ってしまう。
 とどめを刺される悪魔の腹。白刃が深々と刺さり、筋肉が収縮する間もなく引き抜かれる疾風の突き。
 弓なりに振るわれた刀。足元に血が払われる。少年は斃れ伏した悪魔を元居た異界へ消え去るまでの間、ずっとクリアな頭で見据えていた。

「よく怖くないもんだね」

「何を仰っているのかよくわかりません」

「こんなさ……いや、まぁ、いいや。お前はこんなこと日常茶飯事なんだろうから、今さら俺がどうこう……」

「あ」とまた言った。
 遠めがねを持つ手に力が入る。床についた指先から身を乗り出すようにして、鳴海は少年の目線を追っていった。

 探偵社のドアを開ける。
 室内を、デスクを見渡す。
 そこまではいい。けれど男の部屋のドアへとまっすぐに歩んでいく。
 遠慮がちに、静かにノブを回す。
 開けた。中は暗い。今は夜なのだ。
 視線はかすかにも上下しない。
 ベッドに横たわる彼を見るまでは。見下ろすまでは。

 ぞっとするほどに美しく見えた。
 自分の顔なのに、これはただの寝顔なのに、少年の目を通すと、自分はこうも美しく映っているのか。
 ゆるやかな波を打つ髪、すべらかな額、伏せたまつげの長いこと。
 すっと通る鼻梁に続く唇のふくよかさ、顎の端正な顔かたち、規則正しく上下する自身の胸部……


 けれど起きていた意識。


 誰かが室内に入ってくれば、否、かすかな物音を聞いただけでも覚醒する因果な身体。
 レンズから覗いていた自分の姿が、じわり、透明な幕を降ろしたように滲みぼやける。下方にたまる波。ぽたり。音が聞こえるように落ちた雫。それは下まぶたに近い頬につつと流れた。白い視界で彼が目覚める。


 少年の膝頭はとうに赤みを帯びている。ぎゅうと握りしめた手指は、今、彼がのぞきこんでいる視界のごとく白くなっている。
 少年も遠めがねの先をじっと見ていた。あの時と同じく、息を止めて。
 泣いている自分がいた。うつろな瞳を彼の顔へさまよわせて、ただその目元のみが見えた。口元を見ようともしない彼。寝起きではない夜目に長けたくっきりとした視界で、下まつげが濡れ光っているのがよくわかる。


 あぁ、この人はやはり眠ってはいなかったのだ。だけどこんな狭い世界でしか僕を見てくれていなかった。


 半ば閉じられそうになっている自分の目を、影の降りた鼻筋を、かすかに見える天井を。
 僕の記憶が確かならば、彼はしばらくして思案するように目をさやかに開いていた。
 けれど、これは。
 この闇の濃さはなんだ。
 この人は何を見ていたのだ。


 俺はこんなにも目を開いている。
 ようやく小粒になってきた涙の雨を、じぃっと見据えているその瞳。
 あの時の思考と同じような一本の線のような唇。何も言わない下唇のふくらみにできた影。


 ライドウ、お前はこんなに俺のことを見ていたんだな。


 だけどな、俺は――


(指先の記憶が甦る)


 黙って見ている他なかったんだよ。


(下げた眉。閉じた瞳。開かない唇。俺は今見つめられたらそんな光景をレンズに見るだろう)


 お前の心を見ないように、自分のまなこに黒縁をかけてな。
 なぁ。泣くな。泣くなよ、……


 あのまま彼は瞳を閉じてしまった。
 眠りから覚めて、またすぐに規則正しい呼吸を始めた。
 僕の目を――いや、僕の周囲を、狭い世界を見ていた時は息も止めていたというのに。
 真っ暗だ。何も見えない。心にも映っていない、僕の姿はどこにも。


 少年は左目をうっすらと開けた。
 遠めがねは離さなかった。
 暗く閉じられた世界が再び見えるようになるまで、少しでも楽な姿勢で待っていようとするように、体育座りだった座姿勢を崩した。
 背中にいる男と同じような、少しくくだけた脚のかたちになった。濃緑の茂る淡くも透明な木漏れ日の下陰、遠くの鳥を見る少年のように。


 鳥はいた。
 夕焼けの中に群れをなして篝火華のような斜陽を浴び、朱の森へと帰ってゆく。
 黒縁も赤く燃え焦がすような、寒々しくも鮮烈な夕映えの空。

『ゴウトもあそこにいるんじゃないか』

 少年の記憶が甦った。
 あの時、あの坂を上っている時、背後の彼はそう言ったのだ。
 見なくても覚えている懐かしき軽口。

 坂道だった。
 少年の通っている学校が、曲がりくねった坂の上の、高台にあった。
 一緒に歩いていた。年のせいか、同じ歩幅で歩いていたはずの彼が徐々に後方へゆき、自分だけが先を歩いていた。もしかしたら後ろの彼はもういないのではと思っていた。

『ストップ』

 そう、そう言ったのだ。
 僕は振り向き、


「あ――」


 心打たれたのだろうか。銅縁がかすかに揺れた。
 彼は見ていた。
 少年の振り向くのを、じっと見ていた。いや、今までにも見ていた。
 背中を。記憶の内に入り込んで見過ごしていても、映像はずっと少年の瞳に流れていた。
 視界は細められていて、けれどそれは夕焼けが眩しいからだと信じて――信じるつもりもなかったのに、そんなことを自然に思って――。

 光も星の煌めきも、人ひとりの眼差しにはかなわないと、輝きと共に伝える遠めがね。
 レンズ越しではなく、あの時、全てが静止するほどに見つめ合った記録。

 黒外套が丹色にも似た陽に染まり、揺らめくのを見ていた。
 今触れ合わせている背中を通して、心まで見つめているかのようでそれを喩えるならば。


 いとおしさ。


 振り向いた時に見た彼の細められた眼差しは、眩しさのものではなかった。
 遠めがねを通して鳴海は苦笑した。
 こんなにも微笑っているとはどうしたことだろうねと、自分で自分がおかしくなった。


『あそこにはみ出している紅葉があるだろ。あそこまで競争しよう』


 鳴海の指差す先は高台のてっぺんにある紅葉の群落。
 はみだしているのはとりわけ大きな楓で、石畳の高地から町へと橋をかけるように、唐紅の落葉を秋風に揺らしている。学校はあの茜色の木々に隠れているのだろう。


『競争とは?』

『ほら、ここから先、坂道が二股に分かれているだろう。どっちもあのてっぺんまで辿り着くコースなのは知ってるよな』

『ええ』

『お前はそっち。俺はこっち。どっちが早く着くか、競争だ』

『だから、どうしてそんな』

『よーい』


 走り出した背中を見て、男はとうとう笑い声を漏らした。
 遠めがねが走る馬を追うように前へと移動する。乗り出した身から離れまいとする少年の手が彼の手を後ろ手に掴んだ。彼も握り返した。わざわざ遠めがねを持つ手を左手に持ち返して。

 少年は今、あらゆることを思い返していた。
 もう遠めがねからは、彼の駆けてゆく慌しい映像しか見えない。伸びる影。陽にやられて、緑に染まる視界。紅葉衣の中をかき分けてゆく子供のように走る、走る、その輝き。
 彼は泣いていたのかもしれない。勿論、悲しいのでもなく、眩しいのでもなく、走るときに受ける茜の風に目をやられたと思うから。きらきらと下まぶたが濡れ光っている画が黒縁の端に見えたから。
 その時には僕も走っていた。

 どんな顔をしている?

 鳴海は今、別々の道を選んだことが残念でならない。
 きっと後ろにいた少年は笑っている。
 風を受けて、わけもわからない挑戦を受けて、鮮紅の光を身に受けて。
 秋の色が混じりあった落葉の景色、石畳を蹴って、駆け上って、自分よりも数段速い脚を持つ少年の表情が見えないことが残念でならない。追い抜いて、振り返ってやりたかった。負けず嫌いのあいつの顔が拝めただろうに、俺は今こうしてあの時の鼓動を抱えて思い出を見ている。


 負けるな。
 そうだ、走れ。
 もっと早く、拳くらいに飛び出して。
 あぁ、坂の終わりが見える。赤い木の葉と翳る梢が丘に見える。
 先に辿り着いたのは――

 鳴海は太陽から覗く町並みを見下ろしていた。
 まるで浄火と化した陽が古都を照らしているように、突然に開けた世界は美しかった。
 息ひとつ乱れていない現かな視界が崩れたのは、しばらくその光景に魂を奪われてから。
 足元に散った紅葉が目前に来た。体勢を整えて、手すりを掴んで振り返る。

 男の顔がそこにあった。






 少年は物思う星読み人のように、静寂のさなか、光を生むその黒瞳から遠めがねを離した。時計がある。銅縁色の思い出ではなく、今を刻む古ぼけた時計があった。午後5時を指している。たもとに沈む静けさ。針のない円筒。
 うつむく顔。下げた眉。けれど何ものにも代えられない清々しさが、黄昏よりも強く口元に表されていた。

「鳴海さん」

 今ならわかる。彼の狙いがレンズを通してはっきりと見えた。
 背中のぬくもりが離れてもかまわないほどに、あるひとつの事実が少年の心に熱く届いていた。
 左肩にかかる重量。両腕を包み込まれるあたたかさ。
 あの時もこうして、彼は背後から少年を抱きしめた。「遊ぼうよ」といくつになってもじゃれつく犬みたいに飛びついて。振り返った少年の驚く顔を見て、ちょっと笑ったあと、顎を肩に乗せてきたのだ。いかにも満足したように。


 笑っていた。
 走っていた時も、誰もいない丘の上へ先に辿り着いた時も、彼が驚かすように抱きしめてきた時も。
 夕日が彼の髪の毛をやわらかく照らしていた。いい匂いがした。日の名残が彼の思い出にいつまでも残ればいいと、心から素直に願った。
 それから何も見えなくなるくらいに笑った。
 あの人がわざと途中でペースを落としたことも知らずに、ただほんとうに勝ったことが嬉しくて、子供のように笑っていたのだ。
 再び巡り逢えたことを彼から祝福されているようで、まるで歌うように彼も笑っていて……。


『楽しいです』


 少年は瞳を伏せた。
 今抱きしめられている身体を片腕だけ動かして、彼の腕(かいな)を指先ひとつで包み込もうというように。

 彼はすり寄るように頬をずらした。ひげの感触がおかしかった。耳元で囁かれる言葉がこんなにくすぐったいものだなんて。


「お前って俺のことを見ないんだね」

「鳴海さんも時折、涙目になられるようです。目医者へ参られませんと」


 どちらの声音も優しい。
 唇で愛撫するようにくすくすと焦らしあう。
 やがて音がくぐもった。身をずらした少年が彼のくちづけを受けたのだ。
 抱擁はやまない。あたたかさがそこにある。




 遠めがねがふたつ、床に転がっている。


 終
 07/03/05(月)