hole to the moon

 朝目覚めると、ベッド脇の床に穴があった。
 もぐらが十匹くらい集まって同じところを掘った大きさだ。ジャックフロストの頭なら楽々入るだろう。
 鳴海はぼんやりと穴の上に両足をぶらつかせながら考えた。
 あぁ寝相が悪かったら大変なことだ。ベッドの上から落ちていたら、今頃腰まですっぽり埋まっていたのに違いない。
 真っ黒な穴を呆と見て、「おーい」と呼びかけた。返事はない。
 とにかく飯を食べよう。穴を避けて部屋から出た。


「今日こういうことがあってな」

「鳴海さんと一緒だとほんとうに退屈しませんね」

「俺が原因か?」

「どうでしょう。僕の部屋にはそんなものありませんから」

 大根の浅漬けをぽりぽりと食べながら御座なりに流す。鳴海は玄米茶をすすり、「とにかく俺の部屋までこいよ。なんとかしてくれ、お前デビルサマナーだろ」と、少年の立場も考えずに適当なことを言った。

 朝食も終わり、ふたりはベッド脇の穴の前でしゃがみこんだ。ライドウは仲魔から報告を聞くポーズでじっと真円の穴を見つめる。

「なんか見える?」

「夜目は利くほうですが……別になにも」

「ちょっと、仲魔を使いに出して穴の中を探らせてみろよ。深さもわからないから飛べるやつな」

 穴の大きさも考慮して、ジャックランタンが呼び出された。闇夜にも慣れているから大丈夫だろうとの考えである。ランタンの明かりが入っても穴の中は相変わらず真っ暗なままだ。中まで黒いのだろうか。

「二階に出る、なんてことはなくなったな。どう見てもこれ、人為的なものじゃないよ」

「さて……どこへ出るのでしょうね。行き止まりかな、それとも小判でも見つかるのでしょうか」

「金欲しいよなー」

「ですね」

 のんびりと待った。
 ジャックランタンの頭が見えなくなって五分後、ランタンの明かりがぽうと視界に映った。ひほーと声がする。

「おかえり」

 ライドウは両手を差し伸べてジャックランタンを出迎えた。彼は嬉しそうにカボチャの肌をすり寄せる。

「なんだかデコボコした地面に出たホー。そんでもってお星さまがきらきら光ってたホー」

 こんぺいとうに似ていたから手を伸ばしたけれど掴まえられなかったとジャックは言った。

「普通に、僕たちも行けそうな場所だった?」

「たぶん大丈夫だと思うホ。ランタンの明かりが消えなかったから、気持ち悪い場所じゃないと思う……ホ」

 最後は首を傾げながら言った。いまいち自信がないのかもしれない。

「鳴海さん、ロープはありますか」

「ヒホ。必要ないホ、穴に入ればすぐにデコボコが見えたホ」

「結構長い間帰ってこなかったじゃないか」

「だって久しぶりにお外へ出たから」

 ぶらぶらしてたホーという悪魔を咎めることはせず、ライドウは管を取り出した。ジャックはぴゅうと逃げようとする。が、鳴海が短いマントを子猫の首を掴むように簡単に捕まえた。

「ニンゲンのくせして何するホ。地獄に落ちるホ、もじゃもじゃ」

「今からその地獄かどうだかわからんところへ落ちてみるよ」

 ヒーホーと名残惜しい声を残して仲魔は管に戻った。その管を胸の白ベルトへ入れ、ライドウは外套も羽織らずに穴へ片足を入れた。一応、刀を脇に携えている。

「お前が先に行くのか?」

「ええ、もし危険なところならすぐに戻ってきます」

「俺が先に行くよ」

「行って参ります」

 おい、と押し止める声も無視して、ライドウはまるで小石が水の中へ沈むように穴へ落ち、すぐに頭まで見えなくなってしまった。
 もっと穴が広かったらふたりして行けたものを。鳴海は縦長の穴、垂直に人一人分しか入れない穴を、少しだけ恨めしく思った。

 鳴海は立ったり座ったり、頭をぼりぼりかいたりして、せわしなく落ち着かない面もちで待っていた。唇がへの字だ。
 やがて穴に向かって「おーい」と声をかけた。「はい」と返事があった。

「どうよ、そっちは」

「とても……なんというのか、美しいところです。静かなので連絡も忘れてしまいました、申し訳ありません」

「俺もそっちに行っても大丈夫そうか?」

「はい。お待ちしております」

 というわけなので、鳴海はダービーハットをぽんとかぶって、穴へ入った。
 泥棒が窓から飛び降りるように躊躇無く。

 そこは月面だった。

「うわうわうわ、何これ。なんなのよこれ」

 鳴海は音もなく穴から出た。途中からどうひっくり返るのか、頭から向こう側へ、もぐらが顔だけ地表へ出たような状態で星空を見上げたのだ。
 ライドウが膝をつき、鳴海に手を差し伸べた。その手を掴むと、なんとなく懐かしい気持ちになれた。安心するようなあたたかさだった。

「よっこいせ」

 腰に力を入れて穴の中を蹴る。その反動で少年の懐へ転がり出た。尻餅をつく体勢で鳴海の全身を受け止めたライドウは、いつものとおりの無表情で、とはいかずに、やや頬が赤くなった。

「すげぇな、この光景」

 そんな少年を気にもかけずに、鳴海は手のひらについた石粒を払いながら、さっさと立ち上がった。少年もそれに続く。
 鳴海が見ているのは天の川と呼ばれる銀河と、紫色にけぶる霧のような何かだ。足裏のごつごつとした感触を確かめるように、何度も檸檬色の大地を踏む。靴はふたりとも履いてきていた。
 地表が丸い。つまり、見渡す限り地平線だ。それがゆるやかなカーブを描いている。向こう端まで行ったらとてもこの穴のところまで戻ってはこれまい。目印がないのだ、何も。

「ここ、どこだろうな」

「おそらく」

 少年は言った。ここは月だと。

「あのお月さんか? こんなでこぼこしてるところなのか、月ってのは?」

「アカラナ回廊で様々な未来を見てきました。人類は月や火星まで到達して、そこでまた開拓を進めるのです。
 宇宙を記録した写真も少し……記憶が確かならば、この地平は月を写したフィルムとよく似ています」

 鳴海は心底感嘆したように「へぇー」と言った。

「いいなぁ、お前ばっかりそんな珍しいものを見て」

「鳴海さんも行かれますか? 未知の悪魔が跳梁跋扈するあの時間軸の世界へ」

「遠慮するよ……俺、お前みたくがんばれそうにないもん」

 よくやったよなぁと、思いがけないところで褒められて、ライドウは少しうつむいた。
 別にがんばったつもりもないのに。
 悪い気はしないが、聞き慣れていない褒め言葉を面と向かって告げられると、どう返していいのかわからない。
 つまりこれは──いつもの軽口だ。少年はそう思うことにした。

 今はそれよりも気になることがある。ライドウが視線を戻すと、鳴海は亡羊の嘆のまま背筋を反らし、あたりを見渡していた。

「……で、これからどうしようかねぇ」

「あの」

「うん?」

「鳴海さん、ここはほんとうに月なのでしょうか」

「え? なんで?」

 さっきはああ言ったくせに、という顔に向けて、ライドウは「ええ、でも」と酌み答えた。

「九十九博士が仰るには宇宙には空気がないと……でも僕たちは普通に息もしているし会話もできる。真空状態では人は生きていられないというのに」

「お前はつまらないことを気にするねぇ」

 鳴海は両腰のポケットに手をつっこみ、てくてくと歩きだした。慌ててライドウが声をかける。

「鳴海さん、あまり遠くへ行ってはいけません」

「わかってるよ。不安になるなら、なんかどでかい悪魔でも呼び出してその穴のところで待たせておけよ。いい目印になるだろ」

 少年は少し戸惑ったが、ややして「それもそうか。他にできることもないし」と思い、大天使サンダルフォンを召喚した。身の丈で言えばライドウが呼び出せる悪魔の中で彼が一番大きいだろう。

「銀楼閣ぐらいの大きさになって、ここで待っててよ」

「承知した……が、いつまで?」

「もし僕たちが見えなくなって長い間ここへ戻らなくなったら、飛んで探しに来てほしい」

「我の判断に任せるということか」

 更に大きくなれば済むことだ、飛ぶまでもないがな、と言いつつ、彼は大きな手を振ってライドウを見送った。妙に人間くさい。しかもいい部類の。
 ライドウは鳴海の後を追い、音もなく足早に駆けていった。もうすでに彼の白い背中は影も踏めなくなっているほど遠くにある。

「お、見ろライドウ」

 追いついた少年のほうへ振り向きもせず、鳴海は自分の足元を見ながらなにかを蹴り上げた。ぼろりと月面が削れた。だいぶもろい。
 彼はしゃがみこみ、転げた石を拾い上げた。感触がやわらかい。

「なんか食べられそうじゃない?」

「確実にお腹を壊しますからやめてください」

「チーズっぽいじゃん。ほらこんなに黄色いし」

「そんなイキイキした顔で見られても」

 口に運ぼうとする鳴海の手首をがっちりと押さえ込み、ライドウは無言で首を振った。なんとも必死だ。
「ちぇっ」と不満顔で石を手放す。すぐには落ちず、宙を漂い流れていった。

「どうしたんですか、妙にはしゃいで……いつも退屈そうなあなたとはえらい違いだ」

「そうかな?」

 だって遊びたくなるじゃん、こんなところに来たらさぁ。
 鳴海はそう言って勢いよく伸び上がった。そのまま宙に浮き上がりそうだ。実際、靴が地表から3センチほど離れた。

「ライドウ! ライドウ、ふわふわする、ふわふわ!」

「九十九博士が仰るには、月にはほとんど重力がないと」

「飛べるって! ちょ、飛んでみろよライドウ! ぴょーんって、ほら!」

 止めようと伸ばした両腕を逆に掴まれ、ライドウの身体はふわりと浮いた。鳴海はそのまま一度脚で地面を思いきり蹴り、まるでライドウを胸の中へ出迎えるようにして後方へ飛んだ。

 身体が宇宙(そら)の海を泳いでいる。
 それはダンスを楽しむように、ほんの星のまたたきほどの間だったが、彼は少年を抱いて、無邪気に微笑んでいた。音もなく、ただただほんとうに、嬉しそうに。
 戸惑っていた少年が叫んだのは空を漂ってからすぐのこと。銀河と月面の地平線を背にして笑う彼の、とてもすばらしい顔を見たときに――心が揺れた。

「いかないで――」

 それはあまりにも軽やかに微笑んでいたから。自由とはこのことと、身体全てで謳歌していたから。

 抱き止められている腕も身体も、なにもかもをなくして、少年はただ、心から叫んだ。


 彼の名を。


 生き物のように、生命のかけらのように、――それはまるで花びらのように――涙が漂う。不思議そうな顔をする彼の面前で。

 暗闇へ消える彼という幻を見たせいだった。
 男が一人孤独に、しかしこの上もなく自由に、穴の中へと落ちていくような、そんな取り残される不安を感じ取った少年は、顔を歪め、鳴海の胸元を力のかぎりに掴み、自らの元へと引き寄せようとした。が、震えてしまって、うまくいかない。
 鳴海は寝姿勢のまま、少年の身体をふんわりと抱き寄せた。ごく自然な力で。少年の強さなどまるで無視するかのように、彼は真空の中で寝転がる。

 彼は海にたゆたうように、仰向けのまま少年の心の重みを抱いていた。

 紫にけぶる屑星の群がきれいだった。
 それより近くにあるこの宝石はもっときれいだった。
 涙を掴み、指先が濡れたことを嬉しく思う。

 この場で共にあることを誰か祝福してはくれないものか。

 メロディを、歓喜の音楽を。

 求める音がどこかからか流れてきた。遠くにある、あの黒い穴から音譜が溢れ出てくるようだった。

 彼は眠るように、幸せな夢を見ているように、瞳を閉じて微笑んだ。
 彼はまごうことなき幸福を得ていた。


「なぁ、俺と同じようにしてみな」

 仰向けに漂ってみなと、彼は少年の身体をずらした。泣き顔を慰めもせずに、星々を見上げさせる。
 オリオン座があった。月からでも見えるのか。少年は背後から抱かれている肩にそっと手を伸ばした。

「世界で、いや、この宇宙で、俺と同じものを見ているのは、ここにいるお前ひとりだよ」

 もっといろんなものを見ようぜ。
 鳴海は手足をばたつかせ、遠くへ遠くへ、泳ぐように歩いていった。
 決して少年の手を離さず、少年もまた、決して彼の手を離さなかった。

 歩いて歩いて、青い星が見えた。
 とても大きなその星が、自分たちが穴を通って来たところだとは、この男にわかるはずもない。
 ただ彼はこう言った。

「涙出そうだよな」

 実際、彼は涙を流した。
 ぽろぽろぽろぽろ、いくつもいくつもこぼした。
 全部が青い星のむこうへ流れていった。帰ろう、帰ろうというように。

「鳴海さん」

 ライドウは垣間見た未来の記憶を話そうとした。
 あれは地球だと。自分たちが住むところなのだと。

 けれど言えなかった。鳴海は月と地球とどちらをより美しいと思うのだろうと。

 今立ち望むこの衛星に何度も喩えられた自らの美しさ。
 そんなもの──この偉大な青い星の前では遠く及ばない気がした。

 彼に涙を流させた目の前の星を、少年は玉響に佇むここで、強く憎む。儚くとも。届かなくとも。
 圧倒されて、それでもなおこの人は僕の隣にいるのだという誇りをもって。

 手を固く握り締めた。

 それは振り払われることもなく、ただ、力を込められることもなく。

 心落ちる痛みを受けた少年の横顔は、翳る月よりも暗く映えた。

 帰り道、鳴海とライドウは白いうさぎを見かけた。
 鳴海はどこかピンときたような、直感が働いたような顔で、真相を告げた。


「俺、罠にかかったうさぎと、死にかけていたもぐらを助けたことがあるんだよ……」


 少年は「へー」と言った。実に冷めた眼差しだった。呆れ返って他に言うこともない。そんな目つきだった。
 そう言いつつも、少年は彼と共にうさぎに向かって手を振った。うさぎも耳をぴょこぴょことさせて、挨拶をした。
 自然、微笑となる。
 サンダルフォンが見えてきた。


 穴から頭を出した鳴海は、「うう」と呻いた。ひどい頭痛に苦しんでいるような顔だ。

「どうしました」

 穴の奥からライドウの声がする。鳴海は穴のふちでぐったりと頭をもたげていた。

「なんか……泳ぎ疲れて砂浜へ出た、みたいな、そんな気分……」

「いいから早く出てください。あとがつかえています」

「わかってるよ」

 ぶつくさ言い、鳴海は這々の体で穴から出たあと、少年の手を掴み、うんと引き起こした。難なく、若さゆえか鍛えているからなのか、ライドウは穴から鳴海の胸元へ帰り着いた。
 ここは鳴海探偵社、鳴海の部屋だ。
 数時間外出しただけで、世間は何の変わりもない。窓の外ではすずめが鳴き、人々は穏やかな生活の音を生んでいる。

「音がありますね」

「あっちでもいい音楽が鳴ってたぜ」

「僕には聞こえませんでした」

「そうか。残念だな」

 鳴海はそう言って少年の身体を抱きしめた。ぎゅっと強く抱きしめた。大切に、大切に。

「どうしたんです」

「泣いてたとき、このくらい強く握っててくれたろう?」

 翳ていた月が、光を帯びた。

「──べ、つに  あなたを、  ……慰めたわけじゃ──」

 言い切らないうちに鳴海は少年の学帽を取り、キスをした。頬の厚みを感じ取ろうというように、添えた指先に力を込める。
 見開いた瞳と、閉じた瞳。やがてどちらも伏せた世界へと落ちていく。
 少年も応えた。いつもより想いをこめて、唇を何度も動かした。甘い息がこぼれる。何も見えない闇が、熱く沁みた。涙だった。


「恩返しにしては、スケールのでかい贈り物だったなぁ……」


 と、これはセックスのあとに呟いた言葉。


 今現在、穴はベッドの下にある。
 真っ黒い穴は消えずに残り、時々、宇宙からの音楽を彼に聞かせる。

 彼はよく眠れるようになった。
 それだけのこと。


 終
 06/12/09(土)