ゆりあう

 シモンは食堂の床でL・クロスを磨いていた。
 背中に伯爵を寄りかからせてだが、今回は磨きに時間がかかった。背後から小さな鼻息が聞こえるくらいに長く。
 それは「まだか」とひそやかに尋ねて(急かして)いるのだが、シモンは聞こえないように作業に没頭していた。
 ろうそくの火が揺らめいている。
 伯爵の視線が背後の様子を伺うように横に流れたが、やがてゆっくりと元のとおりに上向いた。
 気品ある口髭をわずかに揺らして、静かに息をつく。

 背中合わせに青年のぬくもりを感じながら、伯爵は天井のクモの巣に眉をしかめた。神経質そうな細顎が皺を打つ。
 掃除が行き届いていないことを使用人ではなく青年にあたろうとしたそのときに、寄りかかっていた肩が大きく持ち上がった。
 ふっと息をつく音とともにすぐに下がり、うしろに気を遣うように左右にだけ首を動かす。
 そうしてもとの猫背に戻った青年の肩に、なにかがもたれた。伯爵の顎だった。
 感触と重さに驚いて右肩を振り向いたシモンは、その表情にも驚いた。目を閉じている。クロスを視界に入れないようにというつもりだろうが、瞬時に姿勢を変えて狩人の肩に顎を乗せるなんて、この古の城主はいったいなにを考えているのか――「遅い」。

「もう少しだから」
「子供をあやすような言い方をするな。毎日飽きもせずによくもまぁそんなものを」
「毎日磨いているとよく知っているな」
「……大事なものだと聞いたからな」
「それなら待っていてくれるな?」

 無言で引き下がるのもしゃくだったのか、伯爵はぐりぐりと顎を動かした。
 痛みにも似たこそばゆい感覚にシモンの肩がこわばった。

「おい、なにを――」

 少しの沈黙のあと、片膝立ちの姿勢がつらかったのか、伯爵はシモンを後ろから抱きしめて、脚を伸ばした。
 瞳を閉じたまま、鼻をすり寄せて、腹にまわした腕に力をこめる。
 青年のあぐらをかく姿勢に合わせたものだから、大きく開脚している状態だ。
 シモンは困惑したように眉を下げた。
 なんだこれは。なんて格好だ、伝説の吸血鬼がこんな、うしろから密着して、大きなぬいぐるみを抱くように――。

 腹の腕が胸に伸びた。青年はびくついた。下方からあやしく広がる指の動きがもたれかかる体と合わせて胸元に奇妙な圧迫感を生んだ。息苦しくて、重い。

 シモンは不快そうに「やめてくれ、ほんとに」と鼻の当たる距離で伯爵を睨んだ。聞こえていないように顎が動く。くすぐるように、頬ずりするように、うっとりとした重みをこめて。青年の肌が粟立った。盆のくぼや二の腕がぞくぞくとして、全身から力が抜けるようだった。手元には輝きの戻らないL・クロスが鈍く光っている。

 シモンは汗を浮かべながら伯爵の目元を見た。彫りの深い顔立ちは瞳を閉じたまま、たしかに笑っていた。胸元の愛撫はいまも続き、とがりを見せた先端にはあえて触れないように、五指を開いては閉じている。

 シモンはきつく目をつぶった。高い鼻で髪の毛をさぐられ、あらわになった耳に息をふきかけられる。挑発するように、唇が寄せられた。なにごとかを囁く言葉に、細顎が唇の動きに添って青年のたくましい肩を刺激した。

 ん、とシモンは瞳を閉じたままなにかに気づいたように動きを止めた。伯爵の熱っぽい囁きを黙って聞いている様子だったが、やがて抗うのとは違うように首を反対に傾けた。追うように伯爵の顔が寄る。しばらく囁かせてから、シモンは「うん」と言った。「もうちょっと、こっち」

 シモンは肩を差し出して伯爵の顔を導いた。
 クロス磨きで凝り固まった筋肉に伯爵の細顎がいい感じで当たっていたのだ。
 シモンは先ほどまでの焦った様子とはまったく違う表情で、気持ちよさそうに目を閉じていた。
 黙ってごりごりと顎を動かしていた伯爵は、咬みつきたい衝動を押し殺しながら、それはそれは重苦しい声でこう言った。

「わたしは君の肩こりをほぐすためにこんなことをしていたわけでは」
「うん、大好きだ」
「適当なことを言うな!!」

 耳元で怒鳴られてはさすがにこのノリも通せない。シモンは謝りながら伯爵の剣幕をおさえようと、腹部にある、まだ解かれていない抱擁に手を伸ばした。
 みがき布もクロスも床に置かれていた。降参らしい。

「……部屋へ行くか?」

 困ったような微笑を受けて、伯爵の気持ちが落ち着きを取り戻した。以前に青年はこう言っていた。相手の用事すら尊重しないわがままな奴に遣う気は持ち合わせていないと。

 伯爵はフンと息をつき、瞳をとじて、元のとおりに顎を乗せた。すぐに、肩の上ですねるように頭をもたれた。そのまま頬をこすりつけるようにして、腹部へまわす腕に力をこめる。「早く終わらせろ」

 ん、と答えるシモンの声は優しかった。
 うしろでゆりかごのように身を揺らしている彼のために、名残惜しい気持ちで、ゆっくりとクロスを磨きだした。
 早く、しかし、できるだけ長く引き延ばすようにと、背中から伝わる安らいだ動きが、青年にそう語っていた。

 終
 13/05/12(日)

 伯爵様の細顎を肩に乗せられたら痛いような気持ちいいようなという妄想です。